第9話 この街に響け、ふたりの歌
『止まない雨なんてない』
その歌詞が頭の中で響いている。文化祭の夜、特設ステージの袖で待機している今この瞬間、私の心臓はまるで壊れたメトロノームのように不規則に鳴り響いていた。手のひらは汗でべっとりと濡れ、喉の奥が乾いて仕方がない。まるでずっと雨に打たれ続けているような気分だった。
「大丈夫?」
葵の心配そうな声が、私の耳に届く。彼女は私の肩に手を置いて、いつものように明るい笑顔を見せてくれているけれど、その目の奥には私への心配が宿っている。
「うん、大丈夫」
嘘だった。全然大丈夫じゃない。ステージの向こうから聞こえてくる観客のざわめきが、まるで津波のように私を飲み込もうとしている。指先が震えていた。でも、その震えは、どこかあたたかくて、心の奥から湧いてくるものだった。
「凛、深呼吸して」
静雄が私の隣でギターを抱えながら、静かに言った。彼の声は、いつものようにどこか儚げで、でも今夜は確かな強さを秘めている。私は言われた通り、ゆっくりと息を吸って、ゆっくりと吐いた。
「僕も緊張してる」
静雄が小さくつぶやく。そんな彼を見つめていると、なぜか少しだけ安心した。私だけじゃない。静雄も同じように心を震わせている。
「でも、凛の詩を歌えるのが嬉しいんだ」
彼がそう言って、私に向けて微笑みかけた。その笑顔は、SNSで初めて彼の歌声を聞いた時と同じように、私の心を温かく包んでくれる。
そういえば、静雄は普段は寡黙で目立たないけれど、音楽の話になると人が変わったように熱を帯びる。昨夜も夜中の二時に私の投稿した詩を読んで、興奮して即座にメロディーを作り上げていた。『この詩の中の星の部分、五回転調して試したけど、どれも君の言葉の温度に届かない』『三小節目のここ、音が合わないと眠れない。朝までやり直すから待ってて』そんなメッセージが止めどなく送られてきた時、彼の音楽への執念めいた愛情に少し驚いたものだった。まるで音楽が彼の血液と置き換わっているような、そんな異常なほどの熱量を感じた。
司会を務める生徒の声がマイクを通して響く。
「続いて、佐藤凛さんと高橋静雄さんによる、オリジナル楽曲の発表です」
私の名前がスピーカーから流れると、観客席からちらほらと声が聞こえてきた。
「佐藤凛って、あの図書室にいつもいる子?」
「え、あの子歌うの?」
「高橋って誰だっけ?」
知らない生徒たちの素直な反応が、私の胸を締め付ける。そう、私は今まで目立たない存在だった。クラスでも、学校でも、家庭でも。でも今夜は違う。今夜は私の声を、私の言葉を、みんなに届けるんだ。
「行こう」
静雄が私の手を軽く握った。その瞬間、温かさが私の指先から心臓まで駆け抜ける。私たちは一緒にステージの中央へ向かった。
スポットライトが私たちを照らすと、観客席が一気に静まり返る。想像していたよりもずっと多くの人たちが座っていて、その視線がすべて私たちに注がれているのが分かる。
マイクスタンドの前に立つ。私の手は、まるで意思を持っているかのように震えている。でもその感覚は、嫌なものじゃなかった。
「皆さん、こんばんは」
私は震え声でマイクに向かって話しかけた。観客席から小さなどよめきが起こる。きっと普段の私からは想像できない姿なのだろう。
「私は、SNSで『Luna』として詩を投稿している佐藤凛です。そして隣にいるのは、私の詩に歌をつけてくれる『NoName』こと、高橋静雄くんです」
静雄がギターを構えながら、観客席に向けて軽く頭を下げた。その時、観客席の一角で何かざわめきが起こった。
「おい、高橋じゃないか」
聞き覚えのある声に、私の背筋が凍った。田中だ。彼が数人の仲間と一緒に席から立ち上がろうとしている。静雄の体が一瞬強張ったのが分かった。
「昔とあんまり変わってねーな。まだ歌なんて歌ってんのか?」
田中の声が会場に響く。周りの観客たちがざわめき始めた。何が起こっているのか分からない人たちが、きょとんとした表情で田中の方を振り返っている。
でも、よく見ると田中の表情には、挑発だけではない何かが混じっていた。複雑な、どこか懐かしさを含んだような表情。
私は静雄を振り返った。彼の顔は青白くなり、ギターを持つ手がわずかに震えている。過去のトラウマがよみがえってきているのが分かった。
「静雄くん」
私は小さく彼の名前を呼んだ。彼が私の方を見る。その目には不安と戸惑いが浮かんでいる。
「大丈夫。私がいる」
私は彼にだけ聞こえるように囁いた。すると彼の表情が少しだけ和らいだ。
その時、観客席の中央付近から葵の声が響いた。
「静かにして!始まるから!」
葵が田中の方を睨みながら、周りの観客たちに拍手を促している。すると、葵に賛同するように、あちこちから拍手が起こり始めた。
観客たちの声に押されて、田中は仲間たちと共にしぶしぶ席に座り直した。でも彼の視線は依然として静雄に向けられている。ただ、その目の奥に宿るものが、最初の敵意とは少し違って見えた。
私はマイクに近づいた。今こそ、私の声を届ける時だ。
「今夜演奏する楽曲は、『君の声が聞こえる街』です」
静雄がギターの弦に指を置いた。最初の一音が、まるで夜明け前の霧のように静かに、でもどこか切なく響いた。その音色が空気を震わせるたび、誰かの心の奥をノックするような、そんな不思議な響きがあった。観客席のざわめきが次第に収まり、皆が耳を澄ませている。
田中の表情にも変化が見えた。いつもの不敵な笑みが消え、どこか遠くを見つめるような目になっている。
私は目を閉じて、胸の奥深くに眠っている言葉を探した。母さんの秘密も、お父さんとの距離も、仁への想いも、すべてを込めて歌うんだ。瞼の裏に、あの夜空が浮かんだ。いつも詩を書く時に見上げる星空。一つ一つの星が、私の心の声のように光っていた。
私の心臓の音が、まるでマイクに拾われているかのように大きく感じられた。でも、静雄の美しいメロディが響いた瞬間、その鼓動すら忘れていた。
「ひび割れた窓越しに見上げた空は
どこまでも青くて、少しだけ痛かった
誰にも言えない孤独が
君の声で、すこしずつ融けていった」
ところが、一番の歌詞を歌い終えた瞬間、マイクから雑音が響いた。観客席がざわめく。音響機器の不調だった。私の声が途切れ、急に静寂が訪れる。
「あー、あー」
マイクチェックをするが、音が出ない。心臓が早鐘のように鳴り始めた。観客席から心配そうなざわめきが聞こえる。私はパニック寸前だった。歌詞が頭から飛んでしまいそうになる。
その時、静雄が私の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫、凛。僕がいる」
彼がマイクなしで歌い始めた。澄んだ声で、メロディーを紡いでいく。観客席が静まり返る。
私の声が会場に響く。最初は震えていたけれど、歌詞を紡いでいくうちに、だんだんと力強くなっていく。家の中の冷たい空気、ひび割れた家族関係、そのすべてがこの歌詞に込められている。
静雄のギターが私の歌声に寄り添うように、美しいメロディーを奏でている。私たちの音楽が重なり合って、何か特別なものを作り出している。
「閉じたドアの向こう 聞こえた泣き声
大人たちの正しさが 私を遠ざけた
でも君の音だけが 本当を教えてくれた
一人じゃないって 歌ってくれた」
サビの部分に入ると、静雄も一緒に歌い始めた。
「誰にも届かない声でも
君だけが聴いてくれる
この街のどこかで響いてる
私たちの歌声」
その一節が繰り返される時、会場全体が息を呑んだ。観客席の至る所で、静かにハンカチを目に当てる人たちの姿が見えた。私たちの歌が、誰かの心の奥深くに届いているんだ。
田中も、じっと私たちを見つめている。彼の表情から挑発の色が完全に消え、代わりに何か複雑な感情が浮かんでいる。
二番の歌詞に入る。私は静雄を見つめながら歌った。彼も私を見つめ返してくれる。この瞬間、私たちの間に流れているのは、ただの音楽じゃない。心と心の対話だ。
「傷ついた夜も 涙した朝も
君の声だけが 私を支えてた
画面の向こうの温もりが
現実になって、今ここにある」
観客席の何人かが小さく口ずさみ始めた。メロディーを覚えて、一緒に歌ってくれているんだ。
最後のサビが始まると、観客席からも小さな歌声が聞こえ始めた。みんなが、私たちと一緒に歌ってくれている。
「君の声が聞こえる この街で
私は私になれる
ひとりじゃない もう怖くない
一緒に歌おう 明日へ向かって」
最後のフレーズを歌い終えると、静雄のギターが美しいアウトロを奏でる。その音色は、まるで星空に響く鐘のように透明で、でも温かかった。音が会場の隅々まで響き渡り、やがて静寂に包まれる。
数秒間の静寂の後、観客席から拍手が沸き起こった。最初はまばらだったけれど、すぐに会場全体を包み込む大きな拍手になった。
私は静雄の方を振り返った。彼も私を見つめて、安堵の表情を浮かべている。
「やったね、凛」
「うん、やったね、静雄くん」
私たちは同時に微笑んだ。
その時、田中が立ち上がった。私は身構えたが、彼の表情は今までと違っていた。怒りではなく、苦悩に満ちていた。
「待てよ!」
彼の声が会場に響く。でも、挑発的な響きはもうそこにはなかった。
「高橋、お前らが羨ましいよ」
田中の声が震えている。
「俺だって、あの時、笑われなきゃ…!歌詞を書くの、怖くなったんだよ。みんなに馬鹿にされて、もう二度と音楽なんてやるもんかって」
観客席がシーンと静まり返る。田中の告白に、みんなが息を呑んでいる。
「でも今夜、お前らを見てて分かったんだ。俺が諦めただけだった。『止まない雨なんてない』って、俺が書いた歌詞だったのに…俺が一番信じてなかった」
私は胸が熱くなった。田中の痛みが、私にも伝わってくる。
田中が続けた。
「俺にはもう音楽なんてできねぇよ…笑われるのが怖くて、もう三年も何も書いてない」
彼の声が震えている。でも、その奥に何かが宿っていた。
「けど…けど、またやりたいって思っちまった。お前らの歌聞いてて」
そのふとした表情に、中学時代の彼の面影が見えた気がした。
静雄がギターを握りしめながら言った。
「田中、君の歌詞、本当にすごかった。『止まない雨なんてない、きっと明日は晴れるから』…僕はあの詞に何度も救われた」
私も前に出た。マイクが直った今、私の声で伝えたいことがあった。
「私も、その歌詞に出会ったから今夜ここに立てた。雨の中でも、歌い続けることができるって教えてもらったから」
そして私は、田中を見つめながら歌った。彼の歌詞を、私なりに続けて。
「止まない雨なんてない
でも止まないうちに走り出すのも
きっと正解なんだ」
田中の目に、涙が光った。
「高橋」
田中が立ち上がった。その目には、もう敵意は宿っていなかった。代わりに、懐かしさと、そして少しの恥ずかしさが混じっていた。
「あの頃の歌詞、覚えてたのか」
「うん。君が作った歌詞、すごく良かった。今でも覚えてる」
二人の間に、何か特別な時間が流れている。私にはよく分からないけれど、彼らには共有している過去があるんだ。
田中が小さく頭を下げた。
「高橋、悪かった。あの時のことも、今日のことも」
「僕も、もっと早く話せばよかった」
静雄がマイクに向かって答えた。
「でも、今夜歌えて良かった。ありがとう」
そして、静雄は勇気を出して言った。
「田中、また一緒に音楽やらないか?今度は三人で」
会場がどよめく。田中は一瞬驚いたような表情を見せたが、やがて小さく頷いた。
「…やってみようか」
観客席からまた大きな拍手が起こった。今度は、私たちの歌だけでなく、この和解の瞬間にも向けられた拍手だった。
私はマイクに近づいた。心の中で思い描いていた言葉を、今度は声に出して伝えよう。
「皆さん、聞いてくださってありがとうございました」
観客席から「良かったよ!」「また歌って!」という声が飛ぶ。
私たちがステージを降りると、葵が飛び跳ねながら駆け寄ってきた。
「すごかった!感動して泣いちゃった!」
彼女の目には確かに涙の跡があった。
「ありがとう、葵」
担任の中村先生が近づいてきた。その時、私は決意した。もう隠れるのはやめよう。
「先生」
「なあに?」
「私、もう自分を押し殺すのはやめます。家のことも、自分のことも、ちゃんと向き合います。だから…」
私は深呼吸した。
「私はもう隠れません」
中村先生は優しく微笑んだ。
「凛さん、今夜のあなたは本当に輝いていたわ。あの田中くんとのやり取り…三人とも、中学の時一緒にバンドやってたのよね。田中くんも昔は作詞をしてたの。でも、からかわれて音楽をやめちゃった」
中村先生の言葉で、さっきの光景がより深く理解できた。
会場の片付けが始まると、何人もの生徒たちが私たちの元に駆け寄ってきた。
普段なら人との会話が苦手な私だけど、今夜は違った。みんなと話すのが楽しくて、嬉しくて、時間があっという間に過ぎていった。
夜も更けて、文化祭の片付けも終わり、私たちは学校の屋上にいた。
「今夜は、夢みたいだった」
私が呟くと、静雄が頷いた。
「僕も。凛と出会えて、一緒に歌えて、本当に良かった」
彼がそう言って、私の手を握った。その温かさが、私の心を静かに満たしていく。
「田中のことも、なんか不思議だった。まさか昔、一緒に音楽やってたなんて」
「うん。彼の歌詞、実はすごく良かったんだ。『止まない雨なんてない、きっと明日は晴れるから』って続くんだよ」
静雄がそう言うと、私も田中の心境が少し理解できた気がした。
私たちは夜空を見上げた。星が綺麗に輝いている。一つ、二つ、三つ…今夜は星の数が増えているような気がした。私がいつも詩のインスピレーションを得ている星空が、今夜はいつもより明るく見えた。まるで私の心に新しい星が生まれたような、そんな感覚だった。
「これからも、一緒に歌おう」
「うん。私たちの歌を、もっとたくさんの人に届けよう」
その時、私のスマートフォンに通知が届いた。SNSのメッセージだった。
『今夜のライブ、すごく良かったです。お姉ちゃんの歌、聞けて本当に良かった。家のことも、僕なりに考えてみます。-仁』
弟からの匿名メッセージだった。私の心が一気に温かくなった。家族の中でも、私の声は届いていたんだ。
「静雄くん、見て」
私は彼にメッセージを見せた。彼も嬉しそうに微笑んだ。
「良かったね、凛。君の声は、本当にたくさんの人の心に届いてるんだ」
明日からは、また普通の高校生活が始まる。でも、今夜の経験が私たちを変えてくれた。私はもう、自分の声を隠さない。お父さんにも、今度はちゃんと向き合って話してみよう。『お父さん、私たち家族のこと、一緒に考えませんか』って。
お父さんの顔が浮かんだ。去年、私が学校の合唱コンクールに出ると言った時の顔。『音楽なんてくだらない。もっと現実的なことを考えろ』そう言って、結局発表会を見に来てくれなかった。でも今なら分かる。お父さんも、きっと自分なりに私のことを心配してくれていたんだ。ただ、伝え方が分からなかっただけで。
屋上から見下ろす街の灯りが、まるで私たちの未来を照らしてくれているようだった。私は静雄の手を握り返し、心の中で誓った。これからは、自分の声で、自分の言葉で、大切な人たちと向き合っていこう。
静雄が空を見上げながら呟いた。
「止まない雨なんてない…でも、雨の日にも美しい音楽は生まれるんだね」
「うん。そして晴れた日には、もっと遠くまで歌声が届く」
私たちが見上げた夜空で、星たちがきらめいていた。一つ一つが、私たちの想いを映しているような、そんな美しい光だった。
夜風が頬を撫でていく。それは、明日への希望を運んでくれているような、そんな優しい風だった。
『止まない雨なんてない、きっと明日は晴れるから』
田中の歌詞が、今度は希望の調べとなって、私たちの心に響いていた。