5. ある月夜
その日は、満月だった。雲ひとつない夜空に、白銀の光が町をくっきりと照らしていた。清らかな風が心地よい夜だった。
私はいつものように、どっぷりと暗くなってから移動し始めた。井戸を出て狭い路地を進み、長屋に向かう。もちろん擬態はカンペキで、路地の砂利に完全に同化していた……はずだった。
だが、長屋の住人が、千鳥足で帰ってきた。
てっきり、家の中で寝ていると思い込んでいた私は、驚いた拍子に、ペラペラの体がふわりと風に舞い上がってしまった。焦った私は、あわてて子猫に化けて小さく丸まった。
「おやぁ? こんなところに子猫ちゃんがいるなぁ~!……寒くて風邪を引いちまうよぉ、ウチに来るかぁ?」
酔った住人は笑顔で、猫になった私を懐に入れてしまった。そして、酔いでふらつきながら、引き戸を開け、中に入った。一人暮らしのようで、中には誰もいなかった。
「子猫ちゃ~ん、ウチはここだよぉ~」
と言いながら、彼はそのまま、せんべい布団にどさりと倒れこんだ。懐の中の私は、彼の下敷きになって身動きができない。猫の毛の質感を真似てはいるが、こんなに接近してはバレそうだ。どうしようかと焦っていると、いびきが聞こえ始めた。どうやら酔って眠ってしまったようだ。これで、しばらくは起きないだろう。私は張り詰めていた緊張が解け、少し安堵した。
そのとき、気付いた。
彼の懐は…想像以上にとても温かい。
人間とは、私たちの「主食」であり、戦で仲間を殺し合い、飢饉では鬼に豹変し、無能なリーダーの下では粗末に命を落としてしまう変な生物と思っていた。しかし、この瞬間、人間に対して強い興味を抱いた。人間は、私が思っている以上に、感情豊かな複雑な生き物かもしれない…。
ただ、あまりに酒臭かったので、彼を観察することも、エネルギーを吸うこともなく、私はそっと懐から抜け出し、長屋を立ち去った。
それ以来、私は変わった。
日中は井戸の底に隠れるのではなく、茶屋の縁の下に身を潜めるようになった。街道を行き交う人間たちの様子を、間近で、安全な場所から観察するには最高の場所だと思ったからだ。
私が隠れていた茶店は、熱いお茶と団子を提供する店で、旅人たちの憩いの場となっていた。給仕をする看板娘は可愛くて愛想よく、店は大繁盛していた。茶屋娘はどうも有名らしく、はるばるやって来る者や、足繁く通っている常連などもいたが、どの客にも笑顔を振りまいていた。中には、お代を払うときに娘の手を握る野郎もいた。しかし茶屋娘も慣れているようで、笑顔は崩さずにサラッと手をほどく。その絶妙なやり取りには、目を見張った。小さな茶店の人間模様は、とても興味深かった。
茶店で、旅人たちの会話に耳を澄ませていると、多くの人たちが「お伊勢さん」という言葉を口にしていたので、「お伊勢さん」はこの茶屋娘のように、キレイな人なのだろうと思っていた。実は「お伊勢さん」は伊勢神宮参りのことだと知ったのは、その10年くらい後だ。人間たちの言葉は、結構むずかしい。
街道には、実に多様な人々が行き交っていた。その身なりによって、身分が違うようだ。駕籠かき人足、飛脚、旅人、お遍路、虚無僧、役人など…。それぞれに身分があるようで、駕籠かき人足は旅人たちに媚びを売り、旅人は下っ端の役人に頭を下げ、下っ端の役人は馬に乗る役人の顔色をうかがっていた。
ときおり現れる大名行列は、さらに異様な光景だった。長い行列が過ぎ去るまで、庶民たちは道の脇でずっと土下座していた。大名行列どうしが鉢合わせすると、豪華なほうが当然のように進み、小さなほうは道を譲っていた。
私たちお化けには、そんな身分も上下関係もない。だが人間たちは、どうしてこうも細かく序列をつけたがるのだろう。なんとも、複雑で、面倒くさい生き物だ。




