23話
ロイドは真っ暗な部屋でゆっくりと目を覚ました。なんだか、とても苦しかった気がする。でも今は、そんな苦しみなど一時の悪夢か何かであったのだろうと思える程に、不思議とどこか温かい何かに心が満たされている気がした。
ふかふかと温かい感触が、此処は屋敷ではないのだとロイドに告げている。見慣れぬ天井をぼんやりと見つめながら、此処は何処だろう?と静かに疑問に思った。
窓からは月明かり一つ差すことはなく、ただ真っ暗な闇が続いている。けれど、それに恐怖を感じなかったのは、この部屋全体が、アイーザの纏う夜の香りで満たされていたからだ。
「…………好き……、だなぁ…」
まだ微睡みの淵にいるロイドは、回らぬ舌でそう呟いて、また眠りの世界へと沈んでいく。途中、夢の中で、とても心地良い場所にいた様な気がしたのだが、そんな意識は眠気の波に攫われて、何処かへ消えてしまった。
翌朝…というには外が暗く、本当に夜が明けたのかも若干怪し気だったが、ロイドの目ははっきりと覚めていたので、朝という事にしようと半ば強引に決めていた。
アイーザの香りに包まれていたからか、本当にぐっすりと眠っていたようで、すっかりロイドは調子を取り戻していた。ふと、手首の痛みが消えていることに気が付く。そこには綺麗な肌があるだけで、あの鮮やかな青紫色も消えていた。少し残念に思いながらも、ロイドは直ぐにそれどころではなくなった。静かな部屋に、ぐうぅぅ…と、大きな音が響き渡る。
「お腹空きました…」
昨日、夜香堂に到着して直ぐに寝落ちしたため、ロイドの胃はすっかり空っぽになってしまっている。ベッドの横に置かれている小さなテーブルに、硝子の水差しとコップが置かれていたので喉を潤す事は出来たが、水で腹は満たされなかった。
アイーザを待つことも考えたが、空腹はもう限界を迎えていたため、ロイドは仕方なく部屋を出て食べ物を探す事にした。
此処が夜香堂がある場所とは違う事に、ロイドは気が付いていた。朝、目が覚めて、からからの喉を潤すために水を煽り、のろのろとベッドから下りて、窓の外を見ていたのだ。
そこには、市街とは全く違う景色が広がっていて、流石のロイドにも理解できたのだった。それでも不安が無いのは、アイーザが妖だと知っているから、ということもあるだろう。
そして、部屋を出たロイドは廊下をふらふらと歩き回り、ようやく台所を見つけることに成功した。色々と歩き回った結果、気付いたことがある。それは此処には自分とアイーザ以外の人や妖は居ないようだということだった。
となれば、当然人間はロイドしか存在しないということになり、ロイドは大きな不安と懸念に襲われた。妖であるアイーザが人間と同様の食事を必要とするのかわからない。
ロイド達のような花の蜜を好む者もいるとは言っていたし、アイーザ達も蜜を食す事はあると言っていたから、食事自体はするのだろうが。もしかすると此処には、米やパン、野菜やちょっとした果物や肉さえも無いような気がしてきた。
仮に多少はあったとしても───
「私が食べて良い物なのか、わからないんですよねぇ…」
お行儀悪いという事は重々承知しているがあまりの空腹に耐えきれず、他所様の台所を物色しながら、ロイドはそう一人ごちる。アイーザには後でしっかりと謝罪しようと思いながら、ロイドは冷蔵庫を開けた。
結局、この台所には冷蔵庫やオーブン、立派なコンロなど必要な家電や器具が完全に揃っているというのに、食料と呼べるものは何も無かった。その現実を目の当たりにして、ロイドの腹の虫は更に激しく泣き叫びはじめる。
「予想が的中するなんて…。お腹空いたぁ…」
もう叫ぶ余力も無く、ロイドはその場にへたり込んでしまった。何でも良い。何か食べたい。お腹空いた。そんな考えばかりが頭の中をぐるぐるとしている。
アイーザを探して食料を買いに行けないものか…。いや、それよりも先ず、空腹過ぎてロイドがこの場から動く事もできない。もしかすると、ロイドはこの場でアイーザにも見つけてもらえず、干乾びて餓死…。なんて、絶対にありえないような結末の妄想までし始めていた。
もう幻でもいいから、いま冷蔵庫を開けたら、中には食材がぎっしりと詰まっていて、調理器具達が簡単な食事を作ってくれたりしないかなぁ…。なんて、夢のようなことを考えながら、ロイドは何も入っていなかった冷蔵庫を開ける。
すると其処には、硝子の瓶が一つだけ入っているのが見えた。大きさは小ぶりのジャムの瓶くらいだろうか。コルク栓で閉じられた何の変哲もない硝子瓶の中には、とろりとした黄金色の液体が半分ほど入っている。
ロイドは思わずそれを手に取り、栓を開けてしまう。鼻を近づけ匂いを確認する。
何とも危機感の無い行動だが、あまりの空腹と、アイーザ個人の領域というロイド個人の勝手な思い込みによる安心感で、不思議とこの瓶は危険なものではないという考えがロイドの中にはあった。
「蜂蜜…?」
甘く豊かな香りの中に、強い花の香りを感じる。ロイドの知っている蜂蜜の香りとは違う気がしたが、以前屋敷の女中が、どの花から蜜を採取したかで香りが変わると聞いたことがあるため、これは屋敷で使われていた蜂蜜とは違うだけのことだろうと、ロイドは結論付けた。
瓶の中に人差し指を突っ込み、蜜を掬い取る。思ったよりも柔らかく、とろとろとしていて指に絡みつき、つぅ…っと金色の糸を引いた。
自身の目の前に金色が絡みつく指を持ってきて、その指に蜜が伝うのを見ていると、口内には唾液が溢れ出す。せめてそれだけでも食べたいと、腹の虫が大暴れだ。
ロイドはそれを口に含もうとした。
「何をしているんです?」
突然、声がした。ロイドはびくっと肩を震わせ驚いたが、その驚きは見つかってしまったという、自身の行いを咎められる事に対してのものだった。
「アイーザ」
そう名前を呼ぶ彼は、叱られるときの、小さく身を縮めて震えている大型犬に似ていた。怒られても仕方ない事をしたという自覚があるため、ごめんなさい!と謝罪してから、どんな衝撃を受けてもいいようにぎゅっと目を瞑り、身構える。
しかし、いつまで経ってもロイドを叱る声も、叩かれるような衝撃もやって来ず、ロイドの手の中から瓶感触がするりと離れていっただけだった。
「…?」
「これは、貴方が食べていいものではありません」
目を開けてみればアイーザがロイドの直ぐ側で膝を付いていて、瓶の栓を閉めていた。彼はいつもの派手な着物を羽織っておらず、黒い着物1枚の姿であった。
「すみません…。お腹が空いて…」
「その腹の音を聞けばわかります」
「うぅ…」
目の前にアイーザがいるというのに、ロイドの腹はずっと、ぐうぐうと空腹を訴えている。恥ずかしすぎて、どうにか止めたいと思っても、限界を超えている腹が、ロイドのいうことなど聞くわけも無かった。
ロイドが自身のお腹を押さえようして、指が蜜で汚れている事を忘れていた。はっとして指をどうにかせねばとオロオロするも、そこにはタオルや手拭きも無く、アイーザからは口にしてはいけないと言われているので、ロイドはどうしていいか分からなくなってしまう。
アイーザはそんなロイドの手を取り、金色に汚れたロイドの人差し指を口に含んで舐め取った。
「ひっ…!?」
その蜜がどんな甘さをしているのか、ロイドには分からない。けれど、アイーザが丁寧に舐め取るので、もしかするとその蜜はとても甘美な味がするのかもしれない。
少しだけ、ロイドは己の空腹を訴える欲望に揺れた。しかし、ロイドの指を染めていた金色は全てアイーザの口の中へと消え、アイーザは最後にロイドの指先へと口付けて、ロイドの手を離した。
舐めてみたかったと、ロイドが少しだけ思ってしまった事は秘密だ。