11話
花街に辿り着いた三人がやって来たのは、一度ロイドが逃げ出した場所。あの華夜楼であった。
女将はロイドのことをとても心配していたようで、土で汚れた素足を晒したロイドが姿を見せた瞬間、「心配かけさせて、この子は…!」と軽く頭を叩かれてしまった。
けれど、ロイドは知っている。こうして叩かれはするけれど、頭に痛みは全く無い。そして、ロイドに背を向け「二度とするんじゃないよ!」と叱る背中は僅かに震えていて、女将は本気で心配してくれていたのだと。
ロイドは直ぐに足を洗うように言われ、僅かな傷すらも丁寧に手当てされ、少し気恥ずかしくなった。
そして手当ての後、女将に通された部屋はあの観桜の間。
部屋の中は何本もの徳利が転がっていて、酷く酒臭い。花蕾の少女二人がおろおろと心配しながら、そんな荒れた部屋を片付けている。徳利が散らばる中心では、ホシアメとカシノヤがべろんべろんになりながら管を巻いていて、アイーザの姿を見た途端に詰め寄ってきた。
「あ"ー!この薄情者がっ!花姫のあたしらを放置しやがって!」
「本当だよ!くっそ、その花姫の私らより綺麗な顔も腹立つわ!罰金よ罰金!」
かなり酔っているらしい彼女達の口調は花姫のものではなく、かつて花蕾となる前のロイド達のような幼子達をまとめ上げる、溌剌とした花蕾の頃の二人そのものであった。
「分かっててもずるいわー。何よこれ、睫毛長いし濃いし、姐さん達でも此処までじゃなかったわよ!?」
「この白粉要らずの肌だってそうだよ!双子揃ってなにさ、私らの努力を嘲りやがって!同じ化粧をしたってこうはならないよ!」
ぎゃあぎゃあと品の無い姿を見せる二人にロイドは小さく笑い、ルネは苦笑い、アイーザは呆れたように溜息をついた。
「溜息出るのはこっちだっての!むっかしから花を背後に背負いやがって!」
「こっちが霞むって何さ!ふざけんじゃないよ、ただの香房の店主面してるくせに!」
「はいはい、アメちゃんもシノちゃんもそこまでにしときよ?朝んなって後悔するんやから…」
女将が止めるも二人はまだぐだぐだと文句を垂れ流している。見兼ねたルネが二人の面倒を買って出た。
「それじゃあ後は私が引き受けますから。二人とも一旦落ち着きましょう?…ね?」
ルネの白い指の背が二人の頬をそっと撫で滑る。するとホシアメもカシノヤも大人しくなり、ルネを部屋へと誘った。ルネは一度アイーザに目配せすると、そのまま観桜の間へと消えた。
「大丈夫なんでしょうか…」
「心配など不要ですよ。それより、別の部屋へと移動しましょうか」
アイーザがそう言うと、女将は二人を庭へと連れ出した。
月明かりに照らされ眠る花達と、葉擦れのさざめきを届ける木々を通り過ぎ、庭の奥にある外れの飛石の続く道を進むと、其処には一件の建物があった。
水月と書かれたその建物は、ロイドも知らない離れであった。しかしアイーザは知っていたようで、女将がその引き戸を開けると、ゆったりとした足取りで中へと入っていく。
「あの…」
ロイドが入り口で戸惑っていると、「おいで?」と中でアイーザが手招きした。アイーザが差し出す白い手に、ロイドはふらふらと惹かれるように自然と中へと足を進めていた。
ロイドの背後では扉が閉まり、女将が離れていく足音が僅かに響く。けれどもう、ロイドの耳にそれらの音は届いてはいなかった。
寝殿造りのようなその建物は、観桜の間のような華美な美しさは無い。壁も襖も白く、柱や床も磨かれているがそれだけで、透し彫りの鶴と松の見事な欄間だけが、この建物を飾る唯一のものであった。
ロイドが連れられて来たのは一番奥の間で、アイーザが襖を開けると、開け放たれた障子の奥には月明かりに光る縁側がある。そしてその先は、見事な月が浮かぶ、一面の水鏡があった。
「え…?」
ロイドが驚いて縁側へと小走りで近づけば、この建物自体が大きな水鏡の池に浮かんでいるかのようだった。縁側を支える柱は水に浸かり、深さがあるのか底は真っ暗で何も見えない。
池の奥には木々と低木が植えられ、まるで此処だけが外界から隔離された空間のようだった。
「綺麗でしょう?観桜の景色も嫌いではありませんが、私はどちらかと言えば、此方の景色の方が好きです」
「私も…こっちの方が好きです…」
静かな水面に浮かぶ月は、あちらで見た銀の月とは違い、ほんのりと黄色味を帯びている。差す光も淡い金色で、銀色の冴える光よりも僅かにあたたかい気がした。
けれど、音も無く静かで、二人だけの気配しか無く、此処が本当に表の世界なのかとロイドは一瞬分からなくなってしまう。
「大丈夫、此処は表ですよ。それよりロイド、此方へ」
部屋の中央にアイーザが座りロイドに向かいへ座るように促す。
「はい…」
ロイドは返事を返し、アイーザに示された通りの場所へ膝を突き合わせるように座った。
「これから話す事は、貴方にとっては辛い話になると思います」
「辛い話…ですか…?」
「ええ、“花”について、全てお話しましょう」
アイーザは真剣な面持ちで話はじめる。話の内容は前回の続きからはじまった。
「花はどういった存在か、前回教えましたね。では、その続きからお話しましょうか…」
アイーザは尋ねた。花とは、どんな用途で用いられるのかと。
「花の用途ですか…?えっと、贈り物…とか?」
「他には…?」
「他…。あ、生けたりして飾ったりもしますよね」
「他に、思い浮かぶものはありますか?」
「え…と、あとは死者への手向けとか…」
「ええ、そうですね。そして、その今言った用途全てに、貴方がた“花”が用いられてきたんです」
「え…?」
アイーザの話に、ロイドは自身の耳を疑った。しかし、アイーザの表情が、それは嘘ではない事を告げている。
「古来より“花”は、戦の戦利品、観賞用、自らの花嫁にするためと、ありとあらゆる用途で時の権力者達に搾取されていました。それは、今よりも妖と人の距離が近く、“花”という存在が生まれやすかったためでもあります」
花達は、古い時代では人として扱われていなかった。
その時代、まだ花達は今とは比べ物にならぬほど存在していた。しかし、花であるが故、彼等はいつ何処でも狙われた。
時に攫われ、時に奪われ、心無い者達は数多の花を乱暴に摘み取っていった。ある者は実の父よりも歳の離れた権力者の花嫁として、ある者は戦の功労者へと贈られる戦利品として、ある者はその場を彩るための奴隷として、ある者は世を去り亡くなった者の手向けとして生きたまま共に埋められもした。
「更には祭事の贄として、命を落とした花も少なくありません。そして、花はその数を、時を経るにつれて減らしていきました」
人と妖の境が顕著になるほどに、互いの距離は広がり、人は妖の存在を忘れていった。そうすることで、花も段々と数を減らしたのだ。
しかし、人は知らなかった。“花”にはもう一つ、恐ろしい秘密が隠されていることを。
「花とは、妖にとっても求めて止まぬ存在であり、その香りは妖を狂わせ、花の蜜は妖とって最上の馳走で、その味はまさに甘露の如く…数多の妖を引き寄せる」
「それって…。じゃあ、あの蜘蛛は…私が…?」
「ええ。…ですが、気にすることではありません。そもそも、未然に防げなかった我々の落ち度ですから」
「でも…」
「ロイド、安心してください。そんな花達を守るために囲いが存在するのですから」
「囲い…?」
「花のための囲い。温室…ともいえるでしょうか。」
「温室…ですか?」
「ええ、もう花が散らされることのないように、花達を集め、守り、花の安寧だけを目的として作られた街。花街が…」