21話
そうしてのんびりとソファに座っていたら、ロイドの瞼が段々と重くなり、視界に闇を落としていく。何度か目を擦り食い止めるものの、アイーザのそばに居られることに安心したからか、夜に一睡もしていないことが祟ったか、ロイドの瞼はもう自らを引きずり込もうとする強い引力に抗うことができなかった。
「ロイド、眠いのならそのまま目を閉じても構いませんよ」
アイーザにそう言われ、ロイドの瞼が抗うことをやめる。真っ暗な視界の中、背中と膝裏にアイーザの低い体温をまざまざと感じて、ぽちゃりとロイドは眠りの海に落ちた。
ロイドのぐったりと重くソファに沈み込んでいた身体が、ふわりと浮き上がる。余程疲れていたのだろう、安らかな寝息が聞こえる。
アイーザはロイドを横抱きにしたまま、ゆっくりと廊下に向い、そこに数多ある内の木製扉の中から、花と蔓といった植物の彫り装飾が施された扉の前に立つ。
アイーザが正面に立つと、扉はひとりでに開き、二人を中へと招き入れた。
眠りの海に揺蕩いたながら、ロイドは確かな安らぎを得ていた。海は青みの強い紫色で、それが深く、深く、濃くなって、黒になってしまったような海。
その温度は体温の低い人肌の温度であった。それが何よりロイドを安心させ、海に差す銀色の月のような光が、ロイドの周囲を青紫色に照らし、思わずロイドの顔には笑みが溢れる。
海の中は不思議とアイーザの香の香りで満たされていて、呼吸を繰り返す度に、ロイドは更に深い眠りの底まで落ちていった。
アイーザが潜った扉の先は、何処かの洋館の玄関口の広間へと繋がっていた。夜香堂の住居部分とは家具や調度品、佇まいに違いがあり、窓の外には鬱蒼とした森が広がり、暗く厚みのある雲が空を覆い隠している。
この館は確実に、夜香堂が建っていた都の一角とは全然違う座標に存在していることは明白だった。そして、事実この場所は都がある場所から遥か遠く離れた場所にある山裾の深い森の中である。
裏と表を行き来するアイーザ達にとって、扉という媒介を用いて空間を歪め、別の場所に繋げることなど、呼吸をするほどに容易い事であった。
シックで暗く落ち着いた色合いで統一されたこの洋館は、アイーザ個人の住まいだ。ルネは夜香堂の居住部分に住んでいるが、二人の生活サイクルは全く噛み合わず、ずっと同じ場所にいると不満とストレスが溜まる一方であったので、自然とこうなった。
いつでも夜香堂とを行き来できるように、あの植物の装飾が施された扉を設けている。
この館はいつも綺麗整えられているが、アイーザ以外の住人は居らず、この山全域に満たされているアイーザの妖力により、必要となれば箒や雑巾のような物たちが動きだし、勝手に屋敷を整えてくれるようになっている。
そのため、アイーザが何かをしなくとも、この洋館はいつも綺麗なままだった。
そんな広間の中央に存在する階段を上がり、廊下の中ほどにある一室の前でアイーザは止まった。また扉がひとりでに開き、帰宅した主人を恭しく招き入れる。
そこは寝室だった。新品だろうか。部屋の端に置かれた木製の、一人用にしては大きめのベッドには洗いたての真っ白なシーツが皺無く敷かれ、その下には毛足の長い絨毯が敷き詰められている。それ以外の家具は必要最低限しかなく、そこが、ただ眠るためだけに存在している部屋なのだろうことが伺える。
アイーザは、そのベッドにロイドを横たえた。
本当なら、ロイドを自らの寝室に寝かせても良かった。しかし、それをしないのは、まだ足りない、もっとアイーザが居るところまで落ちてきて欲しい。ロイドが闇に染まる泥濘のようなそこで満開の大輪の花を咲かせた瞬間、アイーザ自らの手で手折る。そんな、彼の欲深い願望故であった。
「今はまだ、その過程を楽しむとしましょうか。私という水源で、貴方がどんな花を咲かせるか、楽しみですね。ロイド」
アイーザが妖艶な、そして何処か楽しげな笑みを溢すと、自らが纏う夜の香りの余韻を残して、彼は部屋を後にした。
そのままアイーザは一人、夜香堂へと戻って来た。
ルネは店に出ていて、商品の確認をしている。棚の奥まで確認しながら、彼はアイーザの気配に気がついていた。
「いいんですか?ロイドのことを放っておいても」
「あの様子では当分起きません。それに、あれの腕には私の一部が巻き付いているので、目を覚ましたり、何かあれば直ぐにわかります」
「あぁ…、あの随分と趣味の悪い組紐ですか。自らの一部を楔とするなど、本当に良い趣味ですねぇ。全くもって悍ましい…」
「なんとでも。それより…」
店と住居の境に立っているアイーザが、店の入り口へ視線を動かす。表の世界から、夜香堂を探している人間の気配がしていた。
境の街は、その全域が二人の領域と化している。花街のような守りは無く、あくまでもこの店を探す人間を感知する妖術が張り巡らせている程度のものであったが。
裏と表の世界は鏡写しで、表の世界の座標と裏の世界の座標は僅かなズレも無く、ちゃんとそこに存在している。光と影があるように表の世界に街があれば、裏の世界にもまた、影のように街であったり、街だったものがある。しかし、当然妖と人間の文化は似て異なるものなので、建っている建物等の違いはある上に、今では妖の数も減り、小さな街や村は何の気配も無く、寂れ、朽ち果てた廃墟が増えていた。
二人が住んでいるこの裏の世界にも、もう、ルネとアイーザ以外の妖は住んではいない。だからこそ、人間の気配をよりはっきりと認識でき、誰かと積極的に交流を持つ性格ではない二人にとっては、此処はとても住心地の良い場所であった。
「どうする気ですか?」
「どうしましょうねぇ…。流石の我々も、昨日の今日で疲れましたし…?」
人の気配は一人。どうやら、随分と必死になって、この店を探しているらしい。
「では、無視で」
「また貴方はそんな事を言って。だめですよ?もっとお客様は大切にしないと…」
「どう気配を探っても、あれは客ではありませんよ」
ルネに対し、どの口が…。と思わなくはなかったが、今はそれよりも店を探す人間の方が問題であった。どうやらその正体は若い女で、店そのものというよりは、その店に連れて行かれた男を探しているらしい。
「ロイドは誤解していたようですが、やはりただの我儘な娘ではなかったようですね?」
「折角手に入れたというのに、無粋な…。邪魔が入るのは御免ですよ」
「それほど大切なのでしょう?彼が。まぁ、分が悪いですけどねぇ…」
ロイドの無自覚なアイーザへの耽溺ぶりは、誰の目から見ても明らかで、あれほど溺れていながら無自覚であるという事に、どこか危うさと恐ろしさを感じる者もいるかも知れない。それほどに、ロイドの転げ落ちる様は見事なものであった。
けれど同時に、あれほど豪胆な者でなければアイーザを受け入れられはしなかっただろう。
相手がお世話になった屋敷のお嬢様であったとしても、今のロイドをアイーザから引き離すことなど不可能である。何故なら、アイーザがそんな事を許す筈もなく。また、屋敷を出てくる際のロイドの表情を見るに、彼の頭も心も全て、アイーザの色と香りで埋め尽くされているに違いないのだから。
「必死に駆けずり回って…。人間であれば、こういった際に、心が痛むとか、胸が締め付けられると言うのでしょうかねぇ?」
「さぁ?我々は人間ではありませんし、ロイド以外の存在になど興味もありませんから」
「本当に、執着をしはじめた貴方は、全く面白味もない程に周囲に無関心になりますね」
「以前のものとは違います。今は随分と心地の良いものですから。それに…」
「それに…?」
「執着を示さぬ時の私は、貴方とそう変わりませんよ」
「なるほど…。もし、私にも、貴方のような重い感情が存在していたら、その時は貴方と変わらぬ姿になるんでしょうかね?」
「知りませんよ。何も存在しなければ、それはどこまでいっても無である事と同義ですから」
「そうなんですよねぇ…。それに、貴方のような事をする自分を想像したら鳥肌が立ったので、私は空っぽの方が性に合っているようです」
ははっ、とルネが笑い、アイーザは煙管を取り出し吹かした。此処にまで表の世界を駆けずり回る彼女の息遣いや、地面を蹴る音が聞こえてくるような気がした。
しかし二人は、そんな彼女の必死な姿を嘲り笑うかのように、裏の世界でその動向を探りながら、彼女の思いをあっさりと一蹴した。