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花成す男

作者: 藤野みゆき

「ほら、市役所の裏にある小さな公園、あそこでもあったらしいんだよ、例の事件」

「ああ、そうなんですか、私、市役所とか行かないから、よく分からないです」

 仕事中になんでこの人は私に話しかけてくるんだろう。

 確かに、住宅街の中の小さな喫茶店で、特別コーヒーがおいしいとか、インスタ映えするスイーツがあるわけでもない、こんなところにお客も近所の顔見知りしかいない。喫茶店のオーナーの知り合いかどうか知らないけれど、店のカウンターでコーヒーのおかわりで何時間もいる。私は普段、午後からのバイトなんで、実際何時からいるかは知らないけれど、コーヒー以外に注文された形跡をこれまで見たことはない。

 私は最低限の愛想笑いで受け流しているつもりだったけれど、すでに定年退職でもしているこのおじさんは、いつでもどこでも何時でもいるし、なぜか私に話しかけてくる。

 近所の喫茶店でたまたま見つけた求人広告で飛び込んで、最初は楽な仕事と内心ほくそえんでみたけれど、こんなところに伏兵がいたなんて。

「お嬢ちゃんも大学生?」

 なぜ、「も」なのかいつも気になるが、もちろん、聞き返したことはないし、そもそもこの質問も何回もされた。

「…はい」

「どこ大?」

 これもなぜかよく聞かれる。

「…プライベートなことは話さないことにしていまして」

「なんだよ、ケチだな。今の学生はみんなこうか、いやだな、ゆとりってやつは」

 私はすでにゆとりって世代でもなかったが、もちろん、言い返さない。言い返してもなにも始まらないし、まして私は見た目で何かを判断されるのが本当に嫌だった。

「お嬢ちゃん、コーヒーのおかわりくれる?」

「はい…」

 今日もマスターは奥の部屋でうたたねをしている。

 私の目の前のすでに初老を通り越しそうなごま塩頭の客と、右の奥のテーブル席に小太りと痩せたおばさんのコンビ(この客も本当に良く来る、部屋着のままで、家事とかしてないのだろうか)、そして、中央の小さなテーブルに白衣を着た50代くらいのおじさんが一人。そう、ここから背筋の伸びた背中を見せる、この白衣のおじさんも常連客だ。

「あの…」

 と、白衣のおじさんが手を挙げた。少し首をこちらに向けるようにして、少し申し訳なさそうにして。

「あ、はい、少々お待ちください」

 と、目の前のごま塩頭のコーヒーを注ぎながら、返事する。

 そして、コーヒーカップの6分目でコーヒーを注ぐの止めた。

 あ、少しコーヒー少ないか、と心で思った。おそらく、ごま塩頭もそれを感じたようだった。小さく「おい」と言われたが、私はその声が聞こえてない振りをして、コーヒーのポットを持ったまま、白衣のおじさんのところまで急いだ。

「コーヒーですよね?」

「あ、すみません、ありがとうございます」

「いや、ここはコーヒーお替り自由なんで」

「いや、…ありがとう」

 私は気づいていた。その白衣の人は、どこかの研究所の所員かなんかなんだろうと。

 白衣にもいろいろ種類があって、いわゆるお医者さんが着る医療用の白衣もあれば、研究などで切る白衣もある。同じ白だけれど、ボタンの位置とか、ポケットの位置とかで、それが研究用の白衣であることを私は知っていた。

 なぜなら、平日は毎日同じ白衣を私も着ているからだ。

 私はちらりと男性の席のテーブルの上を見た。びっしりと小さく書き込まれたノートと、印刷してきたのだろう、英字論文の束。そして、三色のボールペン。

 論文を書いているのか、論文を添削しているか、はたまた、新しい研究のためのアイデアを練っているのか、いずれにしても私が思っている理想的な研究者像だった。

「お花の研究ですか?」

 私はちらりと見えた英字の表題を見て、そう聞いてみた。

「あ、いや、…あはは、こんなところでこんなものを読んでて、すみません」

 と照れたように頭をかく。

 私はなんて奥ゆかしいんだろうと思う。それに比べて、うちの教授たちのガサツで傲慢で見栄っ張りなことか。

 口を開けば「こんなことも知らないのか」と言いつつ、ろくに論文も書かずに、助教とタバコばかり。その助教もどこか人間らしさを失っていて、まるで教授のマリオネットかロボットか。なにか分からないことがあって質問に行くと、「あれはあの論文にあるから、それはこの本に載っているから」と自分の口では決して教えてくれない。すでにその論文は読んでますから、と激高しそうになるが止めている。以前、論文の添削をお願いしていて、その返却が遅いので「もう少し早く見てもらえませんか?」と伝えたら、次の日、教授に呼び出された。「助教は大事な研究で忙しいんだ。女のくせに、そんなことにも気づけないのか?」と100%セクハラ発言をされた。

 でも、結局我慢した。なにせ卒業したいし、親にお願いして大学院まで来たんだし、ここで負けたくなかった。

「あ、そうだ、この前、読ませてもらった本、本当に役に立ちました、ありがとうございました」

 私は白衣の男性に素早く頭を下げた。

「いやいや、こちらこそ、探されていた本がたまたま家にあっただけですから。それより、良かったです、お役に立てて」

「それは、もう、本当に」

 白衣の男性は目を細めて笑っていた。

 それは数日前、あまり普段はそんなことはしないが、どうしてもゼミの論文が読み終わらず、しかも、その引用の内容がさっぱり分からず、頭を抱えたまま、バイトに来ていたのだ。

 そしたら、その白衣の男性が助け舟を出してくれて。

 私は生物内の化学的な組成に関する研究をしていたのだけれど、どうしても植物分野は苦手で、たまたまその白衣の男性が植物に詳しいことが分かって、助けてくれたのだ。

「あ、すみません、コーヒーのおかわりでしたね、ごめんなさい」

 私は、目の前のコーヒーカップのカラであることに思い出して、慌ててコーヒーカップに手を伸ばす。

 その瞬間に漂う、花の香り。それはかすかな香りだったけれど、確かに自然な花の香りだった。

 なんの花の香りだろう、と想像する間もなく、注ぐコーヒーの香りに上書きされる。

「わたし、花を作るホルモンの研究をしているんです」

 ふと、男性は口を開いた。

「花を作るホルモン?」

 高校の時に習ったようなかすかな記憶をたどる。

「花を成すと書いて、花成ホルモン。フロリゲンとも言われています」

 その語り方は、まるで自分の秘密をそっと打ち明けるようだった。いつになく、男性は笑顔だった。

「いまだに、花を作る機構ははっきりとは見つかっていないんです。不思議ですよね、こんなに科学が進んでいるのに、どうして花をつけるか、その仕組みが分かっていないんです」

 興奮を抑えるように話す白衣の男性に、私は素直に共感した。

 そっとコーヒーを注いだカップをテーブルに戻しながら、

「その…、フロリゲンの研究をされているんですか」

 私はもう一度テーブルの上に広げられている論文を見て、そして、メモを見た。

 さっきは気づいていなかったけれど、メモの中は花の名前でびっしりだった。ツツジや桜、チューリップやコスモスなんてよく見る花もあれば、沈丁花やネモフィラのような知っているようで知らない名前や読めない名前も並んでいる。

 そんな私の視線に気づいたのか、白衣の男性がすっとメモ帳を閉じた。

 私もお客さんの私物をまじまじと見ていたことに気づいて、さっと視線をそらした。

 カウンターのごま塩頭のおじさんが怪訝そうな顔をしてこっちを見ている。そんなにサービスに差をつけたことを根に持っているのか、コーヒーをちびちびすすりながら、時にカウンターからこっちを覗き見るような顔をしている。

 私はそんなごま塩頭が気持ち悪くて、身震いするようにもう一度視線をそらせた。

 おばさんのコンビがなにがおかしいのか、大げさなくらいなリアクションで笑っている。

「研究というほどではないです…、趣味というか、探求心がそうさせるというか…」

 男性の自嘲するような笑みに、なぜか私はただの常連客というだけの素性も全く知らないこの男性に対して、強い親近感を覚えた。

「研究って大変ですよね」

「……はあ」

 白衣の男性は私の発言の意図が組めず、疑問のような相槌のような声を出していたが、私はどっちでも良かった。研究者の理想のような人物が現実にいることを改めて知れたことが自分の安心になっていた。

 おばさんの笑い声が響く。窓の外で散りかけたバラが揺れていた。


 雨の日だった。

 昨日も雨だったし、明日も雨のはずだ。

 ビニールのおしゃれでも何でもない、ただ実用的な傘をさして、私は駅から家に向かっていた。

 駅前のタクシーの待つロータリーの街頭に、『変質者にご注意ください』の看板が雨で濡れていた。

 変質者って見た目でわかるもんか、頭がおかしいから変質者なんだろ、と思わず毒づいてしまう。

 今日の教授連中は最悪だった。時間をかけて、もちろん、自分もまだまだ未熟者で至らないところがたくさんあるところは認めた上で、できる限りの研究の中間報告を作って発表に臨んだのに、発表が終わるか終わらないかのうちに、

「この研究って、意味あるの?」

 隣の学部の教授が手も挙げずに言う。

 血の気が引くとはこのことだった。そのあとのことは、もう思い出したくない。

 私は言い訳に終始してしまって、研究の目的を伝えることはできなかった。そんなしどろもどろな私では埒が明かないと思ったのか、その隣の学部の教授は矛先を自分の学部の教授に向ける。そしたら、うちの教授も「今は中間発表なので」とかなんとか言って誤魔化してくれればいいものの、当然、そんなものは期待できなかった。「黙っていたが、そっちの論文だって、意味があるのか!」と言い出す。後は、ただの言い合いで、議長を務める学長が出てきてようやく収まった。

 残りの中間発表の間、私はずっと下を向いていた。

 その上、この回の後、うちの教授に呼ばれて怒鳴られるかと思っていたのに、最後に助教に呼び止められて「気にしなくていいよ」と言われただけだった。

 駅ビルもない、おしゃれな店もない。駅前には、チェーン店の居酒屋とカラオケ屋があって、元気があれば一人でカラオケに行くこともあるけれど、今日はそんな気分はさらさらない。

 雨に触れて雫を落とす街路樹のプラタナスを少し見上げて、私は何をやっているんだろうと自問自答する。自分が好きで選んだことなのに、毎日、教授の顔色ばかりうかがっている。そんなことは求めてないはずだ。

 駅から外れるごとに緑が増える。街路樹も花壇も公園も。私が高校生の頃にはまだあった自動車工場がなくなって、いくつかの研究所ができた。そして、その研究所の周りも植物で囲まれる。

 最初は、この研究所のどこでもいい、家も近いしやりたいこともできるなら研究所員として勤めたいと思っていた。理系女子がもてはやされて久しいけれど、幸い、私は理系女子だった。

 ところが、その手前で今挫折しそうになっている。

 研究所の白い無機質な建物が見えてくる。その強大なキューブを囲うように、高さや品種の違う木が植えられている。セキュリティの問題からだろう、2メートル近い高さの塀がぐるりと囲う。でも、できるだけ緑の調和を残すように、腰の高さくらいの低木が植わっている。

「あ…」

 私は息を飲んだ。

 研究所の全長は300メートルを優に超えるはずだったが、その塀伝いにアジサイが満開だった。

 アジサイが植わっていることを知らなかったわけではなかったし、アジサイが咲いていることも知っていた。でも、今満開だったのだ。少なくとも私にはそう見えた。

 雨粒をアジサイの葉が弾いている。雨に濡れてアジサイの青がさらに冴えている。空の色や海の色に近い青が見渡せる限り、続いている。

 私も最初からうまくいくなんて思っていなかった。先輩の見よう見真似で白衣を着て、試験管を振って、多少の失敗も自分の糧だと納得していた。それなのに、いつの頃からか、多分、大学院に入ってからか、研究がつまらなくなっていた。なんのためにやっているか分からなくなって、卒業のためだけに頑張っているような気がして、楽しくなくなっていた。

 でも、アジサイの海を見て、私は少し思い出していた。純粋に科学が好きだった自分のことを。なんにも申し合わせたわけでないのに、一斉に咲くアジサイたち。こんな自然の不思議が自分は好きだったんではなかったか。

 そして、同時に思い出す「フロリゲン」という花成ホルモンのこと、白衣の男性のこと。

 科学にロマンを持ってくるのは、おそらくうちの教授からは大反対されるかもしれないが、私は賛成だ。少なくとも私は持ち込みたい。なにかを追求することがこんなにも美しいことだって、私は思いたかった。

 そんなことを思っていると、携帯電話のアプリに母親から写真付きで連絡が来た。

 そこには、実家の庭にある梔子が映っていた。でも、なにか変だった。形や姿はうちの梔子で間違いないはずなのに、なにか変だった。

「あ、花がない…」

 そして、母親のコメントにはこうあった。

『クチナシの花が全部ないんだけど、切ってどっかに持って行ったりしてない』

 プラタナスの枝の雫が弾丸を連射するように傘に落ちる。私は思わず両手で傘を抑えたが、その反動で手に持っていた携帯電話を落とす。

「あ…」

 私の携帯は防水仕様なので雨くらいでは問題はなかった。

 問題はなかったが、携帯の画面の打ちつける雨のせいで、花の消えたクチナシがなにか得体のしれないもののように歪んでいた。


 今朝まで5輪くらい咲いていたクチナシの花はことごとく消え失せていた。最初からそうだったのかと思えるくらいに自然に花は無くなっていた。

 私はまじまじと花がついていただろう茎の先を見て、きれいに斜めに切られているのを見て、逆に感動してしまった。

 確かに、家の外からでもうちのクチナシの花は見えていただろう。おそらく、家の前の歩道までクチナシの香りも届いたと思う。

 どうしてもうちのクチナシが欲しかったのかもしれない。最近、近所ではやっている変質者の仕業かもしれない。

 でも、まるで生け花でもするかのようなきれいな切り口は、植物の扱いを知っている人間で、しかも、大事に扱っていることが容易に想像できる状態だった。本当に、花だけがきれいにないのだ。蕾は残っているし、大きくて扱いづらいはずのクチナシの葉にも傷もない。

「本当、物騒で嫌ね」

 と、後ろで母親がつぶやくけれど、こんな風にきれいに花を取っていくことのどこが物騒なのか。当然、野原でタンポポを摘むとはわけが違うが、家の中に入ってきて金品を取られたわけでもない。

 ただ、庭の花を取られたのだ。

「母さん、知らなかったけど、家の植物でも器物損壊になるんだって。警察の人が言ってたの」

「ふーん」

 と私は特段の興味も示さず、クチナシを覗いていた顔を戻すと、母親が心配そうにつぶやく。

「あなたも気をつけてね」

 なにを気を付けるんだろう、と私は思う。

 例えば、庭を見ていると、見知らぬ誰かが勝手に庭に入り込んで、うちのクチナシの花を見ている。

 それだけでは、変だ人だとは思うかもしれないが、警察に通報まではしないかもしれない。いや、してもいいかもしれない。不法侵入であるのだから。でも、それだけを伝えても、警察官は来てくれないかもしれない。いや、来てはくれるかもしれない。でも、逮捕することはないと思う。花の取ったくらいでは

「あなたって、どこか変に落ち着いているところがあるから。しっかりしておくのよ」

「うん、ま…、分かった」

 とは言いつつ、母親の言葉の意味を私はよく理解していなかった。

 ここ1か月、市内の植物が勝手に刈られるという“事件”が起こっている。とはいえ、事件というほどの危険性を感じないのは、相手が植物だからもしれない。

 うちの家のクチナシ、公園のチューリップやパンジー、植木のツツジ…、聞いたことのないのを含めれば、もっともっと事件は起きているのかもしれない。でも、なぜか不安に思わない。

 これが、猫だったり、カラスだったら、尋常な心地で絶対にいられない。おそらくもっとニュースになっているはずだ。

 でも、花くらい、植物くらい傷つけたところで、ちょっと気性の荒い人物が不満のはけ口にしたんだろうくらいにしか、やはり思えない。

 研究所の塀伝いのアジサイが全てなくなりでもしたら、本当に警戒しようと思う。

 そう思った5日後、その日は梅雨の中休みで、空は曇りでも雨は降っていなかった。

 そして、研究所のアジサイが、消えた。


「本当にひどい奴もいるもんだよな、白壁に群青のアジサイだから、良かったのに」

 私は今日も普通にいつもの喫茶店でコーヒーポットを抱えていた。

 私の目の前にはいつものカウンターにごま塩頭が座っている。

 あのおばさんのいるが、今日は白衣の男性はまだいない。

 私はごま塩頭の話は全く耳に聞こえず、いつも白衣の男性の座る席ばかりを見ていた。

 本当に研究所のアジサイが消えた。あんなにきれいに咲いていたアジサイが今は今は緑の塊だけになっている。その花のないアジサイ自体が異様に見えたわけではなかったが、言い知れぬ寂しさを感じていた。

 それはまるで自分のことを理解している唯一の人間を失ったような喪失感だった。

「あそこの男は帰ったよ」

「………ん」

 私は最初、空耳かと思った。

「帰ったよ、あそこにいつも座っている男」

 声の主は目の前のごま塩頭だったが、なぜそんなことを言うのか、私には理解できなかった。

 確かに、白衣の男性の座っている席のあたりは見ていたが。

「お嬢ちゃん、コーヒーのお代わり」

 ごま塩男がずいとコーヒーカップを鼻先に近づける。

 その動作が、まるで家の中を土足で上がってきたかのようで、のけぞりつつ顔をしかめてしまった。

「おい、俺も客だろ」

 という言葉に、少しはっとしたが、謝罪の言葉は出さずに男の差し出すカップにコーヒーを注いだ。

 一瞬立ち上るコーヒーの香りに、私の不快感も和らぐ。

 ごま塩頭がコーヒーをずずっとすする。

「やっぱり、マスターのコーヒーはうまいな」

 仰々しくもわざとらしくなく、ごま塩男が言う。そして、また一口ずずっとすする。

「お嬢ちゃんは若いから知らないかもしれないが、マスターのコーヒーは本当に天下一品なんだよ」

 コーヒーなんて、駅前のチェーン店でもファーストフードでもそこそこおいしいコーヒーはあると思ったが、普段コーヒーを飲まない私は口をつぐんでいた。

 もしかしたら、事実、ここのコーヒーはおいしいのかもしれないが、私にはまだコーヒーの味の違いが分からなかった。

「ここの近所でうまいコーヒーを出すのはここくらいで、ずいぶんマスターもくたびれちまったけど、昔は夜中まで開けてくれてたんだ」

 そして、またコーヒーをずずっとすすった。

「すみません、お会計してもらえる」

 そんなとき、入り口近くのいつものおばちゃんが手を挙げた。

「あ、はい、ただいま…」

 小走りで駆け寄るが、二人のおばちゃんが同時に財布を取りだした。

「あら、いやだ、田中さん、この前の出してもらったじゃないの」

「あら、そうだった?でも、いいのよ、今日も出してよ」

「そんなわけにはいかないでしょ、あたしが借りを作るのが嫌いだって、田中さんが一番知ってるでしょ」

「そんなこと、当然でしょ」

「だったら、ここはあたしに出させてよ」

「でも、今日は本当に大丈夫なの、ね、だから、出させてよ」

「いや、ダメよー、理由も聞かないで、おごってもらうなんて、末代までの恥よ」

「もう、山本さんって、義理堅いから」

 私はどうでもいいと思っていた。

 たかだか、コーヒー二杯に、今日のケーキで、なにを揉めているのか。あ、そうか、もめているのではないのか、マウントの取り合いをしているのか。

 そう思いながら、私はぼんやりしていた。ぼんやりして、視線を下にして、私はいつも白衣の男性が座っている椅子の下に、なにか落ちていることに気づいた。

「ほら、さっき、うちのアパートで異臭騒ぎがあったって話、したじゃない」

 椅子の下から黒いものが見切れている。それは財布のようであり、手帳のようであり、私は首を曲げて椅子の下を覗き見た。

「そしたら、ほら、さっき………」

「ああ」

 椅子の下にあったのは、まさに手帳だった。

 しかも、白衣の男性がいつも持ち歩いて、時にテーブルの上に広げてある、花の名前のびっしり書かれた、あの手帳だった。

「…実は、示談金、もらったのよ」

「そうだったの、いくら?」

 おばさんたちは、なぜにこんなにお金の話が好きなのか、私は椅子の下から手帳を拾った。

 おもむろに表紙をめくると、そこには写真が一枚挟まっていた。

 どこかの公園の花壇の前で撮ったらしい写真には、間違いなく白衣の男性が普段着で笑顔で立っていた。そして、その横に小学の低学年らしい女の子と、さらに横に三十代後半なのだろう、年相応の女性が立っていた。

 私はその瞬間、何か知らず知らずに描いていた幻想が、やっぱり幻想だったことに気づいた。

「もう、田中さん、そういうことは早く教えてくれないと」

「でも、ほら、ね」

「あ、確かにね、そこにいつも座ってる人が、そんな人だとは誰も思わないものね」


 それから一週間後、夕方の小さなニュースで、うちの市内で起こっていた花刈り事件の犯人が捕まったことを告げていた。

 ただ、ニュースの中では花刈り事件の犯人とは告げてはいなかった。数件の不法侵入の容疑で、市内に住んでいる、自称“研究員”の五十二歳の男性が逮捕された、とだけ告げていた。

 私は今日もいつもの喫茶店のカンターの後ろに立っていた。

 まだ朝の十時、まだごま塩のおじさんやおばさんのコンビは来ていない。あの白衣の男性は、当然いない。

「あれ、今日子ちゃん、今日って休むとか言ってなかった」

 後ろから声がして、私は少し首を後ろに向けた。

 のっそりと奥の暖簾から、いつもうたたねしているマスターが顔を出した。

 今日はいつになく元気そうだなと私は思った。そう思いながら、私は思う。

 そりゃそうか、朝だもの。いつもは論文書くとか、論限研究するとか言って、休日の朝を過ごしていたけれど、そんなの本当に実行したことなんて本当に数えるくらいしかない。

「もう、悩むの止めたんです」

「悩む…」

「どうせ、悩んでもいい研究なんてできないから、悩むの止めたんです」

「あ…、そうなの」

 マスターはそれ以上言わずに、カウンター裏のの流しで手を洗う。

「いいよいいよ、若いうちは無理しなくて。どうせね、大人になったら、いろいろと無理しないといけないからね」

「マスターは無理していたんですか?」

 私は何気なく聞いてみた。

 マスターは困ったような様子は見せなかったが、すぐには答えず、しばらく手を洗っていた。

「もう、今は無理だけどね」

 そして、つぶやくように言って、微笑んだ。その笑みは私には見せてくれなかったけれど。

「そうだ、今日子ちゃん、コーヒーの淹れ方、教えてあげようか?」

「え、コーヒーですか?」

「そう、どうせ、毎回、ヤマノウチの相手してるんでしょ」

「ヤマノウチ?」

「俺のコーヒーが天下一品とかうそぶいている、クソおやじだよ」

 私は心の中で「あっ」とつぶやいた。あの人、ヤマノウチって名前だったんだ、しかも、マスターに『クソおやじ』と呼ばれるような人だったんだ。

 すると、扉がカランと鳴った。

「おお、珍し、お嬢ちゃん、早番になったのか?」

「え、いえ…」

 と言って、マスターに助け舟を求めたが、マスターは私のことに構わずにコーヒー豆をコーヒーミルに入れていた。

 ごま塩頭のヤマノウチさんが、今日もいつもの場所に座る。

「マスター、コーヒー」

「あいよ」

 会話はそれで終わった。そして、その数分後、喫茶店はコーヒーの香りに満たされた。

 私はいつものようにマスターが作ったコーヒーをコーヒーポットに入れて、客のカップに注ぐ。

「そういや、あいつ、捕まったな」

 私は返事をしなかった。

「マスターから聞いたよ、お嬢ちゃんが言ったらしいじゃないか、警察に届けようって」

 私は黙っていた。別に黙っている必要はないはずだったけれど、ぺらぺらしゃべることでもないと思っていた。

 すると、ごま塩頭はこれ見よがしにカップを置いて、ずいと私の顔を覗き見るように顔を近づけた。私は急に顔を近づけられてぎょとした。でも、私を見るごま塩頭の顔はいつになく穏やかだった。まるで、投げたボールをちゃんと加えて持ってきた愛犬を見るかのような顔だった。

 私はその顔に見覚えがあった。

 そう、うちの教授の顔だ。そうか、私がこのごま塩頭のヤマノウチさんがなんとなく苦手だったのは、うちの教授に顔を似ていたからか。そう思うと、なぜか笑えてきた。張り合っても仕方ないものに張り合っていたわけだ。

「見直した」

 その言葉に、私は小さくうなずいた。

「……ありがとうございます」

「いつから気づいてた」

「いつから?」

 その私の返答に、今度は露骨に残念そうな顔をした。こういう褒めた後で急に貶すところもうちの教授にそっくりだ。

「俺はずっと怪しいと思ってたんだ」

 気づいたらマスターはカウンターの裏から消えていた。

「………どこが怪しかったんですか」

 私は思わず尋ねてしまっていた。

「最初からだよ」

「最初から?」

「そうだよ、俺は三十年、あそこの研究所にいたけど、白衣で外を歩く奴なんて、誰も一人も見たことないよ」

 私は、なにも答えられないでいた。

「だって、そうだろ、白衣で歩いてたら、権威振りかざしてるみたいでかっこ悪いだろ。少なくとも、本物の研究者は、そう思う」

 窓の外で、花の切られた葉だけになった、かつてのバラが小さく揺れた。

 そういえば、マスターがバラの花は早々に剪定すると次にまた新しい花をつけるんだと言っていた。

 そうか、ここには自然に詳しい人がそろっていたのか。

 私は、まだコーヒーが少しだけ残る、ヤマノウチさんのコーヒーカップに静かにコーヒーを注いでいた。


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