18話
その後、旦那様が一度咳払いをして、ルネとアイーザを応接間へと通した。ロイドの腕はもう痛いほど握られてはいなかったが、アイーザの手の中に囚われたままだった。
そのため、ロイドはアイーザに手を引かれ、応接間へと連れて行かれる。周囲の目線がロイドに集まっているが、そんなロイドの視線はアイーザに向けられているために気付かない。
周囲もロイドは一体何をやらかしたんだとそればかりが気になって、二人の繋がれた手の事など、気にする余裕もない様子だった。
しかし、ルネだけは知っている。自身の片割れ、双子の弟であるアイーザがロイドの手を離さないことの意味を。その執着を。そして、そんな普段は絶対に見せることのない必死な姿があまりにも滑稽で、愉快で堪らない。
けれど、こうなったアイーザは後で誂っても否定するどころか、開き直ってしまうので面白くない。だからこうして一人、アイーザ同様陳腐な芝居をする役者の立場でありながら傍観者を決め込んで、今だけ二人の様子を楽しんでいるのだ。
応接間に入る事を許されたのは、旦那様と奥様、二人以外の屋敷の者は女中頭とロイドだけが許された。お嬢様も話を聞くと父である旦那様に詰め寄ったが旦那様は許さず、無情にも、ばたん…。と彼女の目の前で扉を閉めてしまう。
扉の前の廊下では、涙を堪え、唇を噛み締めるお嬢様と、そんな彼女を慰めている、この御屋敷で一番長く勤めている50代前後の女中。そして、やはり気になるのか、野次馬をしていた他の女中達が集まり、皆酷く心配そうな顔をしていた。
「まさかあの子が…?」「何かの間違いよ」「そうよ。とても良い子だもの…」と、口々に女中達がひそひそと話しだす。それを聞いたお嬢様は、はっとして、すっと涙を引っ込めて、この屋敷の主の娘として相応しい凛とした表情を見せた。
「そう、これは何かの間違いよ。ロイドがそんな真似をするわけがないわ。そして、お父様もお母様も、その事をご存知のはずだもの」
その真っ直ぐな瞳が、彼女のロイドに対する絶対の信頼の表れであった。普段でこそ、我儘で子供っぽい一面を見せる彼女であるが、その実、彼女はしっかりと自分の立場をというものを理解している賢い女性でもあった。
彼女がまだ幼い頃に、ロイドはこの屋敷へとやって来た。当時、この屋敷で一番長く働いていた老夫婦にはずっと子供が出来なかったが、とうとう我が家にも息子が出来たのだと、幼いロイドを連れてきたのだ。
幼くとも彼女はその頃から聡明で、ロイドが二人の本当の子供ではないことに気がついていた。けれど、夫婦の笑顔とロイドの笑顔を見て…、あぁ、血など繋がっていなくともあの三人は家族なのだと思ったのだ。
だからこそ、彼女はあの二人の家族ならば、自分にとっても家族なのだと、直ぐにロイドを受け入れた。
ロイドは彼女より、ほんの少し年上だった。
だからだろうか、普段よりも我儘な自分の一面を見せてしまうようになったのは…。
屋敷の主の娘と使用人の男の子。そんな身分の差がありながらも、彼女にとってロイドは突然現れたお兄さんのような存在でもあった。
幼いながらも、当時のロイドは外のことを良く知っていて、自分よりも大人びて見えた。だから彼女は、いつでも何処でもロイドを連れ回し、お兄ちゃんに甘える妹のような顔を見せるようになった。
ロイドからは、自分が手のかかる我儘なお嬢様と思われているに違いない。けれど、それに後悔は無い。むしろ、彼の中ではずっと、手のかかる我儘なお嬢様で…彼の血の繋がらない妹の姿でいたかった。
そんなロイドを、家族を、兄を、失いたくはない。彼女のこの感情は恋愛ではなく、家族に向ける親愛である。けれどそれは、何よりも真っ直ぐで、純粋で、何よりも強いものであった。
「だから、皆は仕事に戻ってちょうだい。私も部屋に戻るわ。ロイドはきっと大丈夫だから…」
そう言って彼女は前を見つめ、自室に戻るために廊下を歩く。どれほど澄ました顔をしていても、心の内はロイドに対する心配で埋め尽くされている。
しかし、彼女はそんなことをおくびにも出さず、姿勢を真っ直ぐに正して廊下を歩いた。
応接間では、上座の三人掛けのソファにルネ、アイーザ、ロイドの三人が座り、テーブルを挟んで向いのソファに旦那様と奥様が座り、そのソファの後ろに女中頭が控えて立っていた。
テーブルの上には、女中頭が用意した紅茶がふんわりと湯気を立てている。しかし、それに手を付けたのはルネだけであった。
アイーザは相変わらずロイドの手首を掴んだままで、夫婦はぴりぴりとした緊張の空気を緩めることなく、二人に対峙していた。
「とても良い茶葉ですね。ありがとうございます」
そんな空気をぶち壊すかのように、ルネが柔和に笑って女中頭に御礼を言う。女中頭は一言、「滅相もございません」と返し、静かに御辞儀をした。
僅かに空気が緩んだおかげで、完全に閉ざしていた旦那様の口が開き、ようやく彼等に事の詳細の説明をお願いすることが出来た。
「本当なんですか、ロイドが御二人の店を滅茶苦茶にしたというのは…」
「ええ、大事な商品が幾つか傷つき、完全に駄目になってしまった物もありまして。それが普通の品であったなら、我々もここまで大事にしなかったのですが…」
そう言ってルネは懐から布で包まれた小さな包みを取り出し、静かにテーブルの上に置いた。そして、それを開いて夫婦の前に差し出す。包が広げられると、ふわりと紅茶とは違う甘い香り部屋に広がり、夫婦と険しい顔の女中頭までもが、うっとりとその香りに酔いしれていた。
包みの中身は、白く美しい山梔子の花を模した香蝋燭で、それは真ん中から二つに割れ、見るも無残な姿となっていた。
「実は…、これはひと月後、宮中に献上するために作られたものなんです…」
「そんな…!」
「あぁ…、なんてことなの…」
先程までのうっとりとした表情が打って代わり、途端に三人の顔がみるみる青褪めていく。青褪めた男の胸ポケットの中にある二人の名刺が突然、鉛のような重石となって自身の胸を圧迫している気さえした。