101話
「のぅ、ヒダル?」
「はっ…」
どれ程深い思考の海にいても、彼女の声が全てであるヒダルは、直ぐに意識を浮上させる。間を開けず、彼女に無駄な時間を取らせぬよう、彼は直ぐに返事をした。
「クスナはどうしておる?」
「幾度もの失敗、しかと反省しておられます」
「そうか…」
クスナは、エンヤの手下だ。エンヤは、此処から出られぬ。だからこそ、外で手足となる者が必要だった。
ヒダルは完全なるエンヤの手下ではない。たとえ心は全てエンヤに捧げているとしても、その身を全て捧げることは出来ない。何故なら、ヒダルは帝や、その正室の手足でもあるからだ。
「少しは使えるかと、態々新たな身体を用意し、恨みが晴れぬ荒ぶる魂を呼び寄せてやったというのに…。とんだ期待外れだな」
同じ男を想う女同士。だが、その想いの方向性はまるで違う。エンヤは愛する男を尊重する、直向きな愛であるのに対し、クスナは自らの食欲を愛と誤認し、ただ付け狙っているだけの愚か者だ。ヒダルはそう思っている。
「甘さと優しさは違う。目を掛けてやったが、度重なる失態を許すのは、優しさではない。愚かな甘さだ」
「では、どの様に?」
「同じ失態を繰り返し、学びもしない者を、そばに置いておく道理も無し。次に失敗をしたならば、その時は…」
クスナの目が、愛しいあの男からヒダルへ移る。その僅かな合間、彼女は一瞬、目を閉じた。
瞼の裏に映るのは、愛しい灰色と青紫色が美しい、ただ一人の男の姿。
手を伸ばしたい気持ちを抑え、彼の伏せた瞳と、それを縁取る長い睫毛の一本一本にすらも思いを馳せながら、エンヤは彼を瞳の裏に押し込めて、ゆっくりと目を開いた。
「殺せ」
彼女の唇が弧を描く。ヒダルは静かに頷き、部屋を後にした。一人取り残された彼女は、もう一度視線を打ち掛けに戻す。自らの色に染められた、大輪の牡丹。袖に描かれているそれを、彼女は爪で引っ掻くようにきつく握り締め、忌々しげに口元を歪める。
そして、その打ち掛けを脱ぎ、床へと投げ捨てた。エンヤの冷めた瞳が、蔑むように打ち掛けを睨みつけている。
エンヤは知っている。今頃あの男は、贈った羽織りを焼き払っている事だろう。あの男が、エンヤが贈った羽織りを着て現れる事は無い。
だが、あの男は、必ず宴にやって来る。そして、あの男が宴に着て来るのは、一体どんな羽織りだろう。そんな事を考えたエンヤの頭に過ぎるのは、あの男が愛しいと言う、白い芍薬だった。
そしてその後、忌々しい花を掻き消すように脳裏に浮かんだのは、大輪の牡丹。甘く香り立つ花に似た、香りの無い百花の王の名を持つ花。
いつか自分は、あの男をその花に喩えた。数多数ある花の中でも、あれ程の衆目を集め、その他を皆踏み付ける花も無い。それ程の美しさ故に香りを纏う必要も無く、その顔だけで皆を惹きつける。だが、あの男は花ではない。だから、香を纏う。
誰もを酔わせ、虜にする、匂い立つ牡丹。本来持たぬ筈の香りさえも手に入れて、花姫も殿花も平伏し、霞む程の美しさで、花街の夜に君臨するあの男は、まさに百花の王に相応しい。そんな男だからこそ、月のない夜がとても似合うのに。
今の彼の背後には、煌々と煌めく白銀の月が、彼という闇を照らすように居座っている。その月にはきっと、白い芍薬の花が写っているに違いない。
憎たらしい。美しいと自負する自らの顔が歪む事すらも気にならないほどに。羨ましい。彼の隣に並び立つ者は存在しない筈なのに。エンヤですら許されなかったその場所に、今、咲き誇ろうとする別の花が居ることが。
エンヤは自らの髪を結い上げている櫛を抜いた。髪を纏めている大元の櫛が引き抜かれたことで、彼女の髪は解け、ばらばらと美しい簪達が畳の上に無残に転がった。それと同時に、墨色の中に薔薇色が滲む、独特の色合いを持つ彼女の長く艷やかな髪が、するりと絹糸のように落ちてくる。
きっと、今の自分は酷い姿をしている。そう思ったが、此処にはもう、誰もいないのだと、エンヤは鼻で笑った。
ふらりふらりと、彼女は畳の上を歩く。素足で歩いているせいか、時折足に畳が張り付く感触がする。柔らかな足の裏の皮膚が畳から離れず、吸い付くように伸びては離れる感触が気持ち悪く感じた。
そんな不快感を抱きながらエンヤが辿り着いた先は、この部屋で最も存在を主張する金襖。
ぼんやりとした虚ろな目が、襖の中で時を止めたまま咲き誇る満開の枝垂れ桜を捉えた。彼女の指が、黄金の中で散ることのない桜の花に触れ、なぞる。僅かにざらざらとした感触が肌に伝わる。本来の桜の花弁の柔らかさも、滑らかさも存在しなかった。
彼女の指が離れると、一瞬でエンヤの顔が怒りで歪む。その怒りの赴くままに、櫛を持ったままの右手に渾身の力を込める。
たおやかな手の甲に、不釣り合いな血管と骨や筋が浮かぶ。ミシッ…と、櫛が悲鳴をあげたが、彼女の耳には届かない。
そして、手にしたその櫛の歯を、襖の中で永遠に咲いている桜に突き立てた。
ガンッ!と櫛が叩き付けられた音がして、その後、ガリガリと硬いものを引っ掻くような音が、暗い無人の廊下に響いていた。
エンヤの視界には、無残な姿になった桜が映っている。その姿を見て漸く、彼女の顔には笑みが戻った。
「妾は、白が嫌いじゃ」




