27話
夜香堂に帰宅して直ぐ、ルネは一旦花街で聞き込みをしてくると言って出ていってしまった。ロイドはアイーザと共にあの彫り装飾が施された扉を通って、アイーザの自宅へと戻って来ていた。
「やっぱりこの御屋敷は、アイーザの自宅だったんですね」
「慌ただしかったので、説明するのを忘れていましたね」
「すみません、私のせいで…」
「いいえ、私も失念していました」
二人はそんな会話をしながら並んで廊下を歩き、リビングへと到着し、アイーザとロイドは並んで黒い革張りのソファへと座る。
「アイーザ、今更ですけど…。おはようございます」
「気にしていたんですか?おはようございます」
座って直ぐの開口一番、ロイドは少し照れくさそうにアイーザにそう言った。アイーザも気にしていたのか?と言うものの、口角が僅かに上がっている。
「少し…。今度からは一番にアイーザに挨拶しますからね」
「これから此処で毎日顔を合わせるというのに、私に挨拶をしてくれないんですか?」
「え?でも、ルネは…?」
「あれは店に住んでいますから、此処には来ません」
「じゃあ、絶対にアイーザが一番になりますね」
嵐の前の静けさのような、ほんの僅かな穏やかな時間。ロイドはもう少しだけこの甘い時間に浸っていたかったが、それは無理な事であるということも理解している。
何より、花街はロイドが生まれ育った街だ。今回の事件は花が引き起こしているとすれば、花街にも何かしらの影響を及ぼすかもしれない。自分がアイーザを引き止めたせいでそんなことになったとしたら、ロイドは自分を許せないし、アイーザにだって迷惑となるだろう。
だから、ロイドは強く自らの口を噤み、アイーザを送り出すと決めていた。けれど、それは堕ちた花が何たるかを聞いてから。やはり、もう少しだけアイーザといたいというロイドの我儘だ。
アイーザはそれを知ってか知らずか、ロイドの願いに応えてくれる。
「では、本題に入りましょうか。これは、花である貴方にも重要な話です。しっかりと聞いてくださいね」
「わかりました…」
ロイドが固唾を呑み、真剣な面持ちでアイーザに向き合う。そんなロイドの様子を確認してから、アイーザは堕ちた花について話はじめた。
「堕ちた妖の末路を、貴方は見たことがありますね。何故妖が堕ちるのか…。それは、妖が魂の均衡を歪めてしまうことで、妖力が暴走するからに他なりません」
「妖力が…?」
「ええ、つまり、妖力があるからこそ、妖は堕ちる可能性を常に孕んでいる…ということです」
妖が自らの魂の均衡を崩す原因は多々あるが、特に多いのが花に関連するものである。あの大蜘蛛のように花に焦がれ、花を欲して自らを歪める者が後を絶たなかった。
そうして歪んだ魂の隙間に、暴走し始めた妖力が入り込み、己の欲望と共鳴し、魂は欲望と力に呑まれ堕落する。そうして本来の姿も忘れ、あのような化け物になってしまうのだそうだ。
そして、花もまた妖力を持っている。大なり小なりの違いはあれど、そんな花達もまた、妖同様に堕ちる可能性を秘めているのだそうだ。
「そんな堕ちた花達を、我々は落花と呼んでいます」
落花は人を虜にし、その生気を奪い生きるようになるという。まさに、魔性の花と呼ぶに相応しい、美しく恐ろしい花なのだそうだ。
その香りはまるで腐った果実を想起させるような、噎せ返る程に甘く、何処か苦くて毒々しい色香を纏うかのような香りを放つようになるらしい。その香りは満開の花よりも強く、広範囲に渡って香りを振り撒き、数多の者達を誘う。
そして、その香りと美貌に魅了されてしまった者達は、何でも感でも落花へと捧げるようになり、やがては自らの命さえも差し出すのだそうだ。
「とはいえ、花が堕ちる事は本当に稀です。花街を創設し、それからの幾星霜、花が堕ちたのは二度だけです」
花街は古くは郭と呼ばれており、その頃はただ花である者達を助け匿うだけの一区画に過ぎなかった。今のような大門も、華夜楼のような店も、置屋もなく、ただ花達は其処で静かに身を潜めて暮らしていた。
それからは法が整備され、花は身を潜める者ではなく、囲いの中で咲き誇り、夜を彩る者達へと変貌を遂げた。また郭では客が来ないと言って、郭は花達や客の間で花街と呼ばれるようになる。そうして花街に最初の店、華夜楼が建ち、それから段々と今のような街へと姿形を変え、現在に至る。そんな長い歴史を持つ花街は、そんな前身の姿を含めるとざっと六百年もの間、この都に存在してきた。古い区画の一つであった。
そんな中で、二度しか落花となった者はいないというのだから、本当に稀なことなのだろう。
「あの、どうしてその二人は落花となってしまったんですか?」
「最初に落ちたのは女、その次が男でしたが、どちらも端的に言えば痴情の縺れ、色恋に関する事が原因でしたね」
「恋…」
最初の女が落花となったのは、まだ郭という存在すら都に無く、ルネもアイーザも花街の番人ではなく、ただの妖の一人であった頃のことだった。
その頃の花達は自らが花だとバレぬように生きていた。自らの顔に泥を塗り、花の匂いがバレぬように態とその身を汚していた。そんな花達を守らねばならないと、宮中で声を発する者がいた。その後議論を重ね、国を挙げて花という存在を守ることが取り決められた。そのため都では、花達が生活するための地区を作ろうと土地が整備され、その為の家屋が建設されはじめ、都には少しずつ花が集まり始めていた時期のことであった。
その地区ができるまでの間、花は別の地区で一固めにされ生活していた。其処に住んでいた女とその地区の警備を任されていた兵士の男一人が恋に落ちた。
二人は順調に関係を深めていったが、そんなある日、男が何者かに殺された。何故男が殺されたのか…噂では、その女に恋慕していた別の男が嫉妬に狂い、男を殺したという。
しかしそれも噂程度で、結局犯人は分からぬままであった。そして、女は狂った。何故、堕ちた花が落花と呼ばれるようになったのか、それはその女の花が椿に似ており、女が闇に堕ちる姿が美しい花の姿のままで地面に落ちる椿の散り方と重なったために落花と呼ばれるようになった。
そんな堕ちた花は最早人間では無く、堕ちた妖と同じになり、力こそ妖には及ばぬものの、人間では太刀打ちすらできなくなってしまう。そこで、女の討伐のためにルネとアイーザに白羽の矢が立ち、女を討伐後、彼等が番人となったのだった。
二番目の落花が現れたのは郭が花街に変わる境の頃のことだった。花であった男は、自らの客であった女に一方的な恋心を抱いた。最初はそんな片思いでも良かったらしく、彼は女がやって来る度に優しく微笑むだけだった。
それから、どれほどの月日が流れた頃だろうか、段々と女の脚が男から遠のき、男の顔には毎日涙の跡ができるようになった頃、女が神妙な面持ちで男の前に現れた。
「ごめんなさい。もう、貴方には会えないわ」
「どうして…」
彼女には、許婚がいた。男もその事は知っていた。
何故男がそれでも女を愛していたか…。それは、男がそんな許婚の存在すらも気にならない程に女を愛していたことも理由としてあったが、何よりもその女が許婚と上手く行っていないと、毎夜のように男に話していたのもあったろう。
けれど、そんな二人がとうとう結婚する運びとなったという。最初こそ女と許婚は上手くいっていなかったが、段々と二人での生活というものが現実味を帯びて、何度も真剣に話し合い、意気投合したというのだ。
それを聞いた男は、花を落とした。男は女と心中しようとしたものの、落花となってしまった男はその程度では死ねるわけもなく、逝ったのは女のみであった。それにすら男は嘆き悲しみ、女を殺された婚約者が男に襲いかかったものの返り討ちにされ、許婚もまた女の元へ逝ってしまった。
男は絶望し、もう全てを終わらせたい殺して欲しいと志願した。血塗れに汚れ、許婚を殺した直後の姿のまま、男はルネとアイーザのもとに現れ、自らの首を差し出したのだった。
 




