22話
「では、私はあちらへ戻ります。要件があれば電話をするなり何なりしてください」
「貴方、連絡を飛ばしても直ぐに遮断するでしょう」
「それで此方へ出向くのですから、特に問題はないかと」
「飛ばした瞬間に遮断される気持ち、考えたことはありますか?」
「さぁ?連絡を飛ばしたことなど、この長い時の中で一度も無いのでわかりませんね」
「貴方、友人いませんもんねぇ…」
「その言葉、一言一句お返ししますよ」
そんな軽口を叩き合いながら、アイーザは自身の屋敷へと戻っていった。するとアイーザはロイドの部屋へと真っ直ぐに向かい、部屋へと入る。ロイドはまだベッドの中で安らかな寝息を立てていた。
「ふふ…」
時折ふにゃりと表情を緩め、笑みを溢すロイド。余程幸せな夢を見ているらしい様子に、アイーザは微笑むどころか、酷く冷たい表情を見せた。
「ロイド…。貴方の中には、一体誰が居るんです?」
たとえそれがアイーザであっても、アイーザでなかったとしても、アイーザは不満を露わにしただろう。アイーザでない場合は論外だが、それが自身ではない場合も、姿形、声も同じであったとしても、それはアイーザではない。何故なら、アイーザは今、此処に居るから。
自らの虚像すら彼は許さない。それほどに彼の心は狭く、それほどまでにアイーザはロイドという存在に依存し、執着し、なんとも自分勝手な偏愛をしている。
アイーザは、ロイドを失うことだけを酷く恐れている。こうして自らの屋敷に迎え入れている筈の今も、アイーザの心の内には不安と暗い欲望と恐怖が蜷局を巻いている。どれもこれも真っ黒で、ドロドロとした粘着質で、その重量は只管に重く、似たような姿をしているのに混ざり合う事なく、それぞれが蛇のような姿となって、ロイドの全身に絡みつき、這いずり回っている。
それは全て、アイーザのロイドに対する独占欲、所有欲、支配欲という雁字搦めの束縛へと帰結していた。
そんなことにも気づかぬまま、安らかな寝顔を晒しているロイドに、アイーザは手を伸ばす。その手が頬に触れると、ロイドはすりすりと甘え、笑みを深めて懐きだした。
「……アイーザ…」
へへっ、と照れたような、はにかんだ笑みを浮かべて愛する人の名を呼ぶロイド。夢の中にあっても、彼の中にはアイーザしか存在していない。
もしも、そこで別の誰かの名を呼んだなら、ロイドは今頃このベッドに縛り付けられ、この部屋に監禁されていただろう。
実のところ、ロイドを手折ると決めたアイーザは、表面上は取り繕った冷静な面を見せているが、その内では常に様々な欲望が荒れ狂い、恐ろしい激流となってアイーザの内側を蝕んでいた。
そのため、アイーザの内面は常に危険な綱渡り状態となっており、ロイドの些細な言動一つであっさりと崩れ落ち、簡単に壊れてしまう程の脆さを直隠しにしていたのだった。
その事に対し、ルネはアイーザの精神が以前のように不安定になるのではないかと危惧していたが、アイーザ自身はそうならない自覚があった。
アイーザは、過去に一度だけ、ロイド以外の人間と関係を持った事がある。しかし、今こうしてアイーザが一人でいるということで、その結末は誰もが想像できることだろう…。
端的に言えば、そこでアイーザは一度壊れかけたのだが、その時の感情と、ロイドに向ける感情にはアイーザにしかわからない明確な違いがあった。けれど、それを言葉にする気は無い。
だからこうして、ロイドを閉じ込めようとする自らの手を必死で抑え込みながら、涼しい顔を取り繕っては、静かにロイドの寝顔を見つめている。けれど、ほんの少し、もう少しだけ、己の我儘を押し通しても許されるだろうかと、アイーザはなんとも自分勝手で自分本位な考えをロイドに押し付け、その全身をロイドに預けて、べったりと、ずるずると、自らの体重すらも何もかもをロイドに押し付け伸し掛かっている。
ロイドの事など気にしていないかのようなその傲慢で強欲な愛は、時にロイドのささやかな願いすらも自らの願いで塗り替える。その証拠に、アイーザはロイドの痣が残る手を取り、その痣にそっと口付けた。
すると、その手首を彩る青紫色はみるみるうちに消え失せ、痣など存在しなかったかのような綺麗な肌に戻る。それを見てアイーザは微笑む。しかし、今度はロイドが苦悶の表情を浮かべはじめた。それも当然で、アイーザが施した癒術とは、自らの妖力を流し込み、傷を癒すというもの。
流し込まれた妖力で自己治癒能力が高まり直ぐに傷は治るが、反面、その流し込まれた妖力が身体中を暴れ、這い回る。ただの人間であれば死に、花であっても妖の純粋な妖力は過ぎたる力でしかなく、死には至らずとも、その妖力はその身を蝕む事になる。更に、アイーザの組紐によって、その身を作り変えられている最中のロイドではなおのこと。
この行為は、ロイドの人として存在できる時間を縮める行為だ。人としての寿命を縮めるという言い方もできようそれを、アイーザはロイドの許可を得ることも無く、自らの意思で勝手に行ってしまった。けれど、アイーザの表情には後悔など無く、むしろ愉悦にも似た、苦しみ悶えるロイドの姿を見てほくそ笑むアイーザの姿があった。
他人も、幻想の自分すらも要らない。彼の中を満たし、溢れさせるのは、アイーザ自身だけでいい。自分は、優しくも甘くもない捻くれた妖だ。アイーザから愛されるということは、そんな自分勝手で暴力的な、暗然たる重苦しい愛をアイーザから注がれるということに他ならない。だが、ロイドはそれを受け入れてしまった。
「可哀想に…」
欠片も思っていない、そんな同情の言葉をアイーザはロイドに投げかけ、苦しむロイドの唇を無理矢理奪うと、甘い花の蜜の味がした。直ぐに唇は離れて行き、アイーザは部屋を後にする。早く、ロイドを満たすもの全てが自分だけになればいいと願い、微かに聞こえるロイドの呻き声に笑みを深くしたアイーザが、暗い廊下の闇に消えた。