夢がかなった日 〜パン屋の少女と、腹黒絵師の話〜
堅焼きパンの入った籠を台に置きながら、大きく息を吸い込めば、すでに並べられた沢山のパンの芳ばしい香りが全身にいきわたり、自然に顔がほころぶ。
(焼きたてのパンの匂いって、それだけで笑顔になっちゃうよね)
まだ暗いうちから焼かれ、台や籠に並べられたパンの種類は、全部で5種類。あと2種類は、もうじき焼き上がる。
目標にしている15種類にはまだ半分だけど、これから毎日少しづつ増やしていく予定だ。
(ホント、夢みたい。親子で職を求めてロックベール領に来た時は、これからの事を考えると不安しかなかったのに、こんな日を迎えることが出来るなんて……)
「アリス、次、焼けたわよー!」
「はーい!」
厨房からひびく元気な声に、負けじと声を張る。
「お母さん、張り切ってるね」
「当然よ。私たちの夢のお店の開店日なんだから。それにしても、最新のパン焼き窯は良いわね。温度や焼き時間が設定できるから、頻繁に窯を覗く必要もないもの」
焼けたばかりのパンを、粗熱を取るために網の上に並べながら笑う母さんは元気いっぱいで、ついひと月前まで病床に伏していたとは思えないほどだ。
そのことも含めて、ここひと月ほどの間に起きたことは、まさに奇跡としか思えなかった。
(アニジャさんがフェンリルだってことは知ってたけど、あんな不思議な力があるなんて。それにダミアン君が教えてくれなかったら、私にあんな力があることも判らなかったし……)
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「お母さんの病気のことなんだけど、もしかしたら、力になれるかもしれない」
ひと月ほど前にダミアン君にそう言われた時、実は半信半疑だった。だけどその週末、わざわざ私たち親子の住む部屋を訪ねてくれた2人は、とても丁寧に説明してくれた。
フェンリルであるアニジャさんには、他の人の能力を増幅させる力があること。そして私に少しだけど、癒やしの力があることも。
「だから、2人の能力を使えば、もしかしたら治せるかもと思って」
どうかなと、少し困ったような顔で首を傾げるダミアン君は、ウソを言ってるとは思えなかったので、私は彼の提案を受けいれることにした。
「手を貸してくれる?」
頷いて差し出した私の手を、ダミアン君はアニジャさんの額に当てる。そしてアニジャさんの前足をお母さんの胸に置いた。
「ゆっくりと、想いを込めていくんだ。少しずつ。治ってほしいって」
(お母さんが良くなりますように、お母さんが良くなりますように……)
するとアニジャさんの額が光りだし、その光は少しずつ強くなったかと思うと、一気にお母さんに流れ込んだ。そして……
今日、お母さんとわたしがずっと夢見てた、パン屋『黄色い小鳥亭』が開業する。
もうすぐ開店時間。扉上部にはめ込まれたガラスの向こうには、沢山の人たちが並んでくれているのが見える。
ちょっとドキドキしながら大きく息を吸い込むと、扉を開けた。
「いらっしゃいませ!『黄色い小鳥亭』に、ようこそ!」
***
「なぁ、ダミアン。先頭でなくて、良かったのか?」
「良いんだよ」
ニヤニヤしながら聞いてくる兄者の両耳を、軽く引っ張る。
今日は砦跡のパン屋『黄色い小鳥亭』の開店日だ。開店記念として、特製パン籠が配られるということで、開店前から沢山の人が並んでいる。
俺たちは、その列の中ほどにいた。
店の前では、すでに買い物を終えた人たちが、記念品の籠を受け取っていて、ならんでる人にそれを自慢したり、まだ沢山あるからと安心させる声が聞こえてくる。
そんな中、ときおり聞こえるアリスの声が、楽しそうなことに安堵しながら、少しずつ動く列の中で、ここひと月のことを思い出していた。
少し前、改装工事の雑用係から、パシェット商会専属の絵師となった時から、俺を取り巻く物全部が変わった。
まず、入ってくるお金の額が変わり、待遇もよくなった。もちろん兄者の仕事は変わらないが、支給される食料の量は増えた。
しかも新しく作るパン屋の職人を探している話を、求人をかける前に知ることができた。
(これを上手く使えば、彼女が砦跡に住むことになる!)
そう思った俺は、ライドさんを通じて商会頭にに提案したのだ。「特別なパンが作れる職人を知っている。その人物を雇ってほしい」と。
そこから先は、ほとんどが俺たち兄弟の演技力にかかっていたので、ところどころの綻びや不自然さはどうしようもなかったけれど、何とかごまかしながら、やり遂げることが出来た。
「だが、ホントにあれで良かったのか?」
店に入るまであと数人となった時、兄者か心配そうに見てきたので、頷く。
「しかし、弟よ。あの娘の力は、あんなものでは……」
「しっ。誰が聞いているか判らないから、そのことは人前では言わない方が良い」
迂闊なことを言わないよう、兄者をいさめるが、その危惧するところは判っていた。
アリスが内包している癒やしの力は、膨大なものだったからだ。それこそ、聖女と呼ばれるほどに。だけどその事を隠して、彼女の母親を治療したのだ。
兄者がアリスの能力を少し引き出し、あたかも自分が増幅したように見せかけただけ。
だましたと言われれば否定できないけど、結果として、アリスの母は元気になっている。
だがそのことが兄者には少しばかり、ひっかかっていたのだろう。
「兄者。もしそれを解放したとして、その結果はどうなる?あれほどパン屋になる事を夢見ているアリスが、聖女にされてしまうんだ。それも、本人の意思とはまったく関係なく」
周りに聞こえないよう、兄者の耳元に口を寄せて聞く。
「兄者はそれで、彼女が幸せになれると言うの?」
「それは……」
少ししょぼくれる兄者に悪いとは思いながらも、彼女の力は、できるだけ他の者にバレないようにしておこうと思う。
雇い主に関しては、あまり心配していなかった。
風変わりな少女の商会頭には、『少し癒やしの力を込めることが出来る職人』として、伝えてある。
実際にパンを食べてもらった時の笑い方は、ちょっと気になるけど、悪いようにはしないだろう。
そして俺は、毎日好きな絵を描いて、彼女のパンが食べられる。
この砦跡の生活が、永遠に続けばいい……




