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29話

 その事に目敏く気が付いた女は、早くロイドを始末してしまおうと、ロイドの首元目がけて襲い掛かった。彼女の長く伸びた鋭利な刃物のような爪が、ロイドの首筋へ触れるその瞬間、女の身体が青紫色の炎に包まれる。

「ギャアァァ…!」

 女の悲鳴が上がり、ロイドは思わず立ち止まり振り返る。すると、女が炎に包まれながら地面に這い蹲り、悲鳴は収まる事がない。

 ロイドが余りに凄惨な光景に目を背け後退ると、もう一度ロイドの影が揺らめいた。

「何…?」

 ロイドの足元にある黒い水面がとぷん…と、揺れて、そこから白く長い指先がゆっくりと伸びてくる。指先から、手の平、手首と姿を現すそれは、黒い水を纏い、長く伸びる白と滴る黒のコントラストが美しい。手の平はロイドに向けられ、まるでロイドを心の底から求めているかのように、一本だったものが二本に増え、黒い水が絡みつく両腕がロイドに向かって伸びてくる。底の見えない光も差さぬ真っ黒な沼の水底から、確実に何かが這い出てきている。

 けれど、ロイドはそれに恐れるどころか、何処か安心感を得たような笑みを浮かべ、自らの両手を広げ、その手を迎え入れた。

「アイーザ…」


 ロイドの手から滑り落ちた買い物袋が地面に落ち、ばしゃ…っ、と水音を立てる。気が付けば、ロイドの影を中心に黒い水面が大きく広がっている。

 それはゆらゆらと波打ち、地面に落ちた買い物袋がずぶずぶと沈み込んで行く。けれどロイドの意識は其処には無く、また、炎に包まれ悲鳴を上げることすらできなくなった女にも無く、水の底から浮かび上がって来る一人の男に向けられていた。

 自らの腰を曲げ、上半身を水面と水平になるように倒す。伸びた白い腕がロイドの腕や身体に絡みつき、その身が一気に浮き上がると、ロイドの身体を抱きしめ、首へと伸びた手がロイドの後頭部を固定する。

 そして、ロイドの唇は、水から出てきたアイーザの唇に塞がれた。ロイドは黒い水が細い糸のように滴っているアイーザを受け入れ、彼が纏う黒い着物にしがみついた。

 

 アイーザの濡れた唇がロイドの唇から離れると、アイーザの腕がしっかりとロイドを抱きしめ、ロイドの身体が水面から浮き上がる。

 アイーザが水柱を立てて水中から飛び上がり、水飛沫が黒真珠のように煌めいては黒い水に呑まれていく。そんな光景も、ロイドの目には映らない。

 彼の翡翠のような瞳には、優しく微笑むアイーザの青紫色の瞳だけが映っていた。


「迎えに来てくれたんですか?」

「ええ、貴方が心配で」

「ふふ…、嬉しいです」

 そんな会話をしながら二人はゆっくりと地面へと音もなく降りてくる。地面を覆っていた黒い水はアイーザが立てた水柱とともに伸びて空へ昇り、空中で一塊となると、地に降り立ったアイーザの頭上で黒く薄い布地のように広がり、彼の肩にふわりと舞い降りると、普段彼が肩にかけているような女物の、流水文様が美しい黒い羽織へと変わる。

 その頃には例の女は黒く焼け焦げた痕となっていた。燃え残る青紫色の炎の中に所々焼け焦げている赤い椿の花が一輪落ちていた。

「あれは…」

 そう言ってロイドがアイーザの袖を引いて知らせると、アイーザが一人焼け跡に近づき、その花に触れようとした。しかし、アイーザが触れる前に花は赤い炎で燃え上がり、花の形を保ったまま真っ黒な炭となり、直ぐに崩れ落ちて灰となってしまった。

「椿ですか…」

「アイーザ、あの人って…」

「やはり落花の仕業のようですね。それも、手の込んだ身代わりを用意できる程にまで堕ちた、かなりの愚か者のようです」

「身代わり?」

「自身が咲かせた花に妖力を吹き込み、自らの形を取らせたのでしょうね。いわば式神のようなものです」

「じゃあ、また襲って来ますかね?」

「来るでしょうね。ただの人では食い足りなくなったんでしょう…」

 アイーザは平素の顔でそう言うが、どうにもロイドには、そのためだけに襲って来たわけではないように思えた。狙いはロイドか、アイーザを狙っているのかもしれない。

 そう思うのにロイドがアイーザに言えなかったのは、彼の顔が一瞬だけ、灰となった椿を忌々しげに見つめていたのが見えたからだ。


 きっと、アイーザはこの真相に気が付いている。そうでなくとも、あの女の狙いや、目的、もしかすると、その正体さえも…。

 ロイドはアイーザに問い質したかったが、アイーザが纏う空気が、ロイドには話す気が無いと告げている。アイーザは、ロイドを巻き込みたくないのだろう。

 それをロイドは素直に受け入れた。何せ、ロイドには何もできない。

 妖退治なんて無理だし、そもそもロイドは花街で育った事もあってか、そういった事とは無縁だからだ。足手纏になるくらいなら、ロイドは信じて待つ道を選ぶ。

 アイーザはロイドを絶対に一人になどしない。もし、アイーザが傷ついたのなら、付きっきりで看病すれば良いのだし。最悪、彼の身に不幸が舞い降りて、その命を落とす事になったとしても、ロイドにはアイーザと何処までも、最期の時まで共に逝くと決めている。

 だから、ロイドは笑ってアイーザを送り出し、あの屋敷で、彼の帰りを待っていればいいのだ。それが、自分にできること。

「アイーザ、調べることがあるなら、私は先に帰りま…」

 すけど。と、ロイドが言い切ろうとしたその時、紫色の空に大きな亀裂が走った。みしっ、ぴきっ、びきびき…っと、いう異音を立てて、空全体に亀裂が増えていく。

 空はまるで鏡に映っていた映像であったかのように、突如として現実味を無くし、板のようになった空からぱらぱらと破片が降ってくる。

 地面にも地割れが起き、その割れ目が広がっていく。ロイドの足元にもそれが広がり、ロイドは思わずアイーザにしがみつく。

「あの女の結界が崩れはじめましたか…」

「結界!?え…、このまま此処に居ていいんですか…?」

「駄目ですね。このまま居ると我々も結界の崩壊に飲み込まれ、空間の消滅と共に消滅します」

「え!?まずいじゃないですか!」

「えぇ。ですから、先ずは此処から出ましょうか。掴まっていてくださいね」

 アイーザが羽織っていた羽織を上空に投げる。ばさっと羽織が大きく広がり、それが布地から段々と真っ黒な水面に変化し、二人の頭上から水面が落ちてくる。

 アイーザとロイドはそんな黒い水面に呑まれていく。水面は平面的で、奥行きは無い。呑まれていアイーザとロイドの姿はそんな平面の水面を突き抜ける事なく、その黒い水が全く別の場所へ繋がっている事がわかる。

 二人の足までもすっかり水の中に消えると、黒い水は地面に落ち、その広さを段々と縮めていく。そして、地面に吸い込まれるかのように、とぷん…と、僅かな音だけを立てて跡形も無く水は消えてしまった。




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