森の魔女②
「困ったな……」
小さく呟いた声に、返ってくる声はない。ユーリスは諦めたよう、土の壁に背をついた。
そのまま上を見上げる。随分遠くに夜空が見えた。
「情けない……油断したな……」
ユーリスは髪をかきあげて重く息をついた。
一人で夜の森の調査を行っていたところ、足元の穴に気づかず彼は落とし穴に落ちたのだ。森には少なからず魔獣がいることはアイリーンから聞いていた。魔獣のねぐらになっているところや、魔獣が荒らした跡もあることを。
おそらくこの落とし穴は魔獣が掘った穴だ。深さにして3メートル弱。昨日の雨で泥濘んだ土は登るのに不向きで、かつユーリスは軽く足を捻っていた。自力で這い上がるのは困難だ。それであるならば、情けないながらも今夜は此処に留まる方がいいだろう。朝になれば彼の部下たちが探しにきて救出してくれるだろうし。
ユーリスはそこまで考えて目を閉じた。こうやって野外や、衛生面が劣悪な場所での待機などユーリスは何度も経験している。そのためこの現状の不便さは享受できるが、こうなった自分にただただ不甲斐なさを感じていた。
考え事をしすぎていたのだ。考えるのは、アイリーンのことだった。
ユーリスがこれまで処刑してきた人間はもう数えきれないほどだ。断罪された一人一人に事情があり、これまでの生き筋があり、そして罪があった。ユーリスは罪人の一通りを知り、事情を把握した上で誰一人取りこぼすことなくユーリスの手でその首を斬って行った。
同情できる者もいた。度し難い悪もいた。そのどれにも、ユーリスは平等に首を落として行った。それがユーリスがこの国に生まれて渡された唯一の使命だったからだ。出自も危うい彼が、王族として任された責務の唯一だったからだ。
アイリーンは、ユーリスが今まで対面した罪人たちと全てが違っていた。自分が犯した罪に怯えるでも、向き合えず逃げ出すでも、罪を忘れて新しい人生を歩むでもない。平民のアイリーンとして、そこにいる彼女。
彼女と出会い、対話して、監視という目的で彼女の居住に押しかけて一ヶ月が経った。その一ヶ月の間、彼女はユーリスに問われたことはほぼ澱みなく答えを返す。ただ、彼女が口を噤むのは彼女が今現在犯しているという罪だけだ。
矜持もあり、この地でしっかりと足をつけている姿。
おそらくユーリスは、心のどこかでアイリーンを知るということを恐れている。取り調べに対しての澱みない返答がいつかは容疑の確信をつくだろう。それを怖いと感じている。今までそんなことを、感じたことはないのに。
そうやって、思考に没頭してどれくらいの時間が経ったのか。
「あ、やっぱり」
穴を覗き込む、アイリーンが真上から見えたのは。
アイリーンは長い髪を垂らしながら、ユーリスを見下ろした。そうして、そこにユーリスがいることを認めると呆気なく――手を翳してユーリスを引っ張り出す。しかし当然ユーリスよりも小柄なアイリーンがその身を差し出したところで、ユーリスの重みで引っ張り上げるどころか落ちてしまう。けれどアイリーンは、ユーリスをいとも簡単に穴から出してしまった。
他でもない、魔法の力である。ユーリスの体を浮かせ、穴から出したのだ。
土塗れになったユーリスが無事にアイリーンの前まで引っ張り上げられた。
ユーリスは呆然と彼女を見る。震えそうな声で、「どうして?」と問えば、彼女は肩をすくめさせた。
「夜にしか咲かない花を採取したくてね。採取支度をしてた時に騎士団の方で貴方が帰ってこないって少し気にしてたから。そういえば昼に魔物が作ったこの落とし穴を見かけたことを思い出して。もしかしたら、って」
「っちがう!なんで、………なんで俺に、魔法が使えることを呆気なくバラしたんですか?」
アイリーンの常と変わらない態度に、ユーリスは悲鳴をあげるように遮った。
そう、アイリーンは魔法を使ってユーリスを引っ張り上げた。けれど、アイリーンは取り調べの初日に言ったではないか。自分は魔法を使えない、と。事実アイリーンはユーリスたちと共に過ごして魔法を使っていない。
しかし、ユーリスは初日魔法を使えないと言い切ったアイリーンの嘘には気付いていた。アイリーンは魔法を使えるというと。
使えなくては流石におかしいのだ。五階建ての古城があそこまで綺麗になることも、荒野とまで言われた森が人が歩ける程度に整えられているのも。
ユーリスは魔法が使えない。けれど魔法の跡というものは分かる。――アイリーンは魔法が使えるにも関わらず、騎士団にそれを報告しなかった。
つまりアイリーンが魔法を使うということは、アイリーンの罪を問う上で重要な鍵なのだ。
「ああ、それはね。嘘をついたの。私は魔法が使えるわ」
だというのに、今のアイリーンはあっさりとそう白状した。
どうということもないという態度に、ユーリスの方が動揺する。まるで、秘密を告白して欲しくなかったというように。
絶句するユーリスに、アイリーンは少しだけ黙り、それからユーリスをまっすぐと見つめた。
「貴方にずっと聞きたいことがあったのだけれど、貴方は罪人たちの罪を正しく暴いてどうするの?」
静かな声だった。
けれど暗い森の夜、まっすぐに通る声だ。
罪人の人となりを知ってどうするんだ、王宮はそこまで望んでいない。ただ罪人を処刑する、それだけがこの騎士団に求められたことだ。
今いる団員の中でも、もしくは付き合いきれないと去って行った団員にも言われたことがある。王の勅命は期限を求めないものが多いとは言え、なぜこうまで時間をかけて罪人を裁くのだと。
ユーリスはいつもそれに対して、変わらない答えを返していた。
アイリーンの嘘と、この脈絡のない質問に困惑しながらもユーリスは答える。
「知って、俺が納得した上で見送るためです。罪人だとしても、それは同じ人間だ。罪だけを見て、人を見ないで断ち切るのは――最期に見る顔が憎悪に染まっていることは、悲しいじゃないですか」
自己満足なことは知っている上で、ユーリスが言い切るとアイリーンは僅かに息を呑んだ。
強い風が吹いて、ざわりと森が揺れる。
二人の間に少しの沈黙が流れた後、アイリーンがゆっくりと口を開いた。
「貴方、それで疲れないの?」
「疲れる、ですか……それは考えたこともなかったな」
「………あなた、仕事熱心なバカね」
アイリーンは呆れたような言い方で、口元を緩めた。それは、ユーリスに向けた初めての笑顔だ。くすくすと、軽やかな笑い声をあげるアイリーンに、ユーリスは居心地悪そうに頬を掻いた。
華奢な体を揺らして笑うアイリーンの、その分厚い前髪に隠された表情が見えればいいのに、とユーリスは心の片隅で思う。
アイリーンはそのまましばらく笑って、それからユーリスに柔らかく言う。今までで一番、害意もなく、親しみを感じる声だった。
「私、これでも貴方を気に入ってるの。魔法は使えないという嘘をばらすくらいにはね」
「………貴女は、」
「いつか、貴方に真実を言うと誓いましょう。私も終わらせるというなら貴方の手がいいわ。……けど、まだ今じゃない」
「それは、何故?」
「会いたい人がいるからよ」
アイリーンはキッパリと言い、それから思い出したようにユーリスに手を差し出す。その意図が読めず、ユーリスが手を取らずにまごつくとまたくすりと笑われた。
「足、怪我してるんでしょう?でなければ自力で上がってきたはずよ。城に戻るまで手を貸すわ」
その言葉にユーリスは瞠目して、それから困ったように笑う。
「はは、貴女は本当に、強くて……王子様みたいだ」
「本物の王子様にそんなこと言われるとは思わなかったわ」
素直に肩を担がれることを選んだユーリスに満足して、アイリーンもまた笑った。
◆◇
翌朝、稽古をしようと副団長のケイネスを呼び出した。二人で素振りやランニング、打ち合いといった基礎訓練をこなしながら、昨夜にあったことと、アイリーンが魔法を使えることを話す。
ケイネスはアイリーンが魔法を使える事実には別段驚きはしなかった。
白状したんですね、と考えるように言ったきり少し推し黙る。やはりケイネスもアイリーンが魔法を使えることをわかっていたのだ。
「……アイリーンも、魔法を使えることを絶対に秘密にしたいということではなかったんだろう」
「そうでしょうね。アイリーンさんは頭が良い。隠すならもっと上手くやるでしょうし、そもそも……昨日の時点で自分が魔法を使えることを明かさなかったでしょう。団長の救出というなら、俺たちを呼べばいい話でした」
一ヶ月という短くはない期間の中、アイリーンの態度が軟化してきている。そう考えていいのだろう。
これは勿論騎士団としては喜ばしい変化であった。だというのに、ユーリスはどこか投げやりとも取れるようなおざなりな返事でケイネスの言葉を肯定するだけだ。機嫌がいいとは間違っても言えない。
ユーリスの珍しい態度に、ケイネスは少し意外そうに、そしてどこか面白がるように「何か不満でも?」と聞けば、ユーリスは今度こそむすりと黙る。
ケイネスは思わず笑ってしまった。こんな風な彼を見たのは、随分久しぶりだったからだ。
ユーリスとケイネスの付き合いは長い。騎士団の中では一番だ。互いが小さい時から知っている。団の中で行動するときは上司と部下であるが、それ以外の時はただの親友だ。
ケイネスが木陰にどかりと座り込むと、拗ねたようなユーリスも倣う。
ケイネスが笑って、ユーリスの肩を叩いた。
「ユーリスとアイリーンさんはなんか似てるからな。だからお互い、やりづらいんじゃないか?」
「似てる?」
「頭がいいからこそ婉曲にするところとかな。俺はディアボロさんとの方がよっぽど話が合うぜ」
やりづらいと言われ、そうだろうかと首を傾げる。そして、首を振った。
やりづらいのではない。アイリーンはユーリスの問いかけに明朗に答えているようで、隠すことも嘘をつくこともある。それを常に嘘か真か見極めながら、ユーリスは彼女と相対している。
しかし昨日、彼女がまっすぐとユーリスに真実を言うと誓った言葉は嘘ではないだろう。
彼女は時が来たら自分の罪を告白し、そしてユーリスから逃げないと宣言したのだ。
「………アイリーンを知れば知るほど勝手に共感してしまうんだ。彼女の考え方や生き様が好ましいと思ってしまう」
「惚れたってこと?」
直接的な言い方に、思わずユーリスは笑ってしまう。
「いいな、ケイネスはシンプルで」
「馬鹿にしてる?」
「まさか。だからこそ俺はお前を副団長にしている」
ユーリスはゆっくり立ち上がった。
アイリーンの罪を知りたい。それと同時に知りたくないのだ。知ったらユーリスは彼女を罰しなくてはいけない。ユーリスが彼女と出会ったのはその定めがあるからだ。それでいいのに。
彼女と初めて出会った時から、これは久々の長期任務になることを悟った。アイリーンは何かを隠しており、それをユーリスに伝える気がない。誤魔化し方も煙を巻く方法も元貴族階級の人間らしく、身についている。軽やかに会話をしているようで、その実駆け引きが上手い。
だからきっとこの任務の難易度は高いだろうと、そう判断していたのに。――今や、この任務の最大の難関はアイリーンではなく、ユーリス自身の問題となっている。
彼女を処断したくないと、思ってしまうのだ。
手をぎゅっと握りしめた親友の姿に、ケイネスがあえて軽い調子で言う。
「攫っちゃえばいいのに。一回くらい見逃してもいいのでは?」
「…………それでは、誰よりも俺が今までの自分を否定するだけだろう?」
「団長はいつでも団長であろうと、正しくあろうとする。それは素直に尊敬しますけどね。ただのユーリスとしての感情を抱いちゃだめなんて、俺は思わないですよ」
ケイネスは僅かに口調を正し、副団長としてそう言って、少しだけ笑った。
ユーリスは口を引き結び、それに何も答えはしなかった。