第5話 声にならない声
昨夜のオフ会から一夜明けた月曜日の朝、私は赤いマフラーを首に巻いて学校の門をくぐった。いつもより五分早く着いたのに、心臓の音が妙にうるさい。
静雄の歌声が、まだ耳の奥に残っている。あの瞬間、彼は本当に輝いて見えた。でも今日、学校で会ったらどうしよう。昨夜の距離感を保てるだろうか。
「おはよう、凛!」
葵の声が廊下に響く。彼女はいつものようにポニーテールを揺らしながら駆け寄ってきた。
「おはよう」
私は小さく手を振った。葵の顔を見ると、昨夜の出来事が鮮明に蘇る。静雄の歌声、彼の照れたような笑顔、別れ際の「また明日」という言葉。
「なんか今日、顔色いいね。何かいいことあった?」
葵の鋭い観察力に、私は慌てて首を横に振る。
「べ、別に何も」
「怪しい。凛ってば、隠し事する時の顔してる」
葵は意地悪そうに笑った。そんな彼女の後ろから、見慣れた制服姿が現れる。
静雄だった。
いつものように前髪で目元を隠し、少し大きめの制服を着た彼は、私たちに気づくとわずかに足を止めた。私と目が合う。昨夜の距離感が嘘のように、急に空気が重くなった。
「あ……」
私が口を開きかけた時、静雄は軽く会釈をして、そのまま教室の奥へ向かった。まるで昨夜の出来事がなかったかのように。
胸が締めつけられる。やっぱり、学校では違うんだ。NoNameの彼と、高橋 静雄は別人なんだ。
「え? 今の人、誰?」
葵が首をかしげる。私は慌てて彼女の腕を引っ張った。
「ク、クラスメイトよ。ほら、席に着こう」
一時間目の現代文の授業中、私は何度も静雄の方を振り返った。彼は真面目にノートを取っているように見えたけれど、時々ペンが止まって、窓の外を見つめている。その度に、肩が小さく震えているのが見えた。
何かに怯えているみたい。
その横顔を見ていると、胸の奥がきゅっと締めつけられる。昨夜の彼は、こんなに遠い存在じゃなかった。あの時の静雄は、自由で、生き生きしていて、まるで別人だった。
「凛さん」
先生の声にハッとして前を向く。クラスメイトたちの視線が私に集中し、頬が熱くなった。
「す、すみません」
「『雅歌』について、どう思いますか?」
雅歌。その言葉に、私の心臓が跳ねる。昨夜、静雄が私の詩を「雅歌みたい」と言ってくれたことを思い出す。
「あの……、愛を歌った詩として、とても情熱的で……」
私の声は小さくて震えていた。でも、なぜか続きが出てくる。
「言葉の一つ一つに、想いが……」
「そうですね。『雅歌』は愛の讃美歌とも呼ばれ、人間の純粋な愛情を歌ったものです。佐藤さんの感想、とても的確ですね」
先生が褒めてくれる。クラスが静かになった。普段あまり発言しない私の言葉に、みんなが注目している。その中に、静雄の視線も感じた。
振り返ると、彼が私を見つめていた。驚いたような、でも少し嬉しそうな表情で。その瞬間、私の胸が暖かくなった。
休み時間になると、葵がすぐに飛んできた。
「凛、さっきの発言すごくよかった! 先生も感心してたよ。いつの間にそんなに文学に詳しくなったの?」
「そ、そうかな……」
私がもじもじしていると、葵が突然私の肩を叩いた。
「そうそう、文化祭の話なんだけど」
「文化祭?」
「今年のテーマ、『つながり』なんだって。音楽イベントもあるの。凛も何かやらない?」
私は首を振る。人前に出るのは苦手だ。でも、葵の言葉が心に引っかかる。『つながり』。
「私は遠慮するよ。葵のダンス、応援してる」
「もったいないな……」
その時、静雄が席を立った。廊下に出て行く彼の背中を見て、私は急に立ち上がった。
話さなきゃ。このまま気まずい空気のままじゃ、何も変わらない。
「ちょっと、お手洗い」
「え? 凛?」
葵の声を背中に、私は廊下に出た。静雄は昇降口の方に向かっている。私は小走りで追いかけた。
「し、静雄くん」
振り返った静雄の目が、一瞬だけ大きくなった。でも、すぐに困ったような表情になる。
「あ、佐藤……さん。き、昨日は――」
「凛でいい。私も学校では静雄くんと呼ぶ」
私たちは廊下の端っこ、人通りの少ない階段の踊り場に立った。他の生徒たちの話し声が遠くから聞こえてくる。
「凛、昨日は……、色々ありがとう」
私が小声で言うと、静雄は困ったように前髪をかき上げた。その手が、わずかに震えているのが見えた。
「こちらこそ」
彼の声がかすれている。
私たちの間に、気まずい沈黙が流れる。廊下を歩く生徒たちの足音が、やけに大きく聞こえた。静雄は視線を合わせようとしない。まるで、昨夜の親密さが幻だったみたいに。
「あの……」
私たちが同時に口を開いて、また黙る。静雄が苦笑いを浮かべた。
「君から、どうぞ」
「君の歌、素敵でした」
私は勇気を振り絞った。
静雄の表情が少し和らぐ。
「君の詩があったから」
そこで彼の言葉が途切れる。何かを言いかけて、飲み込んでしまった。
「よかったら、今度一緒に……」
「高橋ちゃん――!」
突然響いた大きな声に、私たちは身を硬くした。階段の上から、がさつな足音が響いてくる。現れたのは、制服をだらしなく着た背の高い男子生徒だった。同じクラスの田中だ。
静雄の顔が瞬時に青ざめる。さっきまでの表情が消え、まるで怯えた動物みたいに身を縮こませた。
――だめだ。また……。
静雄の心の声が、なぜか私にも聞こえた気がした。
「な――にしてんの? こんなところで」
田中の視線が私と静雄を行き来する。値踏みするような、意地悪な笑みを浮かべている。
「別に、……何でもない」
静雄の声が震えている。私は彼の手が拳を握って、白くなっているのに気づいた。
「へー、彼女でもできたの?意外だな、高橋に」
田中の言葉に込められた嘲笑が、私にも伝わってくる。静雄は更に身を縮こませた。
「違う」
静雄の否定が、私の胸に刺さる。
田中は私を見て、露骨に値踏みするような目つきをした。
「地味な子だね。まあ、高橋にはお似合いか」
私は何も言えずに立ち尽くした。静雄も黙っている。ただ、彼の震えがひどくなっているのが分かる。
「そういえば高橋、中学の時もこんなだったよな。女子と話してるのを見つかって、泣きながら『違う』って……」
田中の言葉に、静雄がビクッと震える。過去の何かを突かれたみたいに。
「あれは……」
「まあいいや。あんまり人に迷惑かけるなよ」
田中は満足そうに笑って、階段を下りて行った。廊下に、重い沈黙が残る。
「……ごめん」
静雄が小さくつぶやく。その声は震えていて、今にも消えそうだった。
──迷惑をかけたくなかった。でも、それすら言えない。
「やっぱり僕は……」
彼の言葉が途切れる。そのまま静雄も階段を下りて行った。私は一人、踊り場に残された。
胸の奥が痛い。静雄の「違う」という言葉が、何度も頭の中で響く。でも、それ以上に気になるのは、彼の震えだった。あの怯えた表情。田中の言葉に込められた、過去の何か。
私には分からない。でも、静雄が傷ついているのは分かる。
昼休み、私は図書室にいた。いつもの隅の席で、ノートに詩を書いている。でも、全然集中できない。
『君の声が』
書きかけた一行を見つめる。君の声。静雄の歌声。でも、彼は人前で歌うのを怖がっている。あの震えは、ただの緊張じゃない。もっと深い何かだ。
「凛、いた――!」
葵の声に顔を上げる。彼女は息を切らして私の隣に座った。
「探したよ。お昼一緒に食べよう」
「ごめん、あまり食欲がなくて」
葵は私の顔を覗き込んだ。
「何かあった? さっきから元気ないよ」
私は首を振る。でも、葵の優しい表情を見ていると、胸が熱くなってくる。
「葵……もし、誰かが傷ついていたら?」
「どういう意味?」
私はペンを握りしめた。
「その人が、自分のことを否定してしまうほど、何かに怯えていたら」
葵は少し考えてから答えた。
「その人の気持ちを理解してあげること、かな」
そして、彼女は私の手に自分の手を重ねた。
「でも凛、もしその人が大切なら、諦めちゃだめだよ。一緒にいてくれる人がいるって分かれば、きっと勇気が出るから」
私はハッとした。そうだ。静雄は一人で怖がっている。でも、私がそばにいることを伝えられれば……。
「ありがとう、葵」
「うん。恋の相談なら、いつでも聞くからね」
葵はウインクして立ち上がった。
「あ、そうそう。音楽室で練習してる人たちもいるから、見に行ってみない?」
「文化祭……」
私は葵の言葉を繰り返した。『つながり』がテーマの文化祭。もしかしたら、これが静雄の「声」を取り戻すきっかけになるかもしれない。
「葵、お願いがあるの」
「何?」
「静雄くんも一緒に、音楽室に誘ってもらえる?」
葵の目が丸くなる。
「あ、もしかして静雄くんが……」
私は頷いた。
「多分、一人じゃ怖いんだと思う。でも、みんなで一緒なら……」
「分かった!任せて」
葵は目を輝かせた。
五時間目が終わると、葵が作戦を実行した。
「静雄くん、ちょっといい?」
静雄は驚いたように振り返る。私も一緒にいることに気づくと、さらに戸惑った表情になった。
「あ、あの……」
「音楽イベントの見学に行くんだけど、一緒に来ない?」
静雄の視線が私に向く。私は小さく頷いた。
「音楽室で練習してる人たちがいるの。見るだけでも……」
葵の誘いに、静雄は迷っているようだった。人前に出ることへの恐怖と、音楽への興味が葛藤している。
「……少しだけなら」
やっと絞り出した返事に、葵が嬉しそうに手を叩いた。
音楽室に向かう廊下で、私は静雄の隣を歩いた。彼は相変わらず緊張しているけれど、先ほどの震えは収まっている。
「……静雄くん」
私が小声で話しかけると、彼は振り返った。
「さっきのこと、気にしないで」
「ありがとう」
彼の声は小さかった。でも、少しだけ安心したような響きがあった。
音楽室のドアを開けると、ピアノの音が聞こえてきた。でも、人影は見えない。
「あれ、誰もいない?」
葵が首をかしげる。私たちは音楽室に入った。ピアノは自動演奏になっていて、美しいメロディーが流れている。
「せっかく来たのに」
葵ががっかりしていると、静雄がピアノの前に歩いて行った。
──ここに来るのは、いつぶりだろう。
「このメロディー……」
彼が自動演奏を止める。音楽室が静かになった。
「知ってる曲?」
私が聞くと、静雄は首を振る。
「いえ、でも……何か懐かしい」
彼がピアノの鍵盤に指を置く。おそるおそる、音を確かめるように。
「弾けるの?」
葵が興味深そうに聞く。
「少しだけ……母が」
静雄の指が鍵盤を撫でる。柔らかい音が響く。彼の表情が、少しずつ和らいでいく。
──怖い。でも……彼女がいるなら。
指が、動き出した。
「素敵」
私が言うと、静雄の手が止まった。
「そんな……」
「心がこもってる」
私の言葉に、静雄が驚いたように振り返る。
「君の詩も……歌いたくなるんです」
音楽室に、特別な空気が流れ始める。葵も静かに聞いている。
「静雄くん」
私は勇気を出した。
「もしよかったら……私の新しい詩」
静雄の目が見開かれる。
「新しい……?」
私はカバンからノートを取り出した。昨夜、帰宅してから書いた詩。静雄の歌声に触発されて生まれた言葉たち。
「まだ完成してないんですけど……」
『声にならない声』
タイトルを読み上げると、静雄が身を乗り出した。
「読んでも……?」
私は頷く。震える手でノートを渡した。静雄が私の詩を読む間、音楽室は静まり返った。葵も息を詰めて見つめている。
……。
静雄が無言で詩を読み続ける。その表情が、だんだんと変わっていく。驚き、そして何か深い感情が浮かんできた。
「……これ、まるで僕だ」
静雄の声が震えている。でも、恐怖ではなく、感動の震えだった。
私の胸が高鳴る。伝わっていた。私の想いが、静雄に届いていた。
「歌ってみても良い?」
静雄の申し出に、私は驚いた。さっきまであんなに怖がっていたのに。
「でも、人前で歌うのは……」
「君がいてくれるから」
静雄がまっすぐ私を見つめる。その目に、決意の光が宿っていた。
「君の詩なら……歌える気がする」
静雄は再びピアノに向かった。今度は迷いがない。指が鍵盤に触れると、美しいメロディーが生まれる。
そして、彼が歌い始めた。
『声にならない声が
胸の奥で響いてる
誰にも届かないと思って
ずっと隠してきた』
静雄の歌声が音楽室に響く。葵が感動で手を口に当てている。でも私は、彼の表情に釘付けになっていた。
歌っている間の静雄は、まったく別人だった。怯えも震えもない。
その声は、まるで深い湖に投げ込まれた小石のようだった。静かに、でも確かに波紋を広げていく。
『でも君が気づいてくれた
この想いに名前をくれた
声にならない声にも
意味があることを』
歌詞に込められた想い。私の言葉が、静雄の歌声で命を得る。これが「つながり」なんだと思った。
『だからもう隠さない
この声を届けたい
たとえ震えても、かすれても
歌い続けていたい』
最後の一節を歌い終えると、静雄の指が鍵盤から離れた。音楽室に余韻が残る。
私たちは三人とも、その美しさに言葉を失っていた。
「……すごい」
最初に口を開いたのは葵だった。彼女の目には涙が浮かんでいる。
「今のは、本当に……」
静雄は顔を赤らめて下を向いた。
「凛の詩があったからだ」
静雄が顔を上げる。その目に、さっきまでの怯えはもうなかった。
「君の言葉が、僕に歌う理由をくれた」
私たちは見つめ合った。音楽室の空気が、特別なもので満たされている。
「ねえ、二人とも」
葵が割り込んできた。でも、いつもの勢いがない。一瞬だけ、目を見開いて言葉を失った。
「……そっか。凛が、そこまで言うなら」
少しだけ笑って、彼女はうなずいた。
「これ、文化祭でやらなきゃだめだよ」
「え?」
私と静雄が同時に声を上げる。
「こんなに素晴らしい歌、みんなに……」
葵は目を輝かせている。
「文化祭のテーマって『つながり』でしょ?まさにそのもの」
私は首を振った。
「で、でも、私は人前に……」
「僕も……」
静雄も同じように戸惑っている。でも、さっきほどの震えはない。
「私がサポートするから、ね?」
葵の熱意に、私は迷った。文化祭で歌う。たくさんの人の前で、自分の想いを伝える。考えただけで足が震える。
でも、静雄の歌声を思い出す。私の詩が歌になった瞬間の美しさを。あれを、他の人にも聞いてもらいたい。
「静雄くん」
私が呼びかけると、彼が振り返った。
「もし……一緒なら……」
私の言葉に、静雄の表情が変わる。驚きと、そして希望の光が浮かんだ。
「一緒に……?」
「うん。私一人じゃ無理だけど、静雄くんとなら……」
静雄は目を見開いた。そして、ゆっくりと頷く。
「……やってみよう」
「本当に?」
葵が飛び跳ねる。
「やったー!」
私は静雄を見つめた。彼の目に、新しい光が宿っているのが見える。恐怖はまだあるだろう。でも、それ以上に強い何かが生まれていた。
歌いたいという気持ち。想いを伝えたいという願い。
「凛」
静雄が私の名前を呼ぶ。
「凛のおかげだと思う」
私の頬が熱くなる。
「そんなこと……私こそ」
私たちは笑い合った。音楽室の夕日が、私たちを優しく照らしている。
「じゃあ、明日から練習」
葵が手を叩く。
「放課後、またここで」
チャイムが鳴って、私たちは音楽室を出た。廊下を歩きながら、私は胸の高鳴りを感じていた。
文化祭で歌う。静雄と一緒に。私たちの「つながり」を、みんなに見せる。
「凛」
階段の踊り場で、静雄が私を呼び止めた。
「さっき、田中が言ったこと……」
「大丈夫です」
私は首を振った。
「静雄くんの優しさ、伝わってました」
彼の表情が安らいだ。
「理解してくれて……、ありがとう」
私たちは教室に向かった。廊下で、他の生徒たちとすれ違う。でも、もう怖くない。
静雄が隣にいてくれる。私たちには、共有する歌がある。
『声にならない声』
それはまだ、ささやかな始まりかもしれない。
でも、もしこの声が誰かに届いたら——
何かが、きっと変わりはじめる。
教室のドアを開けながら、私は赤いマフラーを握りしめた。