第1話 詩人Luna、声を隠す夜
「本当の気持ちなんて、声に出したら壊れてしまう。」
私は、静まり返った部屋でスマートフォンを見つめていた。投稿したばかりの詩が、すでに数百の『いいね』を集めている。画面の向こうには三千人のフォロワーがいるのに、現実の私を知る人は誰もいない。
また今夜も、家族の夕食は無音映画だった。
父は新聞を読みながら舌打ちをし、母は携帯画面を見つめながら箸を動かす。私たち家族の「会話」は、テレビの音だけ。弟の仁だけが申し訳なさそうな笑顔を向けてくれるけれど、十二歳の彼が一番大人に見えるなんて、悲しすぎる。
「ごちそうさま」と言っても、誰も顔を上げない。仁だけが小さく手を振ってくれる。その仕草が切なくて、私は慌てて視線を逸らした。
両親の間に流れる冷たい空気は、もう一年以上続いている。最初は些細な意見の食い違いだった。父の転職の話、母の実家の問題、お金のこと。でも今では、お互いの存在そのものが重荷になっているように見える。
『学校では 誰かの言葉に笑うふりをする
家では 壊れかけた会話に耳をふさぐ
本当の私の声は ここにしか存在しない』
自室に戻ると、時計は午後九時を指している。机の上の赤いカシミアのマフラーが、部屋で唯一色鮮やかに輝いている。これを身につけると、私は佐藤凛からLunaになれる——SNSの詩人として、三千の魂に言葉を届ける存在に。
昼間の私は、クラスで最も目立たない生徒の一人だ。図書委員で、休み時間は屋上で空を眺めて過ごす。友達は葵だけ。彼女の明るさに救われているけれど、時々その眩しさが辛くもある。
「凛ちゃん、また詩書いてるの?すごいよね、そんなにたくさんの人に読んでもらえるなんて」
昨日の放課後、葵がそう言いながら私の肩を叩いた。彼女は私の唯一の理解者だけれど、時々、私の詩の世界が彼女には遠すぎるように感じることがある。
「でも、顔も知らない人たちでしょ?ちょっと怖くない?」
葵の心配は理解できる。でも、顔を知らないからこそ、私は本当の気持ちを書けるのだ。教室で一緒に過ごす同級生たちに、私の内側の世界を見せるなんて、とても怖くてできない。
二時間目の現代文の授業で、田中先生が詩の朗読をした。谷川俊太郎の「朝のリレー」だった。クラスメイトの多くは退屈そうにしていたけれど、私だけは真剣に聞き入っていた。
「詩というのは、普段言葉にできない感情を表現する手段なんですね」
先生の言葉が、私の胸に深く響いた。でも、私がSNSで詩を書いていることは、もちろん誰にも言えない。
放課後、図書室で一人過ごしていると、窓の向こうでサッカー部が練習をしているのが見えた。彼らの声援や掛け声が、ガラス越しに微かに聞こえてくる。私には縁のない世界だけれど、その活気ある雰囲気を見ているだけで、なぜか胸が締め付けられた。
でも夜になると、私はLunaになる。
窓を開けると、十月の夜風が頬を撫でていく。街の明かりが瞬く向こうで、誰かが私の言葉を待っている。マフラーを首に巻いて、指をキーボードの上に置く。
今夜の詩は、昼間に感じた孤独感から生まれた。でも、ただの愚痴にはしたくない。誰かの心に寄り添えるような、温かい言葉にしたい。
《夜の静寂に、溶けるような声があった》
《名もなき誰かに届くことを祈りながら、私は詩を綴る》
『誰かの心に届いているだろうか
私の紡ぐ言葉たちが
夜空に放った風船のように
ふわりふわりと漂って
どこかで誰かを温めているだろうか
声にならない想いを
文字に変えて送るから
もしも君が受け取ったなら
そっと返事をください
私はここにいる
月明かりの下で
君を待っている』
投稿ボタンを押すと、画面に「投稿しました」の文字が踊った。いつものように、胸が高鳴る。私の言葉が、また誰かの夜を少し明るくできるだろうか。
部屋を見回すと、壁に貼られた星座のポスターが目に入る。中学生の時に買ったもので、もう色褪せているけれど、詩を書く時のインスピレーションをくれる大切な相棒だ。本棚には詩集がずらりと並んでいる。谷川俊太郎、茨木のり子、最果タヒ。彼らの言葉に憧れて、私も言葉を紡ぐようになった。
机の引き出しには、中学時代から書き溜めた詩のノートが五冊入っている。最初は下手くそだったけれど、だんだん自分らしい声が見つかってきた。SNSを始めたのは高校入学と同時。最初のフォロワーは葵だった。
「凛の詩、すっごく良いよ!みんなに見せたい!」
彼女が拡散してくれたおかげで、今の私がある。でも、クラスの誰も私がLunaだとは知らない。もし知られたら、きっと今の関係は壊れてしまう。
SNSでの私は、現実の私とは全く違う存在だ。Lunaとしての私は、勇敢で、感受性豊かで、多くの人に愛されている。でも佐藤凛としての私は、内気で目立たない、普通の高校生でしかない。
投稿から五分ほど経った頃、いつものようにコメントが届き始めた。
"素敵な詩ですね。今夜も心が温まりました"
"Lunaさんの詩にいつも救われています"
"私も誰かを待っています。この詩を読んで、少し勇気が出ました"
一つ一つのコメントが、私の心を明るく照らしてくれる。でも今夜は、いつもと違う通知が画面に現れた。
スマートフォンが振動した。投稿から十分も経っていないのに、特別な通知が来ている。
「@Luna_poetryさんの投稿にメディアファイルが添付されたコメントがつきました」
画面を開くと、見慣れない名前があった。
「NoName」
プロフィールは真っ黒で、フォロワーは五十人ほど。アイコンも真っ黒で、何の情報も読み取れない。でも、送られてきたのは普通のコメントではなかった。
『Luna様の詩に歌をつけさせていただきました』
添付されているのは、音声ファイル。
私の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
誰かが、私の詩に、メロディーをつけてくれた?
これまで三年間SNSで詩を投稿してきたけれど、こんなことは初めてだった。手が震える。こんなことって、本当にあるの?
震える指でファイルをタップする。イヤホンを耳につけると、まず静寂があった。そして、アコースティックギターの繊細な前奏が流れ始めた。
音色は温かく、少し古いギターの味わいがある。録音環境もプロのスタジオではなく、きっと自室で録ったものだろう。でも、そのアマチュアらしさが、かえって親しみやすさを演出していた。
そして——
『誰かの心に届いているだろうか私の紡ぐ言葉たちが』
私の詩が、歌になっていた。
歌声は少年のもので、少し掠れているけれど、とても優しい響きだった。音程は完璧ではないけれど、感情がこもっている。ギターの音色と絶妙に調和して、私の言葉に命を吹き込んでいる。まるで、私の心の奥にあった旋律を、彼が見つけ出してくれたみたいに。
その瞬間、私の心臓が一瞬、動きを止めた気がした。鼓膜が震え、首筋に鳥肌が立つ。何かが胸の奥で"ほどける"ような感覚。目の奥が熱くなり、思わず息を呑んだ。まるで、彼は私の詩の奥にある本音まで、歌っていた。
私が「風船のように」と書いた部分では、本当に軽やかな旋律になっている。「月明かりの下で」の部分は、少し低音で、夜の静けさを表現している。
Lunaの詩×NoNameの歌。
見えない誰かと、心がつながった気がした。
『私はここにいる月明かりの下で君を待っている』
最後のフレーズで、声がかすかに震えた瞬間——まるで彼の心が、言葉ではなく震えで私に触れようとしているようだった。その声の奥に、誰にも言えない何かを感じて、私は再び息を呑んだ。
だが、歌の途中で一瞬だけ音が途切れた。まるで、心臓が止まった瞬間に重なるように。慌てて音量を確認したけれど、すぐに歌声が戻ってきた。その一瞬の沈黙が、かえって歌の美しさを際立たせていた。
曲は三分ほどで終わったけれど、私は放心状態だった。こんなことって、あるんだ。知らない人が、私の詩を歌にしてくれるなんて。
しばらく呆然としていたけれど、我に返って慌ててメッセージを打った。
『ありがとうございます!信じられません。私の詩がこんなに美しい歌になるなんて。あなたの歌声、とても素敵です』
送信してから、急に恥ずかしくなって布団に潜り込んだ。頬が熱い。でも、嬉しかった。こんなにも嬉しいことって、最近あっただろうか。
家族の誰も私を理解してくれない。学校でも本当の自分を見せることができない。でも、今この瞬間、私の言葉を受け取って、美しい歌にしてくれた人がいる。
スマートフォンが振動する。返信だ。
『こちらこそ、ありがとうございます。Lunaさんの詩を読んでいると、自然とメロディーが浮かんでくるんです。もしよろしければ、また歌わせていただけませんか?』
「僕」という一人称が使われている。きっと私と同じくらいの年齢の男の子なんだろう。
『ぜひお願いします!あなたはプロの方なんですか?』
『いえ、ただの高校生です。歌うことが好きなだけで。実は僕も、人とうまく話せないタイプで、SNSでこうして交流するのも久しぶりなんです』
高校生。やっぱり私と同じだった。そして、私と似ているかもしれない。
『私も人と話すのが苦手です。でも、こうして文字でやり取りしていると、不思議と自然に話せますね』
『本当にそうですね。Lunaさんの詩からは、いつも優しさを感じます。きっと心の綺麗な人なんでしょうね』
心の綺麗な人。私が?そんなことないのに。家族の問題を見て見ぬふりして、学校でも自分の殻に閉じこもって。でも、NoNameにはそう見えるのかもしれない。
『そんなことありません。でも、ありがとうございます。あなたの歌声からも、とても優しい心が伝わってきました』
メッセージのやり取りは一時間ほど続いた。音楽の話、学校の話、将来の夢。不思議なことに、顔も知らない相手なのに、とても自然に話せた。
『僕、実は作詞作曲もするんです。でもLunaさんの詩の方がずっと上手で、僕なんてまだまだです』
『そんなことないです。私の詩に命を吹き込んでくれたのは、NoNameさんの歌声です。一人では絶対にできないことでした』
『Lunaさんって、どんな時に詩を書くんですか?』
どんな時に?辛い時、寂しい時、誰にも理解されない時——でも、それをそのまま言うのは重すぎる。
『夜が一番書きやすいです。静かで、自分と向き合えるから。NoNameさんはどんな時に歌うんですか?』
『僕も夜ですね。家族が寝静まった後、ギターを抱えて小さな声で歌うんです。誰にも聞かれたくないから』
家族が寝静まった後——その言葉に、私は深く共感した。きっと彼も、私と同じように家庭に何かを抱えているのかもしれない。
『実は僕、Lunaさんの詩をずっと読ませてもらっていました。半年くらい前からかな。いつも、どうしてこんなに心に響くんだろうって思っていたんです』
半年前から。そんなに長い間、私の詩を読んでくれていたなんて知らなかった。
『特に、三か月前に投稿された「屋上の風景」という詩が印象的でした。あの詩を読んだとき、僕も同じような場所で空を見上げていることがあるなって』
私の手が一瞬、キーボードの上で止まった。「屋上の風景」——あれは学校の屋上で書いた詩だった。まさか、この人も同じような屋上にいるの?もしかして、同じ学校?
『もしかして、NoNameさんも学校の屋上によくいらっしゃるんですか?』
『はい、よく屋上で空を見上げます。人があまりいなくて、静かで好きな場所なんです』
心臓がドキドキしてきた。まさか本当に同じ学校?でも、それは考えすぎかもしれない。どこの学校にも屋上はあるし、空を見上げる人はたくさんいる。
『Lunaさんも屋上がお好きなんですね。あの詩からそう感じました』
『ええ、静かで落ち着きます』
そう返事をしながらも、心の中では様々な感情が渦巻いていた。嬉しさと同時に、少しの不安も感じている。もし本当に同じ学校だったら?私の正体がバレてしまうかもしれない。
『今度、私の新しい詩も歌っていただけますか?』
『もちろんです。Lunaさんの詩なら、いくらでも歌わせていただきます』
そのメッセージに、私の心は大きく揺れた。私の詩を、こんなにも大切に思ってくれる人がいるなんて。
『僕も、誰かに自分の歌を聞いてもらいたいって思ってました。でも、現実では恥ずかしくて歌えないんです。Lunaさんの詩に出会えて、本当に良かった』
私も同じ気持ちだった。現実では言葉にできない想いが、こうして文字になり、そして歌になる。
『そうそう、先月投稿されたLunaさんの詩で、「君なんて、最初は嫌いだった」って一行がありましたよね。あれ、もしかして僕のことでしたか?』
そのメッセージを見た瞬間、私の顔が真っ赤になった。あの詩は、クラスで苦手な人への複雑な気持ちを書いたものだった。まさかNoNameがそれを自分のことだと思うなんて。
『違います!あれは全然関係ない人のことです!NoNameさんのことじゃありません!』
慌てて返信を打つ指が震えている。
『冗談ですよ、ははは。でも、慌てて否定してくれて嬉しいです』
冗談だったのか。でも、なぜかほっとしている自分がいる。
『もう、びっくりしました。本当に冗談がお上手ですね』
『すみません。でも、Lunaさんの慌てた様子が可愛くて』
可愛いって。顔も知らないのに、そんなこと言われると恥ずかしい。
『今日は本当にありがとうございました。こんなに楽しく話せて、嬉しかったです』
『僕もです。Lunaさんと話していると、時間を忘れてしまいます』
その言葉に、私の胸がキュンとした。こんな風に思ってくれる人がいるなんて。
『また明日、お話ししませんか?』
『ぜひ。あ、でも明日は少し返信が遅くなるかもしれません。学校の用事があるので』
学校。やはり同じ高校生なんだ。もしかしたら、本当に近くにいる人かもしれない。
『わかりました。私も学校があるので、お互い無理のない範囲で』
『それでは、おやすみなさい、Luna』
『おやすみなさい、NoName』
スマートフォンを置いて、赤いマフラーを外す。鏡に映る私の顔は、さっきまでと違って見えた。頬に薄く紅がさして、目が輝いている。そして少し、戸惑いの表情も浮かんでいる。
彼は本当に誰なんだろう。屋上の話をしたとき、まるで私の学校のことを知っているような口ぶりだった。でも、それは私の思い込みかもしれない。
私の詩を歌にしてくれる人がいる。それだけで十分幸せなはずなのに、なぜか心の奥で小さな不安が芽生えている。もし正体がわかってしまったら、今のこの関係は変わってしまうのだろうか。
ベッドに横になりながら、NoNameの歌声を思い出していた。あの声の震え、音が途切れた瞬間、そして「屋上の風景」の詩を覚えていてくれたこと。すべてが私の心に深く刻まれている。
どんな人なんだろう。同じ街にいるのかな。もしかしたら、同じ学校にいたりして——その可能性が頭をよぎるたびに、胸がドキドキする。嬉しいような、怖いような、複雑な気持ちになる。
もし明日、学校で誰かが屋上にいるのを見かけたら、私はどんな気持ちになるだろう。その人がもしかしてNoNameだったら——でも、それは考えすぎだろうか。
隣の部屋から、両親の低い声が聞こえてきた。また言い争いをしているらしい。いつもなら憂鬱になる音だけれど、今夜は不思議と遠くに感じられる。私の心は、久しぶりに温かかった。
窓の外では、街の明かりが静かに瞬いている。この光の向こうのどこかで、NoNameも同じ夜空を見上げているのかもしれない。同じ月を見て、同じ風を感じているのかもしれない。
明日になったら、また新しい詩を書こう。今度は、どんな歌になるだろう。想像するだけで、胸がわくわくしてくる。でも同時に、小さな緊張も感じている。彼ともっと親しくなりたい気持ちと、正体がバレることへの不安が混在していた。
私は佐藤凛。昼間は目立たない高校生で、夜はLuna。そして今日、私の言葉を歌にしてくれる、素敵な人と出会った。でも、その人が想像以上に私の近くにいるかもしれないという、新たな可能性も見えてきた。
リビングの方はとうに静まり返っている。両親はそれぞれ別々の時間に寝室に向かったようだ。きっと今夜も、お互いに背中を向けて眠るのだろう。
でも私の心は、温かな余韻に包まれていた。NoNameの歌声が、私の中で静かに響き続けている。
『私はここにいる月明かりの下で君を待っている』
私の詩の最後の行が、今は全く違う意味を持って聞こえてくる。もう一人ぼっちじゃない。私の言葉を受け取って、美しい歌にしてくれる人がいる。でも、その人はもしかしたら、私が思っているよりもずっと近くにいるかもしれない。
その可能性が、嬉しさと同時に、かすかな戸惑いも運んでくる。
スマートフォンの画面が暗くなり、部屋は月明かりだけに包まれた。
"君の詩は、本当にきれいだった"
"屋上の風景、覚えています"
"慌てた様子が可愛くて"
見知らぬ誰か。けれど、私の心を最初に"見つけて"くれた人。そして、もしかしたら私が思っているよりも身近にいる人。
——君は、いったい誰?どこにいるの?
明日の夜が来るのが、こんなにも待ち遠しいのは、いつぶりだろう。そして同時に、明日の学校で屋上に誰かがいないか、こっそり確認してしまいそうな自分もいた。