37話
その背後で、ゆらりと立ち上がる影があった。膝の上にあった男の亡骸がごろりと転がるのも気にせず、幽鬼のようにアヅナエが立ち上がったのだ。
「アヅちゃん…」
クズシノが悲痛に震える声で彼女の名を呼ぶも、アヅナエの返事は無く、ただくつくつと小さく笑う不気味な声だけが微かに聞こえるのみだった。
それは、ルネとアイーザにしか見えない光景だった。
ゆらりと立ち上がったアヅナエの背後にある一本の紅梅の木。その枝先には、まだ完全に咲ききらない梅の花が数多ついていたに違いない。
満開に咲き誇れば、それは見事なものとなっていたであろうその光景は、もう二度と見ることはできない。何故ならその赤い花は開花を待たずに散り、今、最後の一輪が地に落ちたからだ。
それは、アヅナエがもう花ではなく、落花と成り果てた事を示していた。
「哀れな…」
「まぁ、あぁなってしまえばもう、刈り取るより他ありませんし…」
二人の言葉に反応したのは、クズシノだった。
「刈り取る…?まさか、殺すっていうの!?」
「堕ちてしまえばもう、我々の守る対象ではありませんからねぇ…」
「害する側に回った者を、我々は看過することは出来ません」
二人の目はもう、花娘であったアヅナエではなく、落花となってしまったアヅナエだったものとして彼女を見ていた。
それに気づいてしまったクズシノは、二人の前に立ちはだかった。
「やめて!アヅナエを殺さないで!」
「彼女はもうアヅナエではありませんよ?」
「己の敵が何か判断できないというのなら、貴女も排除対象になりますが?」
クズシノが二人を睨み付けていると、彼女の背後から黒い影が現れ、クズシノの背を斬りつけようと腕を振り下ろす。咄嗟にルネがクズシノの腕を掴み、乱暴に畳の上に引き倒すと、アイーザが閉じた鉄扇でその腕を受け止めた。
その正体はやはり落花となったアヅナエで、彼女の手は手の平が縮小し、代わりに指が異様に伸びて、その関節は虫の脚を彷彿させる。その指先は錐のように鋭く尖っており、アイーザの檜扇とぶつかり合うと、ぎりぎりと金属が擦れ合う音が響いた。
「アヅちゃん…」
畳に引き倒されたクズシノが、絶望した眼差しで変わり果てた彼女を見ていた。
片手で受け止めていたアイーザはアヅナエの手を押し返し、その隙に扇子を開くと、その手を切り払って距離を取る。アイーザはその指を斬り落とそうと扇を振るったのだが、アヅナエの指は異様に硬質で、ぎゃりぎゃりと音を立てて火花が散り、僅かに指を傷つけただけであった。
「手入れを怠ったんじゃありませんか?」
「先日研ぎに出したばかりですよ」
ルネとアイーザがアヅナエと睨み合う。しかし、アヅナエが標的としたのは一人蚊帳の外にいたロイドであった。
「ろ"い"ぢゃあ"ぁぁん"!!」
その声は人が出せる音ではなく、酷くざらざらとした雑音混じりの、男が女かも分からない声だった。
アヅナエがロイドに向かって来る。ルネもアイーザも阻止しようとしたが、彼女の指からバッタの脚の様なぎざぎざとした棘の様なものが生え、それを四方八方滅茶苦茶に振り回しながら進むので、迂闊に近付く事が出来ず、彼女の攻撃範囲にロイドが入ってしまうのを止められなかった。
「ロイド!」
アイーザがロイドの名を叫ぶ。しかしロイドはその場から逃げようとはせず、静かに彼女と対峙すると、組紐が巻かれた手をアヅナエに翳した。
ロイドの胸を突き破ろうと伸ばされた手が、ロイドの手に阻まれる。組紐は青紫色の異質な暗い光を放ち、鋭い爪先がその光によって焼け爛れ、炭となっていく。
アヅナエは指を引っ込めようと動いたが、それよりも先にロイドの手が彼女の指を掴み、組紐の光によって焼かれていく。
「ぎゃあ"あ"ぁぁぁ…!」
咆哮のような悲鳴が響いた。しかし、ロイドの手はアヅナエの指を離さない。彼女の指は段々と黒く染まり、炭化が広がっていく。それでも、ロイドは手を離さそうとはしなかった。
「もう止めましょう。アヅ姉ちゃん…」
悲しみに塗れた表情のロイドが、幼い子供に言い聞かせる様な優しい声で彼女に言う。その声は湿り気を帯びており、まるで泣いているかのように聞こえた。
だが、アヅナエにはもうロイドの声は届いておらず、化け物となった彼女はただ痛みに悶え、その元凶から離れようと必死になっていた。それ故に、何度も何度も、もう片方の手でロイドを攻撃するが、それは組紐に弾かれ、焼け跡が広がっていくばかり。
その隙に、横から現れたアイーザがロイドを攻撃する腕を肘の辺りから音もなく斬り落とした。
黒い鉄扇の刀身は僅かに青紫色を帯びて、焔のような揺らめきをみせ、彼の妖力を纏っている。
「少し実力を見せねばなりませんか、全くもって忌々しい…」
そう言ってアイーザは扇を翻し、もう片方の腕をも容赦無く斬り落とした。
「私のロイドを散らそうなどと…。なんと愚かな…」
「アイーザ…」
「直ぐに片を付けます。これ以上、貴方に危害を加えられては堪りませんから」
アイーザがそう言ったのも束の間、何やら障子の奥が騒がしくなってくる。ロイドが不安に思いそちらへ駆けつけ、障子を開け放つと、そこは荒れ果てた庭となっており、そこにはアヅナエが抱いていた様な男達の亡骸が呻きをあげて、地を這いずり回っていた。
中には縁側の縁に手をかけて登って来ようとする者もいて、ロイドは思わず小さな悲鳴を上げて後退った。
そんな屍共とロイドの間に立ったのはルネで、彼は懐から青い硝子製の小瓶を取り出した。
「ロイド、クズシノさん。私がこの蓋を開けたら、良いと言うまで、絶対に息をしないでくださいね」
何故?とは二人は聞かなかった。
先程のルネの飛刀、その毒の威力は、嫌というほど目に焼き付いている。だからこそ二人は息を止め、その様子を見守った。
ルネはそれを確認すると、きゅぽんと小気味いい音を立て、硝子瓶の栓を抜いた。それを蔓延る屍達がいる庭へと中身を振り撒くと、すかさず扇子に持ち替え、二度扇子を薙ぐように用いて大きく風を起こし、振り撒いた毒液がまるで霧吹きから吹き出たかのような細かい霧状に変化し、全ての屍達に降り掛かる。
そして、降り掛かった屍達は立処に肉が溶け骨が砕けはじめた。
「二人とも、もう大丈夫ですよ」
ルネが普段通りの笑みで二人に振り向く。ロイドとクズシノは、はぁ…と一度息を吐いて。ゆっくりと呼吸を取り戻した。




