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13話

 それからアイーザはロイドが泣き止むまで、ただ彼を抱きしめていた。ロイドの嗚咽は止まったものの、アイーザの首筋にはまだ、熱く濡れた雫が滴り落ちる感触がある。

 さぁ…っと、風が吹いて、木々がざわめき、鏡のような水面が揺れ、さざ波が丸い月の形を歪めていく。歪められ、数多に散った光が水面を照らし、揺れ動く波がきらきらと淡い黄色に煌めく。

 その風は室内にも入り込み、アイーザとロイドの僅かな隙間へも潜り込んでいく。夜の風はどこか冷たくて、ロイドは更にアイーザへと縋り付いた。

「ロイド」

「はい…」

 アイーザの呼び掛けに返事はするものの、ロイドがアイーザの肩口から顔を上げることはない。しかし、アイーザは気にせず言葉を続けた。

「貴方のこれからの事について、二つの選択肢があります。一つは、このまま花街で花となる道です。きっと、貴方は終生安心して暮らしていけることでしょう」

「………。…もう、ひとつは…?」

「もう一つは、私の花となる道です。この道を選んでしまえば、貴方がどれほど泣き喚こうと、後悔しようと、私から離れる事は出来ません」

 ロイドからの返事は無い。けれどそれはアイーザも予想していたようで、それから僅かに間を開けて、アイーザはロイドに問うた。

「ロイド、貴方はどうしたいですか?」


 抱きしめられたまま、ロイドはぼんやりとアイーザの肩越しに床の間に生けられた花を見ていた。

 黒い陶器製の水盤に生けられた花は、慎ましくも凛と立つ美しい紫色で、観賞用としての役目を見事に果たしている。自分はまだ、花となれるのだろうか…。

「アイーザ…」

「なんでしよう?」

「花は、手折られてしまえば…直ぐに、枯れてしまうんでしょうか…」

「なぜ…?」

「切り花になった花は、直ぐに枯れてしまうじゃないですか…」

「貴方がたのような“花”と、生花は違いますよ」

「本当に…?」

「ええ、相手にもよるでしょうが。愛され、丁寧に世話をされる“花”は、地植えの花よりも美しく咲き誇る。それが“花”です」

 ロイドは何も言わず、一度アイーザの肩口に顔を埋める。そして、一度大きく深呼吸をした。ずっと泣いていたせいだろう、その呼吸はどこか湿り気を帯びていた。

「アイーザ。私、決めました」

  ロイドがゆっくりと顔を上げ、その腕の中から離れていく。けれど、アイーザは何も言わず、ロイドの意思を尊重し、その腕を緩めた。

 ロイドの目元が、僅かに赤くなっている。けれど、ロイドはアイーザから視線を逸らすことはせず、真っ直ぐにその青紫色と向き合った。

 ロイドの緑色とアイーザの青紫色が絡まる。

「私は…、やっぱり、貴方の花になりたい。貴方の傍らで、ずっと咲いていたいです」

 ロイドの真っ直ぐな視線がアイーザを見つめている。その表情に一寸の曇りもなく、ロイドの意思を如実に示していた。そんなロイドにアイーザはくすっ、と笑う。

 そんな笑みが浮かぶ唇が、ロイドの目尻に触れた。子供がするような、ただ触れるだけの戯れの口付け。それなのにロイドは顔を真っ赤にしてしまう。

「アイーザ!?」

 ロイドが上半身を思いっ切り後ろに反らして逃げる。そんなロイドの姿に、アイーザは声を僅かに漏らして笑った。

「すみません。花の涙は甘いのかと思ったのですが、やはり塩の味が僅かにしますね」

 口元に緩く握った手を当てて、少し意地悪に笑う姿もどこか上品に見えた。そんなアイーザも綺麗だと思ってしまうロイドは、自覚が無いままに、もう完全にアイーザに落ちていた。



「さて、話は一旦ここまでにしましょうか。貴方も一度帰らなければ、屋敷の者達が心配するでしょう?」

「え?………。あぁっ!今何時ですか!?」

 先程までの空気が打って代わり、ロイドが慌てて立ち上がろうとするも、長時間の正座が祟り両脚が痺れていた。そのため直ぐに畳の上に崩れ落ち、ロイドは這うようにしながらも帰ろうと藻掻く。

「裏と表は時の流れが違うので、此方へ戻ってきてもそう時間は変わりませんが、深夜と言っていい時刻でしょうね」

 アイーザがそんなロイドのそばに膝をつき、ロイドを観察するかのような姿勢で声をかけた。

「そんなに!?早く帰らないと!…あ、でも、私が外に出ても大丈夫なんでしょうか?」

「というと?」

「だって、また私のせいで、あんな化け物を呼び寄せる事になってしまったら…」

「あぁ、それなら…」

 アイーザはそう言うと、自らの灰色の髪を一本摘んで引き抜いた。そして、摘んだ指先から青紫色の糸と深い赤色の糸が伸びて、灰色の髪の毛と絡み合い、一本の組紐が出来上がる。

 その組紐をロイドの腕に絡みつけしっかりと結びつけた。

「これで良い」

 ロイドが何か言う前に、アイーザは這いつくばったままのロイドを抱え上げ、横抱きにして水月の間を後にした。

 アイーザに抱えられたロイドは、痺れる足よりも、あの水鏡の月が気になった。相変わらず、月は美しい姿で水に浮かんでいる。

 時折風に吹かれ、水面が揺れ、月の形が歪に歪む様すらも、ロイドは美しく思い、その光景を目に焼き付けておきたかったのだ。

「アイーザ。これ、夢じゃないですよね?」

「夢?」

「このまま此処を出たら、私は布団の中で目覚めて、いつもの花ではないと言われた枯れかけた自分に、戻ったりしませんよね…?」

 ロイドは泣いているわけではない。けれど、その声は微かに震え、夢が覚めるのが怖いと怯える姿は、花としての自分を捨てられた後の、幼い頃の姿が重なって見えた。

「夢で終わらせるなど、私が許しませんよ。寝て、また目が覚めても、貴方のその左腕にある組紐が、夢になどさせません」

 ロイドは何も言わず、アイーザに結ばれた組紐を見た。青紫と灰色と深紅が組み合わさった、アイーザの香が僅かに香る、アイーザが自ら拵えた紐。

「その紐は全て私の一部です。灰は髪、青紫は妖力、そして深紅は血、その縛りがある限り、今この瞬間も夢ではなく、貴方という花は私のもの」

「私は…、アイーザの花になれたんですか…?」

「ええ、それは貴方の花の香りも蜜の甘さも、外に漏れる事はありません。それを感じられるのは唯一、私だけです」

 その言葉を聞いて、ロイドは喜びと確かな安堵を得ていた。もう、数多のために咲く花ではない。唯一人のために咲く花になれたのだと…。

 ロイドはまた一筋の涙を流した。それは悲しみの涙ではないことは彼の表情からも明らかで、アイーザもそんなロイド見て、僅かに笑みを浮かべている。そんな二人の姿を水に浮かぶ月だけが見ていた。


 そして、アイーザの言葉通り、ロイドは外へ出ても夢から覚める事はなく、左手首にはアイーザの組紐があった。すると、今度はアイーザから離れる事に未練が残る。

 まだもう少しだけ二人で居たいとロイドの心がざわめき出す。あの部屋の中、美しい水鏡を眺めながら、いつまでも二人だけで居られたら…。

 そんな妄想にロイドは、花とはなんて欲深い生き物なのだろうかと、小さな笑いを溢した。





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