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第7話 告白はノイズの中で

 午後十一時。弟の寝息だけが部屋に響いている。仁は今夜も私のベッドで眠っていた。両親の喧嘩が激しかった日は、決まってこう。


 スマホの画面にNoNameからの通知が点滅している。青い光が弟の頬を薄く照らした。


『凛、起きてる?』


 画面越しに伝わる緊張。私の心臓も同じリズムで鼓動を始めた。


『起きてるよ。どうしたの?』


『話したいことがあるんだ。時間、大丈夫?』


『オンライン通話にする?』


『うん、お願いします』


 通話が繋がった瞬間、いつもと違うことがすぐに分かった。静雄の呼吸が浅い。声の奥に、重いものを抱えている。スピーカーから漏れる彼の吐息が、まるで部屋の空気を震わせているみたい。


「凛、聞いてくれる?」


 街灯の明かりだけが部屋に差していた。私はその薄暗さに身を沈め、膝を抱えて座り直す。膝に当たる肘の感触が妙に冷たくて、胸の奥で何か大切な話が始まる予感がしていた。


「もちろん」


「僕、本当のことを話してなかった」


 静雄の声が震えた。私は小さく息を吸って、待つことにした。急かしてはいけない。窓の外で、夜風が街路樹の葉を擦る音がさらさらと聞こえる。


「中学の時のこと。いじめって言ったけど、本当はもっと…」


 言葉が宙に浮いて、消えていく。私は静雄の息遣いに耳を澄ませた。部屋の時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえた。


「僕、昔は人前で歌うのが大好きだったんだ。地元のお祭りとか、商店街のイベントとか。中学二年の夏祭りで歌った時、知らないおばさんが近づいてきて『いい声ねえ、将来有名になっちゃうかも』って」


 静雄の声に、失われた光がちらりと戻ってくる。スマホの向こうで、彼が昔を思い出しながら微笑んでいるのが想像できた。


「その時が、人生で一番幸せだった」


 胸がじんわりと温かくなる。そんな静雄を想像すると、今の彼がどれだけの闇を背負っているかが際立って見えた。私の手が、無意識にパジャマの胸元を握りしめた。


「でも、クラスの田中くんって奴が僕の歌を動画に撮ってたんだ。勝手にSNSに上げて、『女々しい』『調子に乗ってる』って書いて」


「それで…」


「一晩でクラス中に広まった。廊下ですれ違う度に、くすくす笑われる。僕が歌ってる時の顔真似をして見せる奴もいた。『高橋の歌真似〜』って」


 私は息を詰めた。机の上のノートに書きかけの詩が見えて、そのインクの青さが急に色褪せて見えた。


「一番辛かったのは、文化祭だった」


 静雄が大きく息を吸い込む音が聞こえた。まるで、水中から顔を上げるみたいに。


「バンドを組んでたんだ。ギターの田村くん、ベースの山田さん、ドラムの小林くん。三ヶ月間、放課後の音楽室で練習して。『青春』って曲をやる予定で」


 静雄の声に、取り戻せない時間への哀しみが滲んでいる。私の目の前にも、彼らが音楽室で笑い合っている光景が浮かんだ。


「でも本番直前に、田中くんたちがステージ裏に来た。『歌ったらもっと笑いものになるぞ』『今度はもっと大きく拡散してやる』って。そしたら急に、声が…」


 私は身を硬くした。弟の体温だけが、この瞬間の唯一の温もりだった。


「出なくなったんだ。口は開くのに、息はできるのに、声だけが喉の奥で死んでた。どこにも届かない音が、喉の奥で白い息に変わって消えた」


「静雄くん…」


「マイクの前で固まった。観客席から失笑が聞こえて、ざわめきが広がって。田村君が慌てて代わりに歌ってくれたけど、僕はただ立ち尽くすことしか。口は動いているのに、窓の外の木の葉すら揺れなかった」


 涙が頬を伝った。画面の向こうにいる静雄の、あの日の絶望を想像すると、胸が締め付けられた。街灯の光が、涙に滲んでぼやけた。


「それから人前で歌えなくなった。母さんがくれたギターも触れなくて。『もう二度と歌わない』って決めたんだ」


「そんなことないよ」


 思わず、言葉が溢れていた。


「あなたの歌は、私の詩に命を吹き込んでくれる。温度をくれる。生きてるって感じさせてくれる」


 膝を抱えながら続ける。今度は私が話す番だった。でも、自分のことを話すのは、静雄の痛みを聞くのとは違う種類の怖さがあった。


「実は、あなたのことを知ったのはもっと前なの。去年の冬、NoNameとして初めて投稿した『雪の夜に』を聞いてた」


 静雄が息を呑む気配。スピーカーの向こうで、彼が驚いている表情が目に浮かんだ。


「あの歌で私は救われた。両親の離婚話が出始めた頃で、夜中に一人で泣いてることが多くて。でも、あなたの歌声を聞いて『私だけじゃないんだ』って初めて思えた」


「それは……、分からなかった」


「私も声を出すのが怖かったの」


 言葉が喉の奥で詰まった。この話をするのは初めてだった。誰にも話したことがない、私だけの秘密。机の上のペンが、電気の下で小さく光っている。


「小学校の時、授業参観で詩を朗読することになったの。自分で書いた詩を、みんなの前で読む機会をもらって。すごく嬉しくて、一週間も前から練習してた」


 胸が苦しくなってきた。でも、話さなければいけない気がした。窓の外の風が、カーテンを微かに揺らした。


「当日、両親も来てくれる予定だった。でも朝から二人の喧嘩が始まって。『お前が仕事ばかりだから子供が寂しがってる』『私だって好きで働いてるわけじゃない』って。声が廊下まで響くくらい激しくて」


 静雄が静かに息を吸う音が聞こえた。私の手の中で、スマホが微かに震えているのを感じた。


「授業が始まる時間になっても、喧嘩は続いてた。私の順番が来た時、教室の扉が開いて、父が息を切らして入ってきたの。母はいなかった。きっと家を出て行ったんだと思う」


 涙が頬を伝った。その涙が、膝に落ちて小さく染みを作った。


「みんなの前に立った時、頭の中で父と母の怒鳴り声が響いて。詩を読み始めたら、自分の声が喧嘩の声と重なって聞こえて…息ができなくなった。教室の蛍光灯がやけに明るくて、自分の影だけがくっきりと床に映っているのを覚えてる」


「凛…」


「結局、最後まで読めなかった。『ごめんなさい』って言って、席に戻った。それから人前で自分の声を出すのが怖くなった。大きな声を出すと、また喧嘩が始まるんじゃないかって」


 沈黙が続いた。でも、重苦しい沈黙じゃない。お互いの痛みが、静かに響き合っているような沈黙。部屋の空気が、少し軽くなったような気がした。


「だから詩を書くことでしか、自分を表現できなかった。声に出さずに済む方法で。ノートのインクだけが、私の声だった」


「でも、あなたの歌を聞いていると、私の詩が歌いたがってるのが分かる。言葉だけじゃ伝えきれない何かを、あなたの声が運んでくれる」


「凛がLunaだって知った時、本当に驚いた。『静寂の中で』っていう詩、何度も読み返してたから。この人は僕と同じような痛みを知ってるんだって」


 私はその詩を覚えていた。両親の喧嘩を聞きながら、夜中に書いた詩。深夜二時、涙で滲んだ文字。そのインクは今も、ノートの隅で青く残っている。


「だから、お願い。一緒に歌って」


 長い沈黙が続いた。弟の寝息と、自分の心臓の音だけが部屋に響いている。


「……ギター、出してみるよ」


 静雄の声が小さくつぶやいた。


 しかし、そのあと長い沈黙が続いた。向こうで何かをためらっている気配が、スマホ越しにも伝わってきた。私は息を殺して待った。


「……少し、手が震えてる」


 息を吸う音がマイク越しに聞こえた。深く、そして苦しげに。


「……昔のことが、急に鮮明によみがえってきた。田中くんたちの顔、客席のざわめき、あの時の喉の詰まり…ギターケースを開けた瞬間、また笑い声が聞こえてきそうで」


 私は静雄の苦しみが手に取るように分かった。机の上のペンを握る私の手も、知らないうちに震えていた。


「怖い。触った瞬間、あの声が蘇ってきそうで。『気持ち悪い』『女々しい』って笑う声が――」


「静雄くん、落ち着いて!取り敢えず深呼吸しよう」


 思わず口から出た言葉。


「今、隣にいるのは私。あなたを笑ったりしないよ。私も怖いけど、一緒にいる」


 数秒の沈黙。窓の外で蝉の声が止んだ気がする。


 そのあと、小さな音が響いた。金属のファスナーを開ける音。


「……ギターケース、開けた。埃がすごい。弦に積もった埃が、部屋の電気に照らされて舞ってる。……怖かったけど、開けた」


 震えながら、でも確かに一歩踏み出した声だった。


「弦も緩んでる。一年以上触ってなかったのに…」


 がさがさと音が聞こえる。きっと、恐る恐るギターを手に取っているんだ。


「チューニングしなきゃ」


 静雄の声に、少しだけ生気が戻ってきた。まるで、長い眠りから覚めたみたいに。


「歌えなくても、音を手放したくなかったんだ。だからBGMを作ってた。歌わない音楽も、あるんだって信じたくて」


「音が…出た」


 小さく、驚いたようにつぶやく声。私の胸にも、その驚きが響いてきた。


「指が覚えてる。不思議だな。体が覚えてくれてた」


 ぽろん、と単音が響いた。それから、恐る恐るといった様子で、簡単なコード進行。その音が、私の部屋の空気を微かに震わせる。


「凛、何か詩を読んでくれる?」


 私の胸も急に締め付けられた。詩を声に出すこと。それは私にとっても、小学校以来の挑戦だった。


「私が?」


 声が震えた。スマホを握る手に汗がにじんでいる。


「君の詩を聞きながら、メロディを探してみたい。昔みたいに」


 手元のノートを慌てて開く。ページをめくる手が震えている。インクの匂いが、ふわりと鼻をくすぐった。


「『夜空に響く歌』。この前書いたもの…でも、声に出すの、やっぱり怖い」


「僕も怖いよ。でも、一緒なら大丈夫な気がする」


 深呼吸した。今夜は違う。静雄が勇気を出してギターを手に取ったのだから、私も一歩前に出なくちゃ。


 でも、最初の一行を読もうとした時、喉が詰まった。小学校の授業参観の記憶が蘇ってくる。あの時の蛍光灯の眩しさ、みんなの視線、父の困惑した表情。


「ごめん、やっぱり――」


「大丈夫。僕がギターで支えるから。君の声に寄り添うから」


 静雄の優しい声と、ギターの柔らかな音色が聞こえてきた。まるで、私を包み込むような音。その音が、部屋の街灯の光を少し暖かく感じさせた。


「『街の灯りが消えた後で』」


 震え声だったけれど、声に出せた。静雄のギターが、私の声を受け止めてくれる。弟の寝息が、優しいリズムになった気がした。


「『私たちは本当の顔を見せる』」


 二行目は、少しだけ強く読めた。ノートの文字が、暗がりの中でも鮮明に見える。


「『昼間隠していた想いを 夜風に乗せて歌にする』」


 ギターの弦を弾く音が聞こえてきた。最初はぎこちなかったけれど、だんだん滑らかになっていく。まるで、私の言葉に寄り添おうとするみたいに。その音が、窓辺のカーテンを微かに揺らした気がした。


「『君の声が聞こえるから 私は一人じゃないと知る』」


 今度は、静雄がかすかに鼻歌を歌い始めた。震え声だったけれど、確かに歌声だった。私の胸に、暖かい何かが広がっていく。


「『遠く離れていても 心は同じメロディを奏でてる』」


 私が歌うように詩を読むと、静雄の歌声が少し大きくなった。勇気が少しずつ、戻ってきている。そして私の声も、だんだん震えが止まってきた。ノートを見つめる目に、もう涙はなかった。


 二つの声が、スマホの小さなスピーカーを通して重なり始めた。不完全だけれど、確かにハーモニーが生まれている。部屋の空気が音楽に満たされていく。


 最後の一節を歌い終えた時、二人同時に大きく息を吐いた。まるで、長い間息を止めていたみたいに。


「凛、今…僕たち、歌ってたよね?」


 驚きと喜びが混じった声。子供みたいに純粋で、光が戻ってきた声。


「うん。歌ってた。私、声に出せた」


 信じられなかった。こんなにも自然に、声を重ねることができるなんて。そして、人前で朗読できなかった私が、声に出して詩を読めるなんて。窓の外の街路樹が、風に揺れて私たちを祝福しているみたい。


「待って、今浮かんだの」


 手元のノートに慌ててペンを走らせた。詩が降りてくる。静雄と歌ったことで、新しい言葉が生まれている。ペンのインクが、ページに新鮮な青さを刻んでいく。


『怖くても 震えても それでも立ち止まらない だって君の声が 私の背中を押してくれるから 君の音楽が 私の言葉を受け止めてくれるから』


「これ…」


「即興だから、まだ荒いけど」


「僕も。君への詩だよ。初めて書いた」


 スマホに新しいメッセージの通知。静雄からのテキストメッセージだった。


『あなたの声が、まだここにいるって教えてくれる 消えそうになった僕を、もう一度この世界に繋いでくれる 震える手で弦を弾いても 君がいれば怖くない』


 それは詩だった。今の想いを込めた、静雄から私への詩。


「初めて詩を書いたの?」


「うん。凛の詩を読んでるうちに、僕も言葉にしたくなった。君の勇気をもらって」


 涙がにじんだ。私の詩が、静雄の中で新しい表現を生み出している。そして、静雄の音楽が、私に声を与えてくれた。机の上のノートに、新しいページが開かれている。


「文化祭まであと二週間だよね」


「うん」


「僕、やってみたい。君と一緒に、ステージに立ってみたい」


 息が止まった。部屋の時計の秒針が、一瞬静止したような気がした。


「本当に?でも、田中くんがいるでしょ?」


「怖いよ。今でも手が震えてる。でも、君となら…君の詩があれば、きっと大丈夫」


 私も震えた。人前で詩を読むなんて、小学校以来の挑戦。でも。


「私も怖い。人前で詩を読んだことなんて、あの失敗以来ないから。でも」


「でも?」


「一緒に怖がろう。一人で震えるより、二人で震える方がきっと勇気になる」


 静雄が笑った。初めて聞く、本当に嬉しそうな笑い声。光が戻ってきた笑い声。その笑い声が、私の部屋にも明るさを運んできた。


「この歌は、僕たちが"声"を取り戻すための歌だ」


 静雄の言葉が、まっすぐ心の奥に響いた。


「そうね。過去は消せない。でも、歌にすれば、未来に変えられる。傷も込みで、それが私たちの歌になる」


「練習しよう。毎晩、こうやって。君の詩と僕のギターで。お互いの恐怖も一緒に乗り越えながら」


 頷いた。弟が寝返りを打って、私に少し寄りかかってきた。


「新しい詩を書きたいの。私たちの歌のための詩を。あなたの過去も、私の想いも、全部込めた詩を」


 静雄がしばらく考え込んでいる気配がした。


「それって、すごく勇気がいることだね。全部をさらけ出すって」


「うん。でも、あなたがギターを手に取ったみたいに、私も一歩踏み出したい。もう隠れるのはやめる。声を出すのが怖くても、もう逃げない」


「分かった。一緒に作ろう。僕たちだけの歌を」


 胸が熱くなった。ノートの新しいページが、可能性に満ちて見える。


「文化祭の時、あなたは『NoName』じゃなくて、静雄くんとして歌うの?」


 長い沈黙。


「そうだね。もう隠れるのは、やめよう。僕は高橋静雄。君は佐藤凛。二人で作った歌を、二人の名前で歌おう」


 今まで『Luna』として詩を書いてきたけれど、確かに私は佐藤凛だ。隠れ続ける必要なんてない。声を出すのが怖くても。


「そうしよう。私はもう、詩だけで隠れて生きない。静雄と歌うことで、やっと本当の声を見つけた気がする」


「僕も。君の詩があれば、僕も歌える。君がいれば、田中くんなんて怖くない。君の勇気をもらったから」


 それから二時間近く、詩とメロディを合わせる作業を続けた。一つ一つの音符、一つ一つの言葉に魂を込めているような気持ちで。二人で作り上げる歌が、少しずつ形になっていく。ギターの音が、私の部屋の空気を暖かく包んでいく。


 私たちの傷も、恐怖も、すべてが歌の一部になっていく。


「そろそろ寝よう」


 午前二時を過ぎていた。時計の針が、静かに時を刻んでいる。


「明日は学校で会うんだよね。でも、まだ普通には話せないね」


「田中くんがいるから。でも、もう少しの辛抱だから」


 胸がちくりと痛んだ。でも、今日ほど希望を感じた夜はなかった。


「文化祭が終わったら、もっと普通に話せるようになるかな。教室でも、廊下でも」


 希望が込められた静雄の声。


「きっとそうなる。私たちの歌で、きっと何かが変わる。周りも、私たちも」


 確信していた。


「僕、明日からギターの練習を再開する。毎日弾く。指がなまらないように。君のためにも」


「それは素晴らしい。私も、毎日詩を書く。私たちのための詩を。そして、声に出す練習も」


「凛の新しい詩、楽しみにしてる。あと、凛の声も」


 穏やかな声。


「じゃあ、お疲れ様」


「お疲れ様。いい夢を――」


 通話が切れて、部屋に静寂が戻った。でも、さっきまでとは違う静寂。希望に満ちた静寂だった。弟の寝息が、優しい子守唄に聞こえる。


 弟の寝顔を見下ろしながら、今夜のことを反芻した。静雄が恐怖と戦いながらギターを手に取った瞬間、私が震え声で詩を読み始めた瞬間、私たちの歌声が重なった瞬間、すべてが鮮明に蘇ってくる。


 机の上のノートを開き、新しい詩を書き始めた。さっきまでとは違う。言葉が自然に溢れてくる。ペンのインクが、青から深い紺に変わったような気がした。


『傷ついた声も 震える手も すべて受け入れて歌にしよう 君と私の物語を 夜空に響かせよう 小さな勇気も 大きな恐怖も すべてが今夜の歌になった 君がそばにいてくれるから 私たちの歌声は きっと誰かの心を照らすだろう』


 文字を書く手が、いつもより滑らかに動く。静雄という存在が、私の中の何かを解き放ってくれた。そして私も、声を出すという新しい一歩を踏み出せた。


 窓の外で、夜風が街路樹を揺らしている。葉っぱたちがさらさらと歌っているみたい。まるで私たちを応援してくれているみたいに。今夜だけで四つの詩が完成した。どれもインクの色が、微妙に違って見える。


 二週間後、私たちは確実にあのステージに立つ。きっと今までとは違う、新しい私たちに出会える。田中も観客席にいるだろう。でも、もう怖くない。静雄と一緒なら。私たちの歌なら。


 心の中で、静雄のギターの音がまだ響いている。彼の震え声も、私の詩を読む声も、すべてが一つの歌になっていく。私たちだけの、特別な歌に。


 ベッドに潜り込み、弟の温かい体温を感じながら目を閉じた。私たちの歌声が、きっと誰かの心を照らすのだろうという確信が、胸の奥で静かに、でも力強く燃え続けていた。


 静雄との歌が、これからの毎日を変えていく。そして、私自身も変わっていく。声を失った二人が、一緒に声を取り戻していく。そんな予感で胸がいっぱいだった。枕元に置いたノートから、新しいインクの匂いがほのかに香ってくる。それは、希望の匂いだった。

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