48話
しっかりと鍵を閉め、これからどうしよう…と、一人悩んでいた頃だった。空は雲が覆ったか、また外が暗くなっている。
そんなとき、店の入り口を叩く音が聞こえてきた。
「いるか?」
外から聞こえてきたのは、あのイオという男の声に間違いなく、ロイドの脚が竦み、その場で固まってしまう。この薄い扉一枚の向こうに、あの男がいる。硝子越しにはあの男が着ていた深い暗赤色が見えた。
今此処にいるのは、ロイドのみ。それがどうしょうもなく不安で恐ろしく、この場に居たくないと心が悲鳴を上げている。ロイドは、そんな心の声に従った。
背後からはまだ、イオの声と扉を叩く音がする。けれど、ロイドの心臓はそんな音を掻き消してしまう程に大きく、まるで耳元に心臓があるのかと思える程に、うるさく鳴り響いている。そんな警鐘の音を無視することは出来ず、ロイドは店の出入り口とは反対側へと走り、店の奥に入ってアイーザの屋敷へと続く扉に向かった。アイーザ達と同じ花街の番人だと聞いても、あの男とアイーザ達が同じものだとは到底思えない。これ以上傷つきたくなくて、これ以上心が悲鳴を上げるのを黙っていられなくて、ロイドはそこへ駆け込んだ。
そこは、安全な場所だから────
一方、ルネとアイーザが到着したのは表の世界。都から少し離れた廃都跡であった。其処は大昔、時の皇が建造した都の跡地である。
しかしその都は大火に見舞われ、今はその痕跡を僅かに残すのみとなっていた。そして、一度遷都したものの、そこは地震による地殻変動で水害が増え、今の都を建造するに至ったのだった。
そんな跡地で、二人は降り注ぐ雨など意にも返さず、ただ遠くの黒雲を見ていた。時折雷鳴が此処まで轟き、一度落ち着いていた雨がまた段々と強くなってくる。
「天候すら操るとは…。面倒な…」
「あれが南の堕ちた番人だとすれば、相当厄介ですねぇ…」
向かって来る化け物の正体。それは十中八九、イオの話にあった元南の番人であろう。番人とは、強大な妖力を持つ者が選ばれる。それが堕ちたとなれば、この間の蜘蛛やアヅナエとは比べ物にならず、この世の災厄になりかねない。
それほどに危険な相手だ。差し向けたのは確実にクスナだろう。
「全く、恐ろしく性格の悪い女です」
「そんな女に執着されて…。哀れな弟ですねぇ…」
そんな禍となってしまった男が、暗雲と雷鳴を伴ってやって来た。
雨で烟る視界の先、雨音以外の音が無い静かな暗闇に佇む一人の男。かつては華やかな姿であったに違いないそのかつての番人は、数多を虜にしたであろう色香漂う甘い顔だけを残して、それ以外の部分は完全なるただの化け物と成り果てていた。
かつての栄華の名残りとともに、男の姿が闇の中に稲光と共に浮かび上がる。この場にある朽ち果てた瓦礫とその華やかな顔は、なんとも不釣り合いであった。
「おやおや、見るも無残な…。哀れというか、なんというか…。」
「あんな無様な姿にはなりたくないものですね。情けない」
「それ、貴方が言います?」
「私はまだ堕ちてはいませんから」
そんな化け物の前にあって、二人は変わらず軽口を叩く。男は既に言葉も失ったのか、呻きのような、獣のような唸り声を上げ、口の端からはまるで涎のように暗紫色の粘液が流れ落ちる。時折体内の空気が混じるのか、ごふっ…!と、粘液と共に息を吐き出し、どろどろとした粘液が泡立った。
首から下はずたずたに切り裂かれ、腕は引き千切られたのか、片方は肩から大きく抉り取られ、もう片方は肘から先が無く、その先からは金属で出来た針のようなものが代わりに生えていた。胴体部分は落花からの攻撃か、将又拷問のようなものを受けた跡が見て取れる。白い肌が傷口から腐り落ち、粘液と血液らしき赤が混じり合う事なく男の身体を伝い落ちて、そこを更に腐らせていた。
「そういえば、アレ、知り合いでした?」
「さぁ?記憶にありませんね。そもそも我々、番人の顔見知りなど殆ど居ませんし」
「じゃあ、心置きなく始末できますね」
ルネが楽しそうに彼と向き合う。男の事線に触れたのか、偶然か、形容し難いキーンと響く高音と、地鳴りのような低音を綯い交ぜにしたような雄叫びを上げると、地に落ちた瓦礫がカタカタと音を立て震える。化け物の胴体部から生えている蠍の尾のような形状の硬い甲殻と薔薇のような棘に覆われ、先端に太い針がついた尾が巻き上げられた瓦礫と共に、二人がいた場所へと飛んでくる。
尾が土煙と轟音を響かせ地面に落ちたが、其処には既に二人の姿は無かった。
「番人でありながら、あれ程までに醜悪な見た目となるとは、お労しい…。私なら首切って死にますね」
「妖は何かと美醜に煩いですからね。むしろ、顔が潰れていた方がまだマシだと思いますよ。あれは…」
攻撃を躱した二人は、まだ軽口を叩きあっている。余裕そうだがその実、雨に濡れた着物は重く、髪は顔に張り付き、地面は泥濘み滑りやすく足を取られやすい。
「鬱陶しい…」
「早く終わらせて帰りましょうか。私も嫌気が差してきましたよ…」
最悪な天候に足場、着物は雨と泥に汚れ、張り付く髪が視界の邪魔をする。更に眼前には見目醜悪な化け物。
まだ人の形を残している上半身とは裏腹に、下半身は尾を含め完全なる異形であった。人の上半身と異形の下半身の境目からは肉が腐り落ち、頭蓋骨が覗く人の頭が複数生え、その下にはまるで雀蜂のような形状の口があり、鋸のような歯をガチガチと鳴らし、暗紫色の泡を噴いている。
その下には人間の背骨と肋骨を模した胴体部が繋がり、その内部には鱗が剥げかけた生々しい肉や臓器が脈動し、寄生するかのように植物の蔦がまるで血管のように巣食っている。
そんな肉や臓器を貫いて生えている足は、蠍の足に似ていて、全て骨で出来ていた。当然貫いて生えているので、そこから体液のような暗紫色の液体と赤黒い液体を垂れ流しており、凄まじい腐臭を放っている。
その液体が落ちた場所は腐敗するようで、そこからは得も言われぬ異臭が漂い、落ちた雨がジュッ…!ジュウゥゥ…!と、湯気を立て蒸発していく。
「全く、よりによって…。今は扇が無いというのに…」
「どうしたものですかねぇ…。毒、効くと思います?」
「しるか」
二人がそんな会話を繰り広げている合間も敵の攻撃は止まず、痺れを切らしたか、敵は尾と自らの片腕、毒液を用いて二人を仕留めようとするが、その攻撃は全て躱され、羽織った着物すら掠めることはない。
そんな猛攻の最中にあって、二人の余裕を崩す事は出来なかった。
「冷たいですねぇ…。私、打つ手無しってことで、傍観決め込んでもいいですか?」
「黙れ。武器一つ無い私と、一応武器がある貴方なら、貴方の方が戦力になりますよ」
「あーあ、仕方ない…か。一応試してみますけど…」
そう言って薙ぎ払う尾を躱しながら、ルネが飛刀を放った。しかしそれはカンッ!と、金属同士がぶつかる音を奏でて跳ね返り、傷一つつけることが出来ぬまま地面に散らばった。
「あら〜」
「無様な…」
「酷いなぁ…では、貴方が相手をして頂けます?」
「全く…さっさと済ませ…」
呆れたようにアイーザはそう言いかけ、途端にハッと表情が変わる。
「ロイド…?」
微かに発せられたのは、彼の愛しい花の名前。それを発して直ぐ、アイーザはそのままぴくりとも動かず固まり、その表情は遥か遠くの気配を探っているようであった。そんなアイーザに容赦無く、堕ちた番人は音も無く近付き、片腕の針でアイーザの胸を刺し貫いた。
銀色の太い針が、アイーザの胸に真っ赤な赤色を咲かせる。そのままアイーザの身体は、化け物が腕を持ち上げるままに宙に浮いた。ぶらりと力ない足が揺れ、大量の赤が流れ落ち、地面に赤い水溜りを作っていた。
だが、妖はその程度では死なない。完全に仕留めるなら頭も潰し、その身が肉塊と成り果てるまで、徹底的に殺し尽くさねばならない。だからこそ化け物は、その尾を持ってしてアイーザの頭を潰そうとした。
しかし、それは叶わなかった。
「ゔ…、あ"ぁ"…?」
化け物が不思議そうな声を漏らす。針に貫かれていたアイーザの全身にひびが入り、そこからパラパラと割れた硝子の破片のように、アイーザの身体が崩れていく。髪も服も、何もかもがまるで硝子細工のようにひび割れ、細かく砕け落ちては、地に落ちて赤黒い液体となり、水溜りになって溶けていく。その後、アイーザの形を成していたものが全て砕けて崩れ落ち、針からアイーザの姿は消え、アイーザであった欠片全てが彼の足元にあった赤黒い水溜りと混ざり、その水溜りは地面に吸い込まれるかのように消えていった。




