第3話 オフ会と、素顔の歌
「凛ちゃん、もう着いた?」
葵の声が電話の向こうで弾んでいる。私は駅前のカフェを見上げながら、赤いマフラーを無意識に触った。夕方の空が茜色に染まり始めて、テラス席にいる人たちの顔を柔らかく照らしている。
「うん、今カフェの前にいるよ」
「じゃあ入って!もう二階のテラス席にいるから」
電話が切れて、私は深く息を吸い込んだ。こんなにも緊張するなんて、自分でも驚いていた。画面の向こうにいた"名無しの歌い手"が、現実になる日。もし、この出会いで何かが変わるとしたら──そう思うと、胸が苦しくなるほど高鳴った。
誰にも届かなくてもいい。ただ、誰かの夜を照らせれば──そんな想いで詩を書いてきた。でも今日は違う。この出会いが、私の詩を歌にしてくれた人との出会いが、きっと何かを変える。
カフェの扉を開けると、コーヒーの香りと軽やかな音楽が迎えてくれた。階段を上がって二階のテラス席に向かう足音が、なぜか大きく響いて聞こえる。心臓の音も、きっと周りに聞こえてしまうほど大きく鳴っている。
「凛ちゃん、こっちこっち!」
葵が手を振っているのが見えた。彼女の隣には、誰かの背中が見える。少し前かがみになって、何かを飲んでいる人影。私の足が自然と遅くなった。いよいよ、あの美しい歌声の主と出会う。
「お疲れさま!」
葵の明るい声に押されるように、私はテラス席のテーブルに近づく。そして──
「え?」
私の足が完全に止まった。
テーブルの向かい側に座っている人物を見て、思わず声が漏れてしまった。それは見覚えのある顔だった。同じクラスの、いつも後ろの席で静かに座っている──
「静雄くん?」
彼──高橋 静雄は、コーヒーカップを持ったまま固まっていた。前髪で目が隠れているけれど、頬が赤くなっているのがわかる。彼も私と同じように、予想していなかった出会いに動揺しているようだった。
でも、その瞬間、何か懐かしいような感覚が胸をよぎった。初めて会うはずなのに、どこか見覚えのあるような──そんな不思議な既視感。
「え、えっと──」
静雄の声は普段よりも小さく、震えていた。私も混乱している。
まさか。
まさかそんな──
繋がっていたなんて。
毎日同じ教室にいるのに、互いにSNSの向こうで心を交わしていたなんて。
「知り合いだったの?」葵が目を丸くする。「すごい偶然じゃない!」
偶然──本当にそうなのだろうか。葵の表情に、何か知っているような微笑みが浮かんでいる気がした。
「偶然って──」私は葵を見る。「葵、もしかして知ってた?」
「え?あー、えっと──」葵が慌てたように手をひらひら振る。
その言葉が、遠くで響いた気がした。
私の心は、何かを飲み込めずにいた。
「ほんとに偶然だよ!静雄君がLunaちゃんの詩のファンだって言ってたから、オフ会に誘っただけで──」
「葵さん──」静雄が小さく呟く。「そんなこと言わないでって言ったのに──」
「でも」葵が少し真剣な顔になる。「二人とも、一人で抱え込みすぎだったから」
一人で抱え込む──その言葉が、妙に胸に響いた。
私は椅子にゆっくりと座りながら、まだ状況を整理できずにいた。あの心を揺さぶる歌声の主が、いつも図書室の隅で本を読んでいる静雄だったなんて。彼の普段の静かな佇まいからは想像もつかない、情熱的な歌声。
「あの」静雄が恥ずかしそうにこちらを見る。「驚いた?」
「うん」私は正直に答えた。「びっくりした」
静雄の肩が少し落ちた。きっと失望されたと思っているのかもしれない。でも──
「でも」私は続けた。「最初に聴いた時、涙が出そうになった」
静雄の顔がぱっと上がる。前髪の隙間から見える目が、少し潤んで見えた。
「自分の詩なのに、知らない誰かの物語みたいに感じた」私は言葉を重ねる。「でも、確かに私の心の声だった。あれは、奇跡みたいな歌だった」
静雄の手が小刻みに震える。コーヒーカップを握る指が白くなっていた。
「本当に?」
「うん」私は頷く。「あなたの歌声が、私の詩に魂を宿してくれた」
夕日の光が、言葉にならなかった想いをそっと包む。静雄の頬をやわらかく照らして、まるで、心の奥にあった言葉が、やっと陽の光を浴びたようだった。彼は恥ずかしそうに俯いたけれど、口元が小さく緩んでいるのがわかった。
「実は」静雄が小さな声で言った。「君の詩を読んだ時、昔のことを思い出したんだ」
「昔のこと?」
静雄の指先が、テーブルの上で無意識に動く。何かを思い出そうとしているようだった。
「小さい頃──多分、小学校の低学年だと思う。ネットで詩を読んだことがあったんだ。『星に願いを託して』っていうタイトルの」
私の心臓が止まりそうになった。『星に願いを託して』──それは私が小学校三年生の時に、初めてネットに投稿した詩だった。
「まさか──」
「覚えてる?」静雄の目が輝く。「『見上げた空に散らばる星は、泣いている子どもたちの願いの欠片』って始まる詩」
私の手が震えた。確かに、そんな詩を書いたことがある。母と父が喧嘩していた夜、ベランダから星空を見上げて書いた。まだ幼くて、ぎこちない詩だったけれど。
「あの詩に」静雄が続ける。「僕、救われたんだ。その頃、学校でいじめられてて──」
そこで静雄の言葉が途切れた。
しばらくの沈黙。テラス席に夜風が流れ込んで、私たちの髪を軽やかに揺らしていく。私は何も言わずに、彼の次の言葉を待った。時々聞こえる車の音だけが、静寂を破っている。
静雄がコーヒーカップをそっと置く音が、やけに大きく聞こえた。
「……でも」彼の声が、急に小さくなる。「あの詩を読んで、一人じゃないんだって思えた」
誰にも読まれなかった詩の一節が、胸の奥でぽつりと光り始めた。まさか、あんなに昔に書いた詩が、静雄を支えていたなんて。
「だから」静雄の声が震える。「『Luna』の詩を読んだ時、すぐにわかったんだ。同じ人が書いているって。あの時の優しさと、今の深さが──同じ心から生まれているって」
私は言葉を失った。偶然だと思っていた出会いが、実は十年近い時を超えた再会だったなんて。
「覚えてないと思うけど」静雄が恥ずかしそうに言う。「『星の子』っていうハンドルネームでコメントしてた」
『星の子』──その名前を見た記憶が、薄っすらと蘇ってきた。いつも温かいコメントをくれる人がいたこと。小学生の私にとって、大切な読者だったこと。
「星の子──」私はつぶやく。「覚えてる。いつも、『君の詩に勇気をもらった』ってコメントをくれた──」
「そう!」静雄の顔が明るくなる。「それが僕だった」
心の中に、隠していた言葉が一斉に目を覚ますようだった。こんな運命があるなんて。こんな奇跡があるなんて。
「そういえば」私は急に何かを思い出す。「静雄君、図書館でよく詩集を借りてるよね」
静雄が驚いたような顔をする。「え、見てた?」
「同じ本を借りることが多くて──特に『夜想曲』っていう詩集」私は続ける。「あの本、いつもページの間に小さなメモが挟んであったから」
静雄の顔が赤くなった。「あ、あれ……僕が書いた詩の練習メモだったんだ。気に入った詩を写してみたり、自分なりの感想を──」
「えっ」私の目が大きくなる。「もしかして、ページ八十七の『月夜の子守歌』のところに書いてあったメモ──」
「『この詩の続きを、いつか歌にしてみたい』って書いた……」
私たちは顔を見合わせる。
「私、そのメモを見て、すごく心に残ってたの」私は言う。「誰かわからない人が、詩を音楽にしたがってるって思って──」
「まさか」静雄が呟く。「君が見てくれてたなんて」
運命は、こんなにも細やかな糸で織りなされていたのかもしれない。図書館で、互いの痕跡を追いながら、ずっとすれ違っていた。
「だから歌いたくなったんだ」静雄が続ける。「君の詩を読んでいると。昔、救われた恩返しがしたくて」
葵が感動したように目を輝かせている。でもその表情のどこか奥に、少し複雑な影が見えた気がした。
誰かの物語を繋ぐことしかできない。でも、それでも──この二人が出会えたなら、私はそれで十分だった。
葵は心の中で静かに微笑んでいた。
「すごいじゃない!運命の再会よ!」
でも私は、葵の表情を見て気づいた。彼女の驚きが、少しだけ演技っぽいこと。
「葵」私は問いかける。「もしかして、知ってた?」
葵の顔が少し赤くなった。
「えっと──実は」
「実は?」
「私、『星の詩人』っていうアカウントで、二人の投稿にコメントしてたの」
私と静雄は顔を見合わせる。
「『星の詩人』って──」私は記憶を探る。「いつも応援コメントをくれる──」
「そう!」葵が照れくさそうに言う。「凛ちゃんの詩も、静雄君の歌も、ずっと応援してた。で、二人がコラボしたら素敵だろうなって思ってたの」
「だから、このオフ会を──」
「うん」葵が頷く。「仕掛けたのは私。でも!二人の才能は本物だし、きっと素敵な音楽ができると思ったから」
静雄が苦笑いする。
「葵さんらしいな」
「怒ってる?」葵が心配そうに聞く。
私は首を振った。むしろ、感謝していた。
「ありがとう」私は言った。「葵がいなかったら、きっとずっと一人のままだった」
葵の瞳が少し曇った。彼女は手をテーブルの上で組んで、少し遠くを見るような表情になる。
「実は」葵が小さく呟く。「私、何も作れないの。歌も歌えないし、詩も書けない。でも」
彼女の声に、今まで聞いたことのない寂しさが混じっている。
「昔、おじいちゃんが入院してた時に、病室でLunaちゃんの詩を読み上げたことがあって。そしたら、すごく喜んでくれたの。『心が軽くなった』って」
私の胸が締め付けられる。
「だから思ったの」葵が続ける。「自分は作れないけど、せめて素敵な作品を繋げる橋になりたいって。誰かの心を支えられる音楽を、みんなで作り上げたいって」
「私も」静雄が頷く。「君に出会えてよかった」
「私こそ」私は答える。「二人がいなかったら、きっと詩は一人のままだった」
夕日がテラス席を金色に染める。私たちの影が長く伸びて、テーブルの上で重なり合っている。この瞬間が、特別なものに思えた。
「それで」葵が期待に満ちた顔で言う。「文化祭でコラボ、やってくれる?」
私は静雄を見る。彼も私を見返している。その瞳に、小さな決意の光が宿っているのがわかった。
「でも」私は正直に言った。「人前で詩を読むなんて、震えそう」
「僕もだよ」静雄が言う。
少しの間があった。彼の表情が曇る。
「……歌うのが」
また沈黙。静雄の手が、無意識にコーヒーカップの持ち手を撫でている。
「怖い」
「怖い?」
静雄の息が、小さく震える。言いにくいことがあるのだと、私にはわかった。
「実は」彼がやっと重い口を開く。「昔、合唱団にいたんだ。小学校の時」
「合唱団?」
「うん。でも──」
今度は長い沈黙が流れた。夕日が雲に隠れて、テラス席が少し薄暗くなる。静雄の前髪が、彼の表情を隠していた。
私は黙って待った。葵も息を潜めている。
「『女の子みたいな声だ』っていじめられて」静雄の声がか細くなる。「それから、人前で歌うのが怖くて」
私の胸が痛んだ。きっと、美しい歌声だったからこそ、心ない言葉で傷つけられたのだろう。
「でも」静雄が顔を上げる。瞳に、小さな光が宿っている。「君の詩に出会って、また歌いたくなった。今度は、誰かのために」
その言葉に、私の心が震えた。
「私も」私は言った。「一人で書いてきたけれど、誰かと一緒に作り上げるなら──」
「頑張れるかもしれない」
私たちは同時に言った。そして、顔を見合わせて笑った。
「ねえ」静雄が急に思い出したように言う。「実は、君の『夜を照らす詩』に、僕なりにメロディをつけてみたことがあって──」
「本当?」私の目が輝く。
「『誰かが見上げた空の続きに』って部分、すごく印象的だったから」
「あ」私は息を呑む。「あの詩……」
「どうして?」
「実は、あれ」私は照れながら言う。「図書館でメモを見た後に書いたの。『この詩の続きを、いつか歌にしてみたい』っていう言葉に、すごく心を動かされて」
静雄の目が大きくなる。
「じゃあ、僕が書いたメモが──」
「私の詩になって、それを静雄君が歌ってくれてたの」
私たちは顔を見合わせて、また笑った。
「すごいね」葵が感動したように言う。「本当に運命みたい」
「……歌っても、いいかな」
突然、静雄が小さく呟いた。
テラス席に風が吹いた。夕日が雲の切れ間から差し込んで、私たちの頬を薄紅色に染める。静雄は震える指でマフラーを握り、そっと目を閉じた。
「……願いが、夜を照らすように」
小さな歌声が、風に乗って空にほどけていく。それは震えているけれど、確実に美しい声だった。私の詩の言葉が、彼の歌声に包まれて、全く新しい音楽に生まれ変わっている。
「誰かが見上げた空の続きに、君の声があるなら」
私の目から、知らぬ間に涙がこぼれていた。自分の詩なのに、まるで初めて聴く歌のように心に響く。
静雄が歌を止めて、心配そうに私を見る。
「どうして──泣いてるの?」
「嬉しいの」私は涙を拭きながら答える。「私の詩が、こんなに美しい歌になるなんて」
「僕は、その詩の言葉に音をつけた。ただの旋律じゃない、心の叫びに──」静雄が言う。
「もう、私の詩じゃない」私は微笑む。「二人の歌だね」
葵が目を潤ませながら、静かに拍手をする。
「すごい……本当にすごい。二人が一緒になると、こんなに素敵な音楽になるのね」
夕日がさらに低くなって、空がオレンジ色から深い藍色に変わっていく。街の明かりが一つ一つ灯り始めて、テラス席を温かく照らしている。
「じゃあ決まり!」葵が嬉しそうに手を叩く。「『Luna』と『NoName』と『星の詩人』のコラボ!」
「え?」私と静雄が驚く。
「私も参加!プロデューサー兼応援団として」
私たちはまた笑った。きっと、素敵な文化祭になる。
「それにしても」静雄が感慨深そうに言う。「まさか、あの『星に願いを託して』の作者と再会するなんて」
「私こそ」私は答える。「『星の子』が、こんなに素敵な歌声の持ち主だったなんて」
夜風が頬を撫ぜていく。街の明かりが私たちを包み、遠くから電車の音が聞こえてくる。
「それじゃあ、また明日」静雄が照れくさそうに手を振る。
「うん、また明日」
静雄の背中が夕闇に溶けていく。暖かい風が、マフラー越しに頬を撫でた。その余韻が、心の奥を静かに灯していた。。小学生の時に書いた詩が、こんな形で帰ってくるなんて。一人で書いてきた言葉たちが、やっと仲間を見つけたようだった。
「凛ちゃん」葵が肘でつつく。「運命って、あるものなのね」
そうかもしれない。言葉と歌声が、時を超えて再び出会う運命。
家に向かう電車の中で、私は窓に映る自分の顔を見つめた。いつもより、確実に明るく見える。
電車が駅を離れ、夜の街を駆け抜けていく。窓の外を流れる景色を見ながら、私は昔の詩を思い出していた。
「見上げた空に散らばる星は、泣いている子どもたちの願いの欠片」
星に願いを託したあの夜から、言葉はずっと、一人旅だった。
だけど今は違う。
星の光は、ずっと昔に放たれたものだという。
それが今、ようやく届いたように。
言葉と旋律が重なったあの瞬間、私たちは時を越えて出会っていた。
きっとこの歌も、いつか誰かの夜空にたどり着く。
その光が、消えかけた心に、そっと降り注ぎますように。
車窓の向こうに、小さな星が瞬いているのが見えた。あの時と同じ星なのかもしれない。でも今度は、一人じゃない。言葉と歌声が手を繋いで、新しい物語を紡いでいく。