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46話

 店を出る際にふと、ロイドの目に入ったものがあった。それは、見事な大輪の白い牡丹が描かれた黒地の着物。女物であろうそれは中心の白銀から花弁の先にかけて純白に移ろう大輪の牡丹が、漆黒の夜空に浮かぶ月のように、黒い世界で冴え冴えと光輝き支配している。

 それがどこかアイーザの姿と重なって、その着物から目が離せなかった。きっと、この着物を羽織り、月の光に照らされるアイーザは、この世の何者よりも美しいに違いない。

 そんな着物が目に焼き付いて離れず、ロイドの足はまるで根でも生えたかのようにその場から動けなかった。

「どうかしましたか?」

 アイーザに声をかけられ、ロイドは思考の海から戻って来た。まさか、この着物を纏う姿を妄想していたなんて言えるわけもなく、ロイドは急いでその場を離れた。

 これでようやく全ての用事が終わったり、帰路につこうと話していた矢先、アイーザが忘れ物をしたと来た道を戻って行ってしまった。それならばとルネも少し用事があると言い残してふらりと何処かに消え、取り残されたロイドは一人、往来の真ん中で待たされる羽目になってしまったのだ。


 しかし、こうして一人になってゆっくり周囲を見渡せば、妖の生活も人間の生活も大きな違いは無いように思えた。どちらが生活の様式を寄せたのだろうか。それとも、自然と互いが近付いていったのだろうか。そんな事を考えるだけで、妖であるアイーザと人間である自分との距離が段々と近くなっている気がして、思わず笑みが溢れてしまう。

「ふふ…」

 一人で笑っていたから人目に付いたのだろうか、そんなロイドに声をかけてきた者がいた。

「ん?こんなところで…珍しいな」

 声をかけてきたのは鳶色の髪をした男で、片目を隠し、襟足を伸ばした髪を茜色の髪紐で束ね、深い暗赤色の着物を着たロイドよりも背の高い中性的な顔の美しい男だった。ルネやアイーザよりは少し低いだろうか。此処に居るということは、彼もまた妖なのだろう。

「えっと…」

「あぁ…、すまんな。此方で花などそうそう見んからつい、声をかけてみたくなった」

「え!?あの…!」

 花だとばれている。その事実にロイドは焦った。

 花は妖を呼び、妖に狙われる存在だと聞いていたから、こんな往来でばらされるとは思いもしなかったのだ。

「安心しろ。そんなおっかないモノをつけているお前を、どうにかしようなんぞという輩は此処にはいないよ」

「そう…なんですか…?」

「それをつけたのは都の番人だろう?彼処の双子は何かと物騒なことで有名だからな」

 それでも手を出そうとするような奴はただの阿呆だと、男は着物の袖で口元を隠しながらカラカラと笑った。

 ロイドはそんな男の顔をじっと見る。何か…何かが引っ掛かるのだ。ロイドは多分、この男を知っている気がする…。

 では、それはいつ、何処で?自問自答を繰り返しながら見ていると揺れ動いた前髪の奥、唯一見えている彼の左目の下に、小さな泣き黒子がある事に気が付いた。そして、彼の瞳は、紅茶のような赤みの強い茶色…。

「貴方は…」

「ん…?」

 ロイドの顔が青褪めていく。脚ががくがくと震えだし、この場から立ち去りたくて仕方ない。アイーザ達を待たないと…。いや、それよりも、この男のそばに居たくない。だって…だって、この男は…。


 ロイドは花ではないと否定した。あの時の男だからだ。


 何処かへ逃げたい。では、何処へ?あぁ、今のロイドには逃げ場所がある。アイーザ…アイーザのもとへ行きたい。あの声を聞いて、あの腕に抱きしめてもらえれば、この恐怖も不安も消えるに違いない。ロイドは組紐をぎゅっ…と強く握りしめ、無理矢理震える脚を動かそうとしたその時、ロイドを呼ぶ声がした。

「ロイド…?その男は…」

 その声は、今どうしても聞きたくて堪らない、愛しい男の声だった。

「アイーザ…!」

 ロイドの脚の震えは収まり、自然とそちらへと向いた。横を向けば、彼が居て、彼の青紫色がロイドの不安の闇を切り裂き、息苦しいと感じていた筈なのに、彼の香りがあるだけで、自然と呼吸ができるようになった。ロイドは走ってアイーザの背後へと隠れる。ロイドがぴったりとアイーザの背にくっついているので、彼の震えがアイーザにも伝わる。その震えはロイドが彼の目の前にいた男に、はっきりと恐怖を感じているのがわかるほどに悲痛なものであった。

「何をしたんです?」

「やめてくれ。俺はただ、此方側に…それも、お前のお手付きの花が居るのが気になって、つい、声をかけただけだ…」

「それだけのことで、これほど恐怖するとは思えませんが…?」

「そう言われてもなぁ…。俺には本当に心当たりが無い」

 すると背後から、アイーザにしか聞こえぬ震えたか細い声が聞こえた。

「ロイド…?」

「この人…。この人、なんです…。私は…花ではないと、言ったのは…」

 それは、幼い頃に受けたはじめての己の存在の否定であった。それはロイドの中に暗い影を落とし、払拭しようともしきれぬ傷跡を残している。そのせいでロイドは花街の中に居場所を無くし、御屋敷で働いている間も己の存在理由は朧げなまま、アイーザと出会う事でようやくはっきりとした形を得たと思ったのに。

 もう、大丈夫だと思ったのに、あのトラウマはまだロイドの中に根深く巣食っており、今はただ、アイーザという存在が居てくれていたから大人しくしていただけなのだと自覚させられてしまった。

「なるほど…貴方ですか。ロイドに花ではないと言った節穴は」

「花ではない…?はて…?」

 男はふむ…と、悩みはじめる。そして、アイーザの背後を見透かすように、じーっとロイドが居るであろう場所を見つめていた。そして、それから少しして、あぁ…!と、何かを思い出したらしい声を上げる。

「お前、もしや…。華夜楼にいた子供か?」

「はい…」

 アイーザの背後から、ロイドの肯定する声だけが聞こえた。アイーザはロイドの様子を僅かに首を傾けて伺っていた。震えは収まったようだが、ロイドはまだべったりとアイーザに引っ付いたまま、その両手はアイーザが肩に羽織る派手な着物をぎゅうっと握りしめている。

「用がないのなら、さっさと我々の視界から消えて頂けますか?」

「すまないが、残念だが用事がある。それも、番人の一人としての用だ」

 アイーザはロイドを背に庇いながら、眉間の皺を深めつつも、無言で話の続きを促した。

「南の花街に落花が出た。街は辛うじて無事だが、番人が落花の手に堕ちたと聞く。後任は既に決まり、街も復興に向かって動いている…が…」

「なんです?」

「どうやらその落花は、そこの花街の花ではないようでな。なんでも、赤い椿の落花であるらしい…」

「クスナが、動いていましたか…」

 ロイドは黙ってアイーザの背後で二人の会話を聞いていた。あのアヅナエの事件も、今回の事件も、全てクスナが絡んでいる。真の目的は定かではないが、あれほどアイーザに執着していたのだ。きっとまた、彼女はアイーザの前に現れるだろう…。

「やはり知っていたか…。その落花がお前の名を呼んでいたという報告もあってな、気になってお前達のところへ向かっていたというわけだ…」

「報告ありがとうございます。ですが、鴉に頼めば済むものを、わざわざ出向く必要はなかったのでは?」

「なに、お前が花を愛でていると風の噂で聞いてな。わざわざ地雷を抱え込むなどと、どれほど見事な花なのか気になっただけだ」

「そうですか。では、もう用はありませんね」

 話は終わりだというように、アイーザはロイドを連れて来た道を戻ろうとする。しかし、背後の男はアイーザを呼び止めた。

「お前のそれが、自らの首を絞める行為だと分かっているのか?もう一度踏み外せば、もう戻っては来れんぞ?」

 男の顔は真剣であった。何がそんなに危険なことなのか、ロイドにはよくわかっていない。ただ、自分という存在が、アイーザの首を絞めているということだけはわかる。けれど、ロイドの肩を抱くアイーザの手が怒りに震え、血の気が失せ、青白くなり、酷く冷たくなっていく。だが、ロイドはアイーザの顔を見ることが出来ない。だからこそロイドは、自らの手を、ロイドの肩を抱く手にそっと重ねるだけにとどめた。

「えぇ、承知の上です。戻る気もありませんよ。最後まで共にすると決めていますから」

 アイーザが男を振り返り、そう返した。その声はロイドには普段と変わらぬ声に聞こえた。しかし、男は違った。

 男の頬に冷や汗が流れる。まるで首元に刃を当てられているような、一歩でも動けば、即座に首を落とされるような感覚。まさに、濁りの無い、澄み渡るかの如く真っ直ぐなアイーザの暗い殺意が、男の首元に当てられていた。

「お前…まさか巻き込む気か?」

 男を見るアイーザの顔は、それはそれは冷たく、ただただ恐怖を感じるほどに恐ろしい。しかし、此処で引くわけにはいかない。だからこそ、死を覚悟してでも、彼は口を噤むわけにはいかなかった。

「別に…。ただ、二人だけならいいと、常に思っているだけです」

 アイーザは動かなかった。殺意こそ向けられているものの、今此処で、自分を殺す気はないらしいと判断した男は、少しだけ気を緩めた。

「フッ…、蛇の執念は恐ろしいな…。哀れな花だ。そんな蛇に目をつけられて…」

「もういいですか?今後、二度と出会わない事を願っています。次に会ったら、その場で貴方を殺してしまいそうなので」

 アイーザはもう、男を振り向く事はしなかった。ただ前を向き、ロイドの肩を抱いて歩く。背後にはまだ男の気配があったが、向こうももう、呼び止める気はないらしい。

 男の気配が無くなるまで、ロイドは生きた心地がしなかった。けれど、アイーザが自分のために怒ってくれたという事実が、少しだけロイドの心を軽くする。まだ、彼の中には怒りが燻っているようだが、それすらも、ロイドにとっては嬉しいと感じるものだった。



 


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