第11話 君の声が聞こえる街
雪が舞い散る十二月の夜、私は自分の家のリビングに立っていた。
「お母さん、お父さん、そして仁」
三人の視線が私に向けられる。母の美咲は眉間に深いしわを刻み、父の健一は新聞を膝の上に置いたまま当惑の色を浮かべている。仁だけが、まっすぐに私を見つめていた。
「話があります」
私の声は震えていた。でも、もう後戻りはできない。
文化祭から三か月が経った。あの日、私と静雄が舞台で歌を完成させた時、私たちは自分たちの「声」を見つけたと思っていた。けれど、それは始まりに過ぎなかった。
先週、インディーズレーベルから連絡が来た。文化祭の動画を見た担当者が、私たちに興味を持ったのだという。静雄は瞳を輝かせて「凛、僕たちの夢が現実になるかもしれない」と言った。私も心から嬉しかった。でも、その喜びの奥で、何かが私を締めつけていた。
家の中は、相変わらず氷のように冷え切ったままだった。父と母は顔を合わせることすら避け、仁は私にばかり甘えるようになっていた。私がどれだけ「良い子」でいても、この家の空気は変わらない。私の詩が何千人の心を動かしても、一番身近な家族の心には届かない。
そして、昨夜。母が荷物をまとめているのを見てしまった。
「この家を出ていくわ」
母が父に告げた言葉が、私の胸を鋭く突き刺した。仁が私の袖を引いて「お姉ちゃん、お母さんが泣いてる」と囁いた時、私は自分の無力さに打ちのめされた。
静雄からメッセージが届いたのは、その直後だった。「レーベルの人と会ってきたよ!すごく良い感じだった」という希望に満ちた文面が、私には眩しすぎた。彼は前に進んでいる。私だけが、この暗闇に取り残されている。
私は返事を書けなかった。代わりに、公園に来てほしいと連絡した。
雪が降りしきる公園で、静雄は私の顔を見るなり「どうしたの?」と心配そうに尋ねた。私は首を振って「何でもない」と答えようとしたけれど、言葉が喉に詰まった。
「凛?」
静雄の声が優しすぎて、余計に苦しくなった。
「私には、もう詩なんて書けないかもしれない」
自分でも驚くほど、絞り出すような声だった。
「どうして?」
「家族が、バラバラになるの。私がどんなに頑張って、どんなに良い子でいても、何も変わらない。私の言葉なんて、何の意味もないのよ」
静雄は黙って私の言葉を聞いていた。雪が彼の肩に静かに積もっている。
「静雄くんには、分からないよ」
その言葉が口を突いて出た瞬間、私は自分の残酷さに愕然とした。静雄の顔が強張るのが見えた。彼だって、過去に深い傷を負っている。それなのに、私は。
「ごめん、私」
「いや」
静雄が手を上げて、私の謝罪を遮った。
「僕にはわからない。凛の気持ちは、凛にしかわからない」
彼は一歩近づいて、私の目をまっすぐ見つめた。
「でも、僕は凛の本当の声が聴きたい。詩じゃなくても、歌じゃなくてもいい。今、凛が感じていること、すべて聴きたい」
私の涙が頬を伝った。声にならない声が、喉の奥で詰まっていた。
「僕は君の、たった一人のための『歌い手』だから」
その言葉で、私の心の堰が決壊した。声を殺して、感情を押し殺して、ずっと良い子でいようとしてきた私が、初めて誰かの前で泣き声を上げた。
静雄は何も言わずに、私を抱きしめてくれた。雪の中で、私は彼の胸に顔を埋めて、子供のように泣いた。
「家族を失うのが怖い。でも、このままじゃもっと苦しい。私、どうしたらいいのかわからない」
「わからなくていいよ。今は、ただ泣いて」
静雄の手が、私の髪を優しく撫でた。
「凛は一人じゃない。僕がいる」
その夜、家に帰った私は、机に向かった。ペンを握る手が震えていたけれど、私は詩を書き始めた。家族のことも、自分の弱さも、未来への不安も、すべて込めて。
それは今まで書いたどの詩とも違っていた。Lunaの詩ではない。佐藤凛の、等身大の言葉だった。
そして今、私はその詩を読み上げようとしている。
「私は今まで、この家を守るために自分の気持ちを隠してきました。でも、それは間違いだったと思います」
母が息を呑む音が聞こえた。
「お母さんが苦しんでいるのも、お父さんが疲れているのも、仁が不安がっているのも、すべて見えていました。でも、私は何もできなかった。ただ、良い子でいることしかできなかった」
私は震える手で、書いたばかりの詩を取り出した。
「これを読みます。私の、本当の気持ちです」
私は声に出して読み始めた。
『崩れゆく城で』
家族という名の小さな城で
私は守人を続けてきた
誰も傷つかないようにと
自分の声を殺して
でも城の壁は既に崩れ
住人たちは出口を探している
私の沈黙は何も救えず
ただ時間を遅らせただけ
だから今、私は言葉にする
この痛みも、不安も、愛も
完璧な家族なんてない
完璧な娘である必要もない
それでも私は歌いたい
たとえ家族がバラバラになっても
本当の声で、本当の歌を
あなたたちに届けたい
最後の行を読み終えた時、リビングは深い静寂に包まれていた。
母が最初に口を開いた。
「凛……ごめんなさい」
母の頬に涙がつたい落ちていた。
「私、あなたに辛い思いをさせて」
「お母さん」
「私たちは、大人なのに情けないわね」
父も重い口を開いた。
「凛、お前に心配をかけて、すまなかった」
仁が私の手を握った。
「お姉ちゃん、僕、お姉ちゃんがいてくれるだけで嬉しいよ」
私は三人を見回した。問題がすべて解決したわけではない。でも、初めて本当の対話が始まった気がした。
「私、もう隠さない。みんなも、無理に笑顔でいなくていい。辛い時は辛いって言おう」
母が頷いた。父も、仁も。
その夜、私は詩を静雄に送った。すぐに電話が鳴った。
「凛、素晴らしい詩だった」
静雄の声が、電話越しに心に響いた。
「聴いて」
彼が何かを準備する音が聞こえた。そして、ギターの音色と共に、私の詩にメロディがついて帰ってきた。荒削りだけれど、魂のこもった歌声だった。
歌い終わった静雄が言った。
「明日、凛の家に挨拶に行ってもいいかな」
私の心臓が跳ねた。
「挨拶って」
「きちんと、お父さんとお母さんに会って。凛を大切にすることを、誓いたいんだ」
涙が再び頬を伝った。でも今度は、悲しみではなく喜びの涙だった。
「静雄くん」
「僕は、凛の家族の一員になりたい」
翌日の夕方、静雄が我が家にやってきた。彼は緊張で手が震えていたが、父の前できちんと頭を下げた。
「娘を、よろしく頼む」
父が不器用に頭を下げた時、私は心の底から安堵した。
母は静雄の手を取って言った。
「あの子を、救ってくれてありがとう」
「僕の方こそ、凛に救われました」
静雄の素直な言葉に、母は涙を浮かべた。
仁も静雄を兄のように慕い、ギターを教えてもらうと約束していた。
一週間後、私たちは久しぶりに葵と会った。街のカフェで、彼女は私たちの変化に気づいて目を丸くした。
「凛ちゃん、なんか違う!前よりずっと明るい顔してる」
私は苦笑いした。
「吹っ切れたのかな」
「レーベルの話、進んでるんでしょ?すごいじゃない!」
「実は、昨日担当者との打ち合わせがあったんだ」
静雄が少し困ったような顔をした。
「どうだったの?」
「僕が、二人で一つのアーティストとしてデビューしたいって伝えたら、向こうは困惑してた」
葵が身を乗り出した。
「え、なんで?」
「最近のトレンドは個人アーティストで、ユニットは売れにくいって言われて」
私の胸がざわついた。
「でも、僕は譲れなかった。凛の詩と僕の歌は、セットじゃないと意味がないって」
「それで?」
「今週末に、もう一度話し合いがあるんだ。僕たちが本当に一つのユニットとして成立するのか、実際に歌って証明してほしいって」
私は静雄の手を握った。
「不安?」
「少し。でも、僕たちの歌なら大丈夫だと思う」
葵は少し黙って、コーヒーカップを見つめていた。やがて、申し訳なさそうな顔を上げた。
「凛ちゃん、ごめんね」
「え?」
「あの時、凛ちゃんがすごく辛そうだった時、私、何も役に立てなかった」
葵の瞳に涙が浮かんでいた。
「いつも明るく励ますことしかできなくて。凛ちゃんの本当の苦しみに、ちゃんと向き合えてなかった」
私は驚いた。葵がこんな風に自分を責めていたなんて。
「葵、そんなことない」
「ある」葵は首を振った。「凛ちゃんが家族のことで悩んでるって分かってたのに、私は『大丈夫だよ』って言うことしかできなかった。もっと深く話を聞いてあげるべきだった」
「葵」
「私、ずっと後悔してる。親友なのに、一番辛い時に何もしてあげられなくて」
私は席を立って、葵の隣に座った。
「葵の明るさに、私は何度も救われたよ」
「でも」
「本当よ。葵がいてくれたから、私は完全に一人になることはなかった。葵の笑顔を見るたびに、世界にはまだ温かいものがあるんだって思えた」
葵の涙がぽろぽろと落ちた。
「葵の存在そのものが、私の支えだったの。だから、謝らないで」
静雄も頷いた。
「葵さんがいなかったら、僕と凛が出会うことも、仲良くなることもなかったかもしれない」
「え?」
「あの文化祭の企画、最初に提案したのは葵さんでしょう?僕たちをくっつけようとして」
葵は涙を拭きながら、くすっと笑った。
「バレてた?」
「丸わかりだったよ」私も笑った。「でも、感謝してる。葵がいてくれたから、私は今ここにいる」
「凛ちゃん」
「今度は、私が葵を支える番だから。何か悩みがあったら、隠さないで話して」
葵は大きく頷いた。
「ありがとう、凛ちゃん。私も、凛ちゃんみたいに強くなりたい」
「葵は十分強いよ。ただ、その強さの見せ方が私とは違うだけ」
三人で抱き合った。私たちの友情は、以前より深く、対等なものになった気がした。
カフェを出ると、偶然田中に出会った。彼は私たちを見て、足を止めた。
「佐藤、高橋」
以前とは明らかに違う、穏やかな声だった。
「田中」
静雄が少し緊張した様子で答えた。
「その、さっきカフェの外から見えたんだけど、何か話してたよな」
私は葵と視線を交わした。
「音楽の話よ」
「そうか」田中は少し迷うような顔をして、「実は、俺も聞いたんだ。お前らがプロになるかもしれないって話」
静雄が驚いた顔をした。
「どこで?」
「クラスで噂になってる。みんな、文化祭の動画のこと覚えてるから」
田中は立ち止まって、私たちの方を見た。
「俺、ずっと謝りたいと思ってたんだ」
静雄の体が強張った。
「中学の時のこと。高橋の歌声を笑ったこと。あれは、間違ってた」
沈黙が流れた。
「俺、実は高橋の歌、好きだったんだ。でも、周りに合わせて笑ってしまった。最低だった」
静雄は何も言わなかった。
「今更言っても遅いかもしれないけど、本当にごめん。高橋がプロになったら、俺が一番最初のファンになる」
田中はそう言って、深く頭を下げた。
静雄は長い間沈黙していたが、やがて口を開いた。
「田中、ありがとう」
「え?」
「君が謝ってくれて、嬉しい。でも、もう終わったことだよ」
田中の瞳が潤んだ。
「高橋……」
「俺たちも、もう高校生だしな。前に進もう」
田中は何度も頷いた。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
田中が去った後、私たちは雪の止んだ公園を歩いた。空は晴れていて、冬の陽だまりが暖かかった。
「静雄くん」
「何?」
「本当にいいの?私で」
最後の不安を口にした。
静雄は立ち止まって、私の両手を握った。
「凛じゃなきゃ、だめなんだ。僕の歌には、君の声が必要だから」
「でも、週末のオーディションは緊張するね」
私が言うと、静雄が頷いた。
「僕たちの歌で、彼らを納得させよう」
「うん」
週末がやってきた。レーベルのオフィスは、思っていたより小さくて親しみやすい場所だった。担当者の田村さんは、三十代半ばの落ち着いた女性で、私たちを温かく迎えてくれた。
「お二人の文化祭の動画、何度も見させていただきました。本当に素晴らしい」
田村さんが微笑む。
「ただ、率直に申し上げますと、今の音楽業界ではソロアーティストの方が売れやすいんです。ユニットは、どうしてもリスクが伴います」
私と静雄は顔を見合わせた。
「でも、お二人がどうしてもユニットにこだわるのであれば、それを証明していただきたいと思います。今日は、実際に歌っていただいて、お二人が一つのアーティストとして成立するのか確認したいんです」
「分かりました」
静雄が答えた。
「何を歌いますか?」
「凛が家族の前で読んだ詩に、僕がメロディをつけた歌です」
私の心臓が高鳴った。あの詩を、ここで歌うのか。
静雄がギターを取り出す。私は深呼吸をした。
「『崩れゆく城で』」
私が詩のタイトルを告げると、静雄がギターを爪弾き始めた。
家族という名の小さな城で——
最初の行を歌い始めた時、部屋の空気が変わった。田村さんの表情が、真剣なものに変わる。
私の声に静雄の歌声が重なる。二人の声が一つになって、小さなオフィスに響いていく。
この詩には、私の本当の気持ちがすべて込められている。家族への愛も、苦しみも、希望も。そして静雄のメロディが、その感情をさらに深く伝えてくれる。
歌い終わった時、田村さんの目に涙が浮かんでいた。
「参りました」
田村さんが呟いた。
「こんなに心を揺さぶられる歌は、久しぶりです。お二人の声は、確かに一つになっている」
私と静雄は手を握り合った。
「ぜひ、ユニットとしてデビューしていただきたい。『崩れゆく城で』を、デビュー曲にしましょう」
「ありがとうございます!」
私たちは同時に頭を下げた。
オフィスを出ると、夕日が街を染めていた。もうすぐ冬が終わる。
「やったね、凛」
「うん、やったね、静雄くん」
私たちは手を繋いで、家路についた。街にはもう、春の気配が漂い始めている。
家に帰ると、母が夕飯の準備をしていた。父は仕事から帰ってきて、仁と宿題をしている。
「お疲れさま」
母が振り返って微笑んだ。
「二人とも、お疲れさま。今日はお寿司にしましょう。お祝いよ」
家族で食卓を囲む。最近増えた、とても大切な時間だった。
「静雄くんのお母さんにもお礼を言わなきゃね」
母の提案に、私は頷いた。
「今度、一緒にお食事でもしましょうか」
父も珍しく積極的だった。
その夜、私は窓の外を見上げた。星が綺麗に見える。
私と静雄の歌が、この街に響き始める日は、もうすぐだった。
電話越しに、静雄と最後の打ち合わせをする。
「レコーディング、楽しみだね」
「緊張するけど」
「大丈夫。僕たちの歌だから」
静雄の言葉に、私は安心した。
「凛」
「何?」
「君に出会えて良かった」
その言葉に、私の胸が温かくなった。
「私も。静雄くんに出会えて、本当に良かった」
電話を切った後、私は日記に書いた。
『今日、私たちの夢が現実になった。でも、それは終わりじゃない。新しい始まりなんだ。』
この冬が終わる頃、私たちの本当の歌が、この街から始まっていく。
Lunaでも名無しの歌い手でもなく、佐藤凛と高橋静雄として。
私たちの声は、きっとこの街の誰かの心に届く。
そして、もっと遠くの誰かの心にも。
窓の外で、雪がちらつき始めた。でも、もう怖くない。
私には静雄がいる。家族がいる。友だちがいる。
そして、歌がある。
この街で見つけた、私たちだけの歌が。
明日から、新しい季節が始まる。
私たちの歌と共に。