自覚
「いつも通り、気難しげな雰囲気背負ってるね。あんた」
鍛錬をする、という名目の下、森の中へ一人佇んでいたユーリスに掛かる声。ユーリスは瞑っていた目を開けて、振り返る。
のんびりとした顔でこちらを見るのは、ディアボロだった。
ディアボロはへらりと笑いながら、どかりとユーリスの隣に腰掛ける。
「ディアボロ殿、また我が隊の隊員に稽古をつけてくれていたのです?」
「稽古をつけていたのか、つけられていたのか、わからんが」
「ご謙遜を」
目が見えていないのが信じられない。それが、ディアボロと剣を交えた隊員たちの言葉だ。どころか、背中にも目があるのではないかというのを付け足したのが副隊長のケイネスである。
ユーリスも撃ち合いをしたことはあるが、ものの五分程度でお互い「終いにしよう」と剣を収めた。その五分の撃ち合いはまさに剣筋を追うのが困難なほどの撃ち合いであり、見取り稽古をしようと囲っていた隊員たちも固唾を飲んだほどだった。しかしお互いがあっさりと引き下がったのは、実力がほぼ互角であることがすぐにわかったからだ。それとあと、もう一つほど理由はあったが。
目が見えていた時、それこそ全盛期である彼であればユーリスは膝をついていただろう。もっとも、ディアボロが言うには気配に聡くなったのは視力を失ってからであり、その分気配を読み取るだとか聴覚だとかの感覚が研ぎ澄まされただとかで、現役の頃よりも今の方が強くなっているかもしれない、なんてカラリと言ってのけていたが。
アイリーンとはまた違う意味で底知れぬ男である。
ユーリスは周りに誰もいないのを確認してからふと息をついた。ずっと、気になっていたことを聞くチャンスだと思ったのだ。
「稽古をつけるなど、敵に塩を送る真似をして……アイリーンを害そうとする俺たちを貴方は追い返さなくて宜しいのですか?」
「稽古をつけるのは俺が鈍にならないためもあるからなぁ……まあ、でもそれだけじゃない。相手の剣筋を知るのも立派な諜報だろう?」
肩を竦めて言うディアボロに、ユーリスは目を細めた。
そう、だから実力が拮抗した――且つ隊長でもあるユーリスはあの場を納めた。万が一にもディアボロと本気の立ち合いになった時、自分の剣筋を相手に覚えさせないよう。ディアボロにもその考えは当然あったのだろう。表向きはあっさりと剣を収めた二人は、しかしどこかお互いを冷ややかな気持ちで見つめていた。
「……と、まあ格好をつけたものの、俺は結局お嬢が排除しないと決めたものに手出しはしない主義なんだ」
「………それが結果的にアイリーンの命を終わらせる結果になったとしても?」
「命の重さより矜持を取りたいとお嬢が決めたなら、俺はそれに従うさ」
ディアボロが軽く、けれど硬い意志を感じさせる声で言えばユーリスがグッと息を詰めた。咎めるような視線をディアボロに向けるのに、ディアボロはたまらず苦笑してしまう。
これでは立場が逆だろう?とも、自分より年若い騎士を青いなと思った気持ちも両方あったのだ。
ディアボロは胡座をかいて空を見上げた。といっても、彼にはもうその青さは見えていない。ただ脳裏に焼き付く思い出の青さを見るだけだ。
「英雄だなんだと言われたが、戦争が終われば俺は敵兵を殺しすぎたと国に追われた。酷い話だろ?昨日まで味方だと思った同じ国の兵士たちに斬りかかられるんだぜ?これだったら、敵兵に叩き殺された方が道理だと思ったね。それでも、俺には待ってる妻子がいた。だから逃げて逃げて……故郷に命からがら帰ったんだが……、着いた我が家に待ってたのは愛しの妻子だけじゃなくてね。戦場から何年も帰ってこなかった旦那をとっくに見限ってた妻は、新しい夫と……それと蒔いたはずの兵団が待ってたよ。……正直ショックが大きくてね、数で押し切られたってよりは気持ちで負けたんだろう。目はその時に切り付けられた。最後に見たのは、こっちを憎々しげに見る妻の顔だ。あれは強烈で忘れられん」
あまりに非道な過去に、ユーリスが息を呑む。ディアボロは苦笑して、手を振った。
「しばらくの間、正気がなかった。理性と記憶が無くなってる期間がある。追ってくる人間をただ切って、逃げて、逃げて……。当てもなくただ生きた。そんで、気がついたら野生の獣みたいに俺は森の中に倒れてた。お嬢と出会ったまでの経緯を、俺は細かく覚えちゃいない。ただ、地面に這いつくばってこんな惨めな中いよいよ死ぬのかって覚悟した時に、現れたのがお嬢だった。お嬢は俺を見つけて、かがみ込んで泥と血に塗れた俺に躊躇なく触った。そんで、俺の状態を正しく理解してから、たった一言、聞いたんだ。生きたいか?ってな」
「………アイリーンらしい、ですね」
「そうだな。まあ、当時の俺はすごい肝が据わった女が……もしくは死神が来たなと思ったわけだが。それでも、気が付いたら答えてたよ。生きたいってな。このまま惨めたらしく死ぬのが、俺の人生じゃないって、腹の底が叫んでた。……生き汚いんだ、俺は。そんで、お嬢はそのまま俺を拾って、目に見える怪我は全部綺麗に治してくれたよ。……用心棒になれって言ってきたのは怪我が完治してからひと月経った頃だな」
目が覚めたが、視力は失われていた。それでもアイリーンについていこうとディアボロは心に決める。最後に仕えるなら、アイリーンがいい。
「お嬢は、俺があのまま死にたいっつったらそうしてくれた。あの時、俺は俺を尊重してくれたお嬢に救われたんだ。だから、俺はお嬢の決断に従うよ」
アイリーンがユーリスが処断した後は、もしかしたらディアボロはそのままユーリスに切り掛かってくるのかも知れないな、とユーリスは不意に思った。
あくまでもアイリーンの最期を尊重するだけであって、その後の敵討は行いそうだ。それこそ、相打ちになろうとも。
そんな、並々ならぬ気概を感じた。彼がアイリーンと過ごした数年は、決して軽くはないものなのだろう。いつもはあえて軽薄に演じている往年の騎士の覚悟を受け取って、ユーリスは重く息をつく。
「……ユーリスは、俺がどうするか、むしろ俺がお前らを害そうとすると知ってからの方が安堵する。変なやつ」
「俺は………俺個人としては、決してアイリーンを害したいわけではないので」
ユーリスは真っ直ぐにディアボロを見つめる。その真剣な表情はどうあってもディアボロに届くはずはないのに、ディアボロは苦笑する。
そして困った顔をして独り言のように口を開いた。
「………今のお嬢にとって俺は唯一心を許して隣に置ける存在だろうけど、それは信頼からじゃねーんだ」
「それは……どういう?」
「いつか、アイリーンを救ってやってくれよ。オウジサマ」
ディアボロは、父親みたいな顔をしてユーリスに困ったような笑みを向けた。
ユーリスは、初めからディアボロがこのことを言いたかったのだと察する。そして、自分が気付かぬうちに何かが近づく――終わりの時間のカウントダウンがされているような気がし、体を僅かに震わせた。
◆◇
その夜のこと。
アイリーンがそっと塔の裏口を擦り抜けて外に出た。ケイネスと目を合わせ、自分一人で行くことを視線で伝え、アイリーンの背を追う。
少し歩けばアイリーンはすぐに見つかった。薬草畑の片隅で、そっと身を屈めている。その背が、あまりにも小さく頼りないものだったため、ユーリスは少し息を詰めた。
公爵令嬢だったアイリーン。たった一度しかその姿は見たことはなかったが、今の彼女とはとても重ならないものだった。
公爵令嬢として。王太子の婚約者として。そういった重すぎる肩書を持った彼女はあの一瞬たりとも隙がない淑女であった。常に気を張り巡らせ、他人の言動の一つ一つに裏を読み、自らも規範になる行動を心掛ける。刺々しくも鮮烈な、まさしく薔薇のような女性であった。
しかし今の彼女は棘が抜けている。肩書を持たない、ただのアイリーンだ。そこにいるのは、自律をした一人の女性でしかない。
ユーリスは胸が詰まるような思いを抱えながら、迷わずアイリーンの隣に座る。アイリーンは、ここにユーリスが来ることを予見していたかのように驚いた様子は見せなかった。
アイリーンはユーリスを振り返らずに、屈んだ先にある枯れた花々を指先で突いていた。一週間前までは咲いていた筈の花だが、少し強く吹雪いたせいで根元から弱ってきている、と最近アイリーンがこぼしていたのを思い出す。
「……花や薬草って、結構思い通りにいかないのよ。同じように手を尽くしているはずでも病気になったり、気候であっという間にダメになる。ここに来た時、私は人に関わりたくなくて、自分だけでほぼ完結する職業として薬屋を目指したの」
アイリーンが、枯れた花を千切った。
ユーリスには、なんだかそれがとてつもなく痛々しい行為に思えて、咄嗟にその指先を掴む。アイリーンの手がびくりと震えた。その怯えに似た震えを直に感じて初めて、アイリーンの壁の内に入って気がする。
「……悔しいわね。思い通りにならないことが楽しいと思っているのに、それとは別に命が終わってしまうというのは悔しいことだわ」
いつもこう落ち込むわけではないのだろう。ただ、彼女の中のストレスが溜まっただけ。引き金が花が枯れたということだけ。それでも今の彼女は少し声を震わせて、心底こうやって悲しんでいる。
彼女は完璧だけれど、完璧に見えるだけのただの人間だ。ましてや今は地位も身よりもない、ただの女性。
その奇妙なバランスに引き寄せられるよう、ユーリスは彼女の頬へ手を伸ばす。そして、ほとんど衝動的にキスをした。
胸が、今まで感じたこともないほどに熱い。ユーリスはアイリーンの背を抱えた。
華奢な肩だ。
この肩はそれでも、傷だらけのディアボロを担ぎ上げたのだ。
白く傷だらけの手で、この村の薬屋として働いた。アイリーンからは終ぞその職業を選んだ理由として、王都からの供給不足を補うためだという言葉は聞かなかったけれど、それが理由のうちの一つでなかったら行商は、村人たちはアイリーンに時折親しみの目を送りはしなかっただろう。王族が残した蔦だらけだった塔を修復したのは、そこにいただろう罪を償った王族に敬意が少しでもあったからだ。
薬屋のアイリーンはちっぽけな、一人で懸命に立つただの女性だ。しかし、彼女の矜持は、その信念の強さは未だ曲げられていなかった。
そして、おそらく、公爵令嬢で王太子の婚約者だったアイリーン・ミラーだって、本当は時には花が枯れただけで心を痛める時があったのだ。
今のアイリーンと、あの時のアイリーンは時間の使い方や目に写るもの、大事にする選択肢が違う。けれど、同じ人間なのだから。
――………あなた、仕事熱心なバカね
いとも簡単にユーリスを助け、そうしてユーリスの覚悟と思いを掬うように笑ったアイリーン。
ユーリスの人生は、守ってばかりだった。
助けられた事も、救われたこともある。それは確かだ。
けれど自分の気持ちを掬う存在に出会ったのは、初めてだったかもしれない。同じ目線に立ってくれる存在は、分かるわと共感してくれる存在は、はじめてだったのだ。
今ここにいる、アイリーンという女性がただただユーリスは愛しかった。もう一度、唇を寄せる。アイリーンは、びくりと肩を揺らしたが抵抗しない。ただ、ユーリスの胸元の騎士服をくしゃりと握っただけだった。