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第4話 詩とメロディが出会う夜

 時計の針が夜の十時を過ぎた頃、私は机の前で震える指先を見つめていた。


 下の階からは、父さんの作り物の笑い声がテレビと一緒に響いてくる。いつものバラエティ番組の音。父さんはもうずっと、画面の向こうにしか目を向けていない。母さんの帰りは遅い。いつものあの嘘くさい『おつかれ』の声を、私はもう覚えてしまった。弟は何も知らない。けれど、私は知っている。誰にも言えないまま、詩にだけ託していた――私の孤独を。


 今夜は特別な夜になる。そんな予感が胸の奥で小さくうずいている。NoNameから届いたメッセージは、いつものように短いものだった。


『今夜、時間ある?一緒に何か作ってみない?』


 私は赤いマフラーを首に巻き直し、パソコンの前に座る。画面に映る自分の顔は、眼鏡越しでも緊張で頬が紅潮しているのがわかった。普段SNSに投稿する時は眼鏡を外した写真を使うけれど、今夜はビデオ通話だ。ありのままの私を見せることになる。


「大丈夫、大丈夫」


 小さくつぶやいて、通話ボタンを押した。


 画面の向こうに現れたのは、長い前髪で目元を隠した少年だった。黒いパーカーを着て、少し猫背気味に座っている。部屋の照明は暗く、彼の表情をはっきりと見ることはできないけれど、なぜか安心感が胸に広がった。


「こんばんは、Luna」


 彼の声は、いつもの投稿動画と同じように優しく、でもどこか遠慮がちだった。画面越しに聞こえる彼の部屋の外から、夏の終わりの虫の声がかすかに響いてくる。


「こんばんは、NoName」


 私も同じように答える。お互いハンドルネームで呼び合うのが、なんだか可笑しくて、少し笑ってしまう。


「笑った顔、初めて見た」


 彼がぽつりと言った。


「え?」


「いや、その…いつもの写真だと、なんていうか、もっと神秘的っていうか。でも、笑った顔の方がずっと、本当の君みたいで…好きだ」


 頬が炎のように熱くなった。彼も自分の言葉に驚いたのか、慌てたように前髪をかき上げる。その時、一瞬だけ見えた目が、思ったより大きくて優しい色をしていることに気づいた。


「ありがとう」


 やっとそれだけ言えた。でも声が震えているのがわかる。


「それで、何を作ろうか」


 私は話題を変えるように言った。


「実は、この前のLunaの詩、『夜の海に浮かぶ星』だっけ?あれにメロディをつけてみたんだ」


 彼の手元には、傷だらけのアコースティックギターが置かれている。ボディの木目が削れ、ところどころにスレた跡があるけれど、弦の光沢から大切に手入れされているのがわかる。


「本当?聞かせて」


 私の声は、自分でも驚くほど弾んでいた。普段なら、こんなに感情を表に出すことはない。でも、彼の前だと自然にそうなってしまう。


「ちょっと…緊張してる」


 彼は小さく漏らした。彼の手が、ギターのネックを握ったまま微かに震えているのが見えた。


「えっ、どうして?」


「人前で歌うの、実はほとんどやったことなくて…」


 彼の声が少し震えている。


「中学のとき、それで……」


 言葉が途切れた。画面の向こうで、彼が唇を噛んでいるのが見える。過去の記憶が、まるで古い傷のように彼を苦しめているのがわかった。


 十秒ほどの沈黙が続いた。私は彼の心の奥にある傷に触れてしまったのだと理解した。


「大丈夫」


 私は優しく言った。


「ここにいるのは、私だけだよ。私も、詩を書いてるとき、いつも一人だから。今夜は、二人だけの夜」


 彼が顔を上げた。前髪の隙間から見える目に、少しだけ光が戻ったのがわかった。


「……ありがとう。じゃあ、聴いてくれる?」


 彼はギターを構え直した。最初の一音を奏でる前に、もう一度深呼吸をする。ギターの弦が微かに震えているのが見えた。彼の心臓の鼓動と同じリズムで。


 静かな夜の中に、優しいメロディが流れ始めた。


 私が書いた詩の言葉一つ一つが、まるで生き物のように音に乗って舞い踊る。私の詩は、孤独な星が夜空で一人瞬く内容だったけれど、彼のメロディはその孤独を包み込むような温かさがあった。


 胸の奥で、波紋のように彼の歌声が広がっていくのがわかった。


 私の書いた「星は一人で泣いている」という行が、彼の歌声を通すと「星は優しく微笑んでいる」に聞こえる。同じ言葉なのに、歌になると全く違う意味を帯びる。不思議だった。


「すごい…」


 思わず声が漏れた。彼の歌声が加わると、詩の意味が何倍にも膨らんで感じられる。私が一人で抱えていた想いが、彼の声を通して外の世界へと羽ばたいていくようだった。


 歌が終わると、しばらく静寂が続いた。私は何か言わなければと思いながらも、言葉が見つからなかった。余韻が美しすぎて、それを壊すのがもったいない気がした。


「どう?」


 彼の声は不安そうだった。


「最高」


 私は心の底から言った。


「本当に?良かった。実は何度も録り直して…人前で歌うの、やっぱり苦手なんだ」


 彼の声に、かすかな震えが混じっているのに気づいた。


「苦手?でも、すごく上手だよ。私の詩が、こんなに美しい歌になるなんて思わなかった。あなたの歌声で、私の言葉が生まれ変わった気がする」


「ありがとう。でも、昔…」


 彼の言葉が途切れた。画面の向こうで、彼が何かを言いかけて止める様子が見える。


「昔?」


 私は優しく促した。


「中学の時、歌を馬鹿にされて…」


 彼の声が小さくなる。


「それで、人前で歌うのが怖くなったんだ」


 私の胸が締め付けられた。彼のあの美しい歌声を笑うなんて、信じられない。


「そんな…」


「でも、詳しい話は…また今度でもいいかな」


 彼は苦笑いを浮かべた。


「もちろん。無理しなくていいよ」


「でも」


 私は言った。


「今、私の前で歌ってくれてる」


「それは…Lunaの詩を読んでから、少しずつ歌えるようになったんだ。不思議だよね」


 彼は続けた。


「君の言葉に出会ったとき、誰にも言えなかった気持ちが、急に形になった気がして。『夜の海に浮かぶ星』を読んだ時、僕の孤独がそのまま詩になってるみたいだった」


 私の心が温かくなった。


「……うん」


「"言葉"って、誰かに届いて、初めて命になるんだなって。君の詩は僕に命をくれた。だから、SNSで『NoName』として歌い始めることができた」


 しばらく沈黙が続いた。私たちは画面越しに見つめ合っている。


「それって……ちょっと、愛みたいだね」


 私はぽつりと言った。言った瞬間、自分の大胆さに驚いた。


 彼の頬が少し赤くなったのがわかった。私も同じように顔が熱くなる。


「NoName」


「うん?」


 私は心の奥の扉を静かに開いた。


「私も、あなたの歌に救われてる」


 父さんの作り物の笑い声が、また下から響いてくる。テレビのリモコンをいじる音。母さんはまだ帰らない。弟の部屋から聞こえる寝息。この家の空気は、いつも私の声を押し殺そうとする。


「家にいると、声が出せなくなるの。みんな、それぞれ違う方向を見てて、誰も私のことなんて見てない。だから詩に逃げた。でも…」


 私は続けた。


「あなたの歌を聞いてると、一人じゃないって思える。私の気持ちを、歌に乗せて空に解き放ってくれる気がするの」


 画面の向こうで、彼が前髪をかき上げた。今度ははっきりと彼の目が見えて、その中に優しさと共感が宿っているのがわかった。


「じゃあ、僕たちはお互いを救い合ってるんだね」


「そうね」


 私は微笑んだ。こんなに自然に笑えたのは、いつぶりだろう。


「ねえ、NoName」


「何?」


「今度、一緒に新しい詩を作らない?私が詩を書いて、あなたがメロディをつけるんじゃなくて、最初から二人で作り上げるの」


 彼の目が少し大きくなった。


「いいの?」


「もちろん。あなたと一緒なら、きっと素晴らしいものができる」


「ありがとう、Luna。僕も、君ともっと一緒に音楽を作りたい」


 私たちは顔を見合わせて笑った。


「それじゃあ、何について書こう?」


 私は手元のノートを開いた。


「君との出会いについて書いてみない?」


 彼が提案した。


「私との…出会い?」


「あ、いや、その…変な意味じゃなくて」


 彼は慌てて言い直した。


「魂同士が出会うような、そんな感じの歌。僕たちみたいに、言葉で繋がった人たちの歌」


 私は頬が熱くなるのを感じた。でも、彼の言いたいことはわかる。私たちの関係は、確かに普通の友達以上の何かがある。


「わかる。書いてみる」


 私はペンを取り、ノートに向かった。


「星が夜空で歌うとき…」


 つぶやきながら書いていく。


「海が耳を傾ける…」


「いいね、それ」


 彼の声に励まされて、私の筆は進む。


「遠く離れていても、月の光が交差する場所で…」


「心は一つになる」


 彼が続きを口ずさんだ。私たちの言葉が自然に繋がっていく。


「あなたの声が聞こえる街で…」


 私が書いた一行を、彼が即興でメロディに乗せて歌う。


「僕の歌が響く夜に…」


 今度は彼が詩を紡ぎ、私がそれを受け取る。


 でも、思ったよりも創作は簡単じゃなかった。


「この部分、なんか違和感があるな」


 彼は作りかけのメロディを弾きながら首をかしげた。


「どこが?」


「"愛"って言葉を直接使いすぎてるかも。もっと遠回しに表現した方がいいのかな」


 私は考えた。確かに、露骨すぎるかもしれない。


「じゃあ、"心の距離が縮まって"はどう?」


「うん、でもそれも少し説明的かも」


 私たちは二十分ほど悩んだ。


「"君の声が胸に宿って"は?」


 私が提案した。


「それだ!」


 彼の目が輝いた。


「その表現なら、愛を直接言わなくても、気持ちが伝わる」


 そんなふうに、私たちは一行一行、慎重に言葉を選んだ。時には意見が分かれ、時には同じことを同時に言って笑った。


「この歌詞、本当に二人で作ったって感じがする」


 私は完成した詩を見つめて言った。


「うん。一人では絶対に書けなかった」


 彼も同感だった。二人で作った詩は、私の孤独も彼のトラウマも包み込んで、それを希望に変えるような内容になっていた。


「僕にとって、この詩は『NoName』じゃない、本当の僕が歌えるかもしれない最初の歌なんだ」


 彼がぽつりと言った。


「本当の?」


「うん。過去のことがあってから、ずっと自分を隠して生きてきた。『NoName』も、匿名だから歌えてるだけで…でも、Lunaと作ったこの歌なら、もしかしたら」


 彼の声に、かすかな希望が宿っているのがわかった。


「いつか、本当の名前で歌えるかもしれない」


 時間を忘れて、私たちは詩を作り続けた。お互いの言葉を受け取り、それに応える。まるで古代の恋人たちが歌い交わした雅歌のように。


 気がつくと、外はもうすっかり夜が深くなっていた。


「すごいものができたね」


 彼は満足そうに言った。


「でも、まだ何かが足りない気がする」


 私は詩を読み返しながら言った。


「タイトルかな?」


「そうかも」


 彼も同じことを考えていたらしい。


「この詩のタイトル、どうしよう」


 私は書き上げた詩を見つめて言った。


「ねえ、NoName。さっきの歌詞の中に出てきた『あなたの声が聞こえる街で』ってフレーズ…」


「うん?」


「それ、仮のタイトルにしてもいいかな」


 彼は少し考えてから、柔らかく微笑んだ。


「ああ、それいいね。まるで、君の言葉が僕たちを導いてくれたみたいだ」


 私も嬉しくなって、ノートにそのタイトルを書き留めた。


「でも、本当のタイトルは…会ったとき、二人で決めよう」


「実際に歌いながら、ね」


 彼は言った。


「会うって?」


「オフ会みたいな感じで。実際に顔を合わせて、この詩を完成させよう」


 会いたい。でも、怖い。


「でも、もしがっかりされたら…」


「しないよ。絶対に」


 彼の声は確信に満ちていた。


「Luna、君は詩の中でいつも本当のことを書いてる。嘘をつけない人だってわかる。だから、どんな君でも受け入れる」


 私の目に涙が浮かんだ。


「私も、あなたに会いたい。この歌を、あの公園で完成させよう」


「本当?」


「本当」


 私たちは約束した。今度の週末、近所の公園で会うこと。そして、二人で作った歌の本当のタイトルを、その時決めることを。


「"あなたの声が聞こえる街で"…なんだか詩みたいだよね」


 私は仮のタイトルを見つめて言った。


「うん。実際に声を聞いたことはまだないけど、もう君の声がこの街にある気がする」


「不思議ね。でも、わかる気がする」


「この仮のタイトルが、本当のタイトルになるかもしれないし、会ったとき全然違うものが浮かぶかもしれない」


「それでもいいね。二人でいれば、きっと見つかる」


 私も確信を込めて答えた。


「Luna」


 彼が少し真剣な声で呼んだ。


「なに?」


「君と会うとき…もしかしたら、僕は『NoName』じゃなくて、本当の名前を名乗るかもしれない」


 私の心臓が早く鐘を打った。


「それって…」


「過去のことから、ずっと本当の自分を隠してきた。でも、君との歌なら、もう隠さなくてもいい気がするんだ」


 彼の声に、決意が込められているのがわかった。


「私も、本当の名前で歌いたい」


 私は答えた。


「詩の中でじゃなくて、生の声で」


 通話が終わった後、私は一人部屋にいても、もう孤独感を感じなかった。私の詩が誰かの心に届き、その人の歌が私の心を満たしてくれる。


 私たちの間には、もう確かなつながりができていた。


 下の階では、父さんのテレビがまだ続いている。母さんは結局帰ってこなかった。弟の寝息だけが、この家で唯一安らかな音だった。


 でも今夜は、この家の冷たい空気も、私を押しつぶすことはできない。NoNameという名前で私を呼んでくれる人がいて、私の声に耳を傾けてくれる人がいる。そして今度、実際に会うことができる。


 私はノートを見返した。二人で作った詩が、月明かりに照らされて美しく見える。ページの上部に、仮のタイトルが小さく書かれている。


「あなたの声が聞こえる街で」


 私は小さく口ずさんだ。もうすぐ、本当に彼の声を直接聞くことができる。そして、私も初めて、詩ではない自分の生の声で、誰かと歌うことができるかもしれない。その時、このタイトルは本物になるのかもしれない。それとも、全く新しい名前を見つけるのかもしれない。


 窓の外の夜空を見上げると、星が私に向かって瞬いているように見えた。風が窓を軽く叩く音が、まるで彼のギターの音色のように聞こえてくる。


 私たちが作り始めた歌は、まだ完成していない。仮のタイトルはあるけれど、本当のタイトルはまだ決まっていない。でも、それでいいのだと思った。完成は、私たちが実際に会った時にするものなのだから。


 この詩と歌のコラボレーションは、私たちの心をつなぐ橋になった。明日からは、また一人で学校に行き、家族の問題に向き合わなければならないけれど、もう完全に一人ではない。


 彼も、きっと明日は学校で、まだ『NoName』として過ごすのだろう。でも、いつか本当の名前で歌える日が来るかもしれない。私たちの歌と一緒に。


「あなたの声が聞こえる街で」――この仮のタイトルが、本物になる日が楽しみだった。


 スマートフォンに、彼からの最後のメッセージが届いた。


『おやすみ、Luna。今夜は、すてきな夜をありがとう。"あなたの声が聞こえる街で"…仮のタイトルだけど、すごく気に入ってる』


 私は微笑んで、返事を打った。


『おやすみ、NoName。今度会うとき、この歌を完成させよう。本当のタイトルも、きっと見つかるよ』


 メッセージを送信してから、私は静かにパソコンを閉じた。今夜の記憶を大切に胸にしまって、ベッドに向かう。


 父さんのテレビがようやく消えて、家が静寂に包まれた。でも、この静寂はもう私を孤独にしない。彼の歌声が心に響いているから。


 夢の中でも、きっと彼の歌声が聞こえるだろう。そして私たちが作った詩が、愛の歌として完成する日を思い描きながら、私は眠りについた。


 週末が待ち遠しい。私たちの歌に、本当のタイトルを見つけるために。そして、仮のタイトルが本物になるのか、それとも全く新しい名前に出会うのかを確かめるために。

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