2話
裏路地にあるのは飲み屋、賭博場、怪し気な骨董屋に薬屋。煙草屋は見つからない。
慣れぬ者は躊躇するだろう雰囲気の店ばかりが立ち並ぶ薄暗い場所を、ロイドは物知り顔で進んで行く。しかし、進めども進めども、煙草屋なんて無い。
ロイドの脚は疲労が溜まっていて、潰れて廃墟となった建物の前で少し休むことにした。以前は何か商売をしていたのだろう出入り口の石造りの階段に腰掛け、ロイドは項垂れていた。
ズルズルとロイドの上半身は前へ前へと折れ曲がり、その視線は自然と足元へと降りていく。そのまま、ぼーっと地面を見ていた。
手ぶらで帰ったら、絶対にお嬢様は癇癪を起こす。けれど、オカルトじみた煙草屋なんて、到底見付かりっこない。そんなお嬢様と煙草屋を天秤にかけ、ロイドの心は揺れていた。それがさらなる疲労となり、重く伸し掛かる。
そんな時だった。
ロイドの鼻を擽る夜の艶と怪しさ、その中に潜む静けさと支配を含んだ硬質で鋭利な香り。それが香った瞬間、ロイドは瞬時に顔を上げ、その匂いの主を探してしまった。
そして、顔を上げたロイドの視界に飛び込んできたのは、まさに絶世だった。
さらりと流れる灰色の髪と白磁の肌、長い睫毛が影を落とす、見る者を魅了し囚われてしまう青紫色の瞳、顔は小さく、背は異様なほどに高く、手足がすらりと長くて、黒い着物と派手な女物の着物を肩に羽織る姿も、不思議なほど様になる男だった。
彼の白く長い指の中で弄ばれる冴える銀と深い藍色の煙管が、彼の人の枠を外れた美しさを更に引き立てる。
真に花のような男であった。
「綺麗…」
ロイドは頬を染め、うっとりと見惚れた表情で、そう呟いた。
男は一瞬驚いた顔を見せたが、瞬く間にそれは蠱惑的な笑みに変わる。
「随分と硬い蕾の花ですね。珍しい…」
煙管を持たない方の男の手が、ロイドの頬に触れる。
硬い蕾というのが、ロイドにはよく分からなかったが、そんな事はどうでも良くなるくらいに、男はロイドを縛り付け、魅了した。
「それより、一先ず其処をどいてもらいましょうか。店の前に座り込むなどと、営業妨害もいいところです」
「えっ?」
驚きロイドが背後を振り返ると、先程までの廃墟同然だった建物は無く、色硝子を使用した両開きの木製扉、西洋風のレトロな木造建築の建物があった。
座っていた筈の、縁が欠け、雑草が伸びてボロボロだった石階段は、鉄製のアラベスク模様が優雅な手摺とタイル張りの階段に変わっていた。
「え!?あれ…?なんで…」
動揺しながらもロイドは何とか立ち上がり、目の前の男に道を譲る。男はそのまま、からころと草履を鳴らしながら階段を登り、扉を開けて、中へと入っていく。
「入らないんですか?」
中から男の声がした。
扉は開いたままで、ロイドがそっと中を覗き込めば、薄暗くてよく見えない室内に先程の男が立っており、ロイドを待っているように見えた。
「…入ってもいいんですか?」
ロイドが恐る恐る尋ねると、男は「香を買いに来たのでしょう?」と返し、室内の奥へと行ってしまった。改めて建物を見てみれば夜香堂と書かれた大きな看板が扉の上にあった。
ロイドは慌てて男を追い掛け、建物の中へと足を踏み入れた。
ロイドが完全に中へと入った瞬間、バタンッ!と背後で扉が閉まった。室内は色硝子越しの床に写る僅かな外光以外に明かりと呼べるものは何も無く、しんと静まり返る真っ暗な闇となった。そんな中、ふと様々な種類の良い香りが入り混じり、ロイドの鼻腔を擽る。
これほどに香りが混じっているのに、不思議と気持ち悪さや重さ等の不快感が無く、混ざっているのが分かるのに良い香りだと感じる不思議な空間。
香りに心を奪われていると、部屋の奥で小さな明かりが灯る。
どうやらそれはマッチの火のようで、ぼんやりと暗闇の中に先程の花のような男を浮かび上がらせる。
そして、その白い指が、藍色の煙管に火を入れる仕草を、ロイドは食い入るように見つめていた。
銀色が火に照らされ、僅かに橙を帯びている。
そんな橙に染まる先端の、ぽっかりと空いた黒い穴の中に、赤と橙が混じった明かりが灯る。マッチの火が、中の煙草に燃え移ったのだ。
そんな当たり前の光景が、あの男がしているというだけで、艶やかな非日常の舞台を観劇しているような気持ちに襲われる。それほどに、男の仕草は美しく、華があり、優雅で、見る者の視線を奪う。
そんな舞台は、男がマッチの火を消す事で幕を閉じた。
あっさりとした幕切れに、ロイドは言葉に出さずとも、もっと見ていたかったという心残りがあった。
「何も買わないとは…。まさか、冷やかしですか?」
奥から聞こえる男の声に、僅かに冷ややかさが混じる。
「違います…!その、買いたくても、真っ暗で何も見えないんですけど…」
「あぁ…、この程度の暗さも駄目なんですね」
男はそう言った後、ふぅ…、と紫煙を吐き出した。
途端に部屋が明るくなり、全ての輪郭をはっきりと照らし出す。店内は、想像以上に広かった。
あの美しい男が、奥の突き当たりに置かれているカウンターの中で頬杖をついている。
男とロイドの距離は遠い筈なのに、男が吐き出した紫煙の香りを、ロイドははっきりと認識していた。男が纏っていたものと同じ香り。
それをもっと濃く濃密にして、更に煮詰めた蜜のような甘美さを足したかのような、美しいのに、足元からゆっくりと闇に沈み込むような、絡め取られていくような、どこか恐ろしさを感じさせる香りだった。
花街でも、こんな見事な香りは嗅いだことがない。
煙草の香りは苦手だったのに、この香りは怖さを感じるのに、何だかとても好きな香りだと、ロイドは思ってしまった。
店内にはところ狭しと大小様々な棚が置かれ、香りに関する商品が所狭しと陳列されていた。
御香、線香、練香、塗香、抹香、匂い袋。香油に香水に練り香水、最近話題の香りを楽しむ目的で作られた香蝋燭や、ガラス瓶などに入れた香水液に籐の棒を差し入れ、広がる香りを楽しむという香枝まで並んでいる。
他にも様々なデザインの香炉や香水液を入れるガラス製や陶器製の小瓶等の小物まで、ありとあらゆるものが取り揃えられていた。
店内も落ち着きのあるアンティークで纏められており、壁掛けの振り子時計や絵画、天井に吊るされている不思議な色合いと風合いの色硝子の傘を被せられた灯りも、とてもセンスが良い。
「窓を開けろ、という注文は聞けませんよ。中には日光で簡単に劣化する商品もあるので」
男はそう言って、異国の言葉で書かれた新聞を読んでいた。
いつの間にか銀縁の眼鏡を掛けていて、そんな姿も絵になる男にロイドの視線はついつい、そちらを気にして視界に入れようとしてしまう。
お嬢様のための香を選ばなければいけないのに、ロイドの心は別の所にあった。