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17話

 その後、屋敷にそっと戻り、音を立てぬよう自室で着替えを済ませ、ベッドに潜ってからも、ロイドの目は冴えたままであった。

 もう、あの灰色の髪が恋しい、あの腕の重さが恋しい、あの青紫色の瞳が恋しい、あの香りが、恋しい…。ベッドの中で自然と腕が動き、あの男の低い体温の温もりを探してしまう。けれど、触れるものはシーツや掛け布団の冷たい布の感触ばかりであった。

「口付けの一つでもしておけば、少しはこの気持ちも紛れたんでしょうか…」

 ぽつりと独り言のように呟く。聞くものはロイドしかいないその言葉。けれど、それをロイドは直ぐに否定した。

 きっと、別れの口付けを交わしたところで、この淋しさは募るばかりだと、ロイドは分かっている。もしあの別れ際に口付けを交わしていたなら、ロイドはずっと最後に触れた唇の感触を指でなぞり、何度も思い出しながら、ロイドはきっと、この暗い部屋の中で生暖かい布団の海を漂う事になっただろう。

 ロイドは身体を丸め、小さくなり、自分自身を自らの腕で抱きしめる。それはまるで、先程までのアイーザの温もりを抱きしめるかのように、これ以上失うことがないようにという、子供じみた悪足掻きでもあった。

 けれど、そうでもしないと、この夜を越えられそうにない。まだ東の空は暗くて、月は居座っている。夜がこれほどまでに長いと感じたのは、この日が初めてであった…。



 ロイドは結局一睡も出来ぬまま、部屋の小さな窓から空が白んで、青空に変わっていく様を、布団の中から睨むように見ていた。

 それから屋敷は段々といつもの喧騒を取り戻し、またそれから暫くして、普段よりも早く飛び起きてきたお嬢様が寝間着姿ままロイドの元へ駆け込んできた。

 予想通り彼女は香蝋燭を買ってくることができたのかと、その事だけに気を取られており、目の下にくっきりとした隈があるロイドを思いっ切り揺すって返事を迫った。

 周りの女中達がなんとかお嬢様を宥め、彼女の手からロイドを助け出す。それからロイドは一度自室へ戻ると、お嬢様にあの桜の形の香蝋燭を渡した。

 その香蝋燭は昨日、ロイドとアイーザが店を出る際、ルネが持たせてくれたものだった。


「あぁ、そうだ。帰る前に、これを…」

 そう言ってロイドの手をとり、手のひらを上に向けると、その手の上にルネは自らの手を重ねる。そんなロイドの手の中には、ころころと何かが転がり落ちてくる感触があった。

 ルネの手が離れ、自らの手の中を覗き見れば、その中にはあの桜の形をした薄桃色の香蝋燭が二つ、ちょこんと乗せられていた。

「あ!じゃあ、お金を…」

 ロイドは此処に来た目的をすっかり忘れていた。慌てて財布を取り出し、打金を支払う。

「確かに。では、また明日…」

「え?…」

「ふふ、また数刻後に必ず、顔を合わせることになりますよ」

「ロイド、そろそろ…」

 ルネと話し込んでしまったロイドは、はっとしてアイーザの元へ小走りで駆けてゆく。

 そんな二人の様子をルネは店の中から見送ると、アイーザの表情を思い出して一人、とても楽しそうな笑いを溢した。


 それからのお嬢様はとても上機嫌で、朝の時間は忙しなく過ぎていく。けれど、ロイドにとってはそれすらも空間がねじ曲がってしまったかのように、酷くゆっくりと感じられてしまう。

 時計の針は余白を広げて時を刻み、普段は軽やかにちくたくと響く秒針が、重い針を無理矢理引き摺るかのように、ちく…、たく…と、たっぷりの余韻を持たせて、まるでこのまま時が止まってしまうのではないかのように聞こえた。

 まるで時計の針が、アイーザの事ばかりで何も手につかないロイドに非難の眼差しを向けているかのようで、ロイドは時計から目を逸らし、ただ窓の外を見ていた。




 朝の慌ただしい時間が過ぎ、昼食までの間の束の間の穏やかな時間。ロイドは遠くを見ながらぼんやりと庭掃除をしていた。

 アイーザはいつ来るのだろう…。早くあの人の元へ戻りたい。そんな焦燥ばかりがロイドの胸の内に積もり、息をするだけで胸が締め付けられ、酷く息苦しい。

 ロイドは太陽を恨めしそうに睨みつける。元々のロイドは、青く晴れ渡る空が大好きだったはずなのに、今では夜に煌々と輝く銀色の月だけが、ロイドの全てとなってしまった。

 けれど、ロイドはそれを後悔などしていない。

 ロイドの視界にはずっと箒を持つ自らの手が映っていた。その手首にはアイーザの分身ともいえる組紐が巻き付いている。その組紐がちらりちらりと映る度に、ロイドの表情は自然と綻んだ。


 そんな思考に耽っていたら、来客を告げるチャイムが屋敷に響いた。きっと、玄関扉を開けるのはロイド以外の使用人であろう。

 しかし、それは些事だ。

 アイーザが迎えに来てくれた。アイーザに会える。そんな思いだけがロイドを支配した。

 手にしていた竹箒を投げ捨てて、周囲の者に咎められながらもロイドは走り出し、玄関へと急いだ。ばたばたとロイドの足音が廊下中に響いて、使用人達の視線が突き刺さる。

 けれど、それすらも今のロイドには些細な事で、彼の足を止める抑止力にはなり得ない。

 きっと、それはロイドの思いが香りとなった幻臭だと思うが、廊下の途中で仄かに、あの男と同じ夜の香りがした。

 玄関へと辿り着くと、玄関で出迎えたであろう使用人だけでなく、旦那様に奥様、お嬢様と女中頭、野次馬の女中達まで集まっていた。

 そして、ロイドがやって来た事に気が付くと、モーゼの十戒のように人の波が裂け、一本の道ができる。その先にいたのは、ロイドがずっと求めて止まない男、アイーザであった。

 出来ることなら、駆け寄って彼の腕の中へと飛び込んでしまいたかった。けれど、それが出来なかったのはアイーザの視線が、酷く冷たいものだったから…。

「え…?」

 困惑の表情でロイドが立ち竦んでいると、アイーザが此方へと歩み寄ってくる。その間も彼の表情は冷酷で、怒りが滲んでいるように見えた。

 けれど、ロイドはその場から動かず、アイーザの動向をただ見ていた。

「貴方ですね」

 ロイドの目の前で立ち止まり、突然ロイドの腕を力任せに掴むと、思いっ切り捻り上げられる。

「痛っ!いたいです…っ!」

「この糞餓鬼。よくもまぁ、店をあれほど滅茶苦茶にしてくれましたね」

 当然、ロイドには何のことか分からず、ひたすら混乱するばかり。そんな状態でありながらもロイドはずっと心の内でアイーザの名前を呼び続けた。そんなアイーザに捻り上げられている腕が酷く痛み、目には涙が滲む。強く握られている手首が悲鳴をあげ、みしみしと骨が軋んだ。

 涙を浮かべた顔でアイーザを見つめると、彼の顔がまるで、このまま口付けをするかのような距離にまで迫って来ていた。

「アイーザ…?」

 か細い、アイーザにしか聞こえぬ震え声で、ロイドは彼の名を呼ぶ。するとアイーザはロイドと同程度の声量で、ロイドに囁いた。

「この事は後で謝罪します。すみませんが、今は何も言わず、私とルネの話に合わせてくれませんか?」

 ロイドが小さく首を傾げると、僅かな一瞬だけ、アイーザはいつもの笑みを浮かべた。


 そんなアイーザの突然の行動に野次馬達は悲鳴を上げ、ざわめきだした。旦那様方は瞠目し、あまりの驚きで一言も発することが出来ぬまま、二人の行動をただ見守ることしかできない。

 そんな中、アイーザが周囲の視線を集めているのを良いことに、一人笑いを堪えているルネだけが異質であった。




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