悪党と小悪魔と大悪竜
陰鬱の森はその名のとおりに薄暗く、踏み込んだ者の気持ちを滅入らせる負の瘴気に満ちていた。男は鉈で行く手を阻む蔓草を切り払い、忌々しげに毒づく。
「クソドラゴンめ、こんな辺鄙なところに巣を構えおって。おかげでこの俺がこんな苦労をせにゃならん」
「竜退治なんて、正義の味方にやらせとけばいいような仕事を引き請けたのは、どこのどちらさまでしたっけ」
そういったのは、身の丈一フィートほどの美女だった。男の背負うバックパックの上に腰かけて羽根を休めながら、優雅にキセルをたしなんでいる。
「うるせえ。見世物小屋に売り飛ばすぞ、フェンカ」
肩口へ向け怒鳴り散らした男に対し、
「あんたのしょっぱい稼ぎより、小屋の興行収入の分け前のほうが割いいかもね」
と、性悪妖精は報いて、男のほうへ煙を吹いた。
下戸の上に煙草も吸えない男は、咳き込みながら首を前方へ戻す。
男はどこにでもいるような悪漢であった。本来ならば街でくだらぬ無法を働いたところで、颯爽と現れた通りすがりの主人公にたたまれてお役御免となるような、典型的な小物である。
それがなぜドラゴン退治などをやるはめになったかといえば、男が以前にとった気まぐれな行動が原因であった。
その日、男――イルサームというのだが――は、街角で旧敵の姿を見かけた。
かねて因縁深い相手であったので、半日ばかり尾けまわし、とうとう機会を得て抜剣一閃、白昼辻にて斬り殺したのである。実に悪党らしい、卑劣なやり口であった。
だが悪人の敵というのは、往々にして、また悪人なのである。
遺体から金目のものを物色するなり、悪党ならば徹頭徹尾、邪まに振る舞っておけばよかったのだが、そのときのイルサームは半日におよぶ追跡行の果て、すっかり催しており、すぐにでも小用を足さねばならぬ状態であった。足早に現場から立ち去るその背が、なにかを語っていたかのように、目撃者には思えたらしい。
気づいたときには、強きを挫き弱きを助く、正義の味方イルサームどの――ということにされていた。
といっても、旧敵を討ち滅ぼしたのち、おだてられるままに、二、三、悪党退治の真似ごとなどをしたイルサーム自身が招いた災厄なのだ。
小村を虐げる悪代官が盗賊団の首領になり、とうとう今度の相手は、悪なる緑竜ヌロボルゲンであった。掛け値なしの正義の味方、勇者さまご一行を六組ばかりも返り討ちにしている、イルサームなどとは格が違う大魔竜だ。
吸い終わった長キセルをパイプと火皿と吸い口にばらしながら、フェンカが訊ねた。
「ていうかさ、イルサーム、なんで律儀にドラゴンの巣に向かってるわけ?」
腐れ縁の道連れではあるが、フェンカは相棒の腕前を知っている。弱くはないが、悪竜を斃すには、いまひとつどころかいくつも足りない。
イルサームはこれには明確な答えを持っていた。
「せっかく竜のねぐらの位置を教えてもらえたんだ、のぞいてみる価値くらいあるだろう。うまくいけばお宝のひとつもちょろまかせるかもしれんし」
「ふぅん。そういうつもりならいいけど。空き巣ができなかったらさっさとズラかるのよ」
ドラゴンはなによりも財宝に執着しており、棲処を留守にすることは滅多にない。また、巣を空けるときはなにかしらのこそ泥対策をしているものだ。
見込みが薄いのに愚痴をいいつつ陰鬱の森をわけ進む相棒の様子にフェンカは小首をかしげたが、自分はとくに面倒なこともないので重ねて問いただしはしなかった。
陽の射し込まぬ辛気くさい森の底を這いずること三日、ようやく目的地が見えてきた。悪しき緑竜ヌロボルゲンが棲む塩酸の沼だ。
もとよりまっとうな植生の見受けられない陰鬱の森だが、沼の周囲には輪をかけて異様な草木が繁茂している。
立ちこめる刺激臭に目許まで襟をすりあげながら、イルサームがつぶやく。
「……さて。町長の話だと、この沼のすぐそばに洞窟があるらしいが。そっちが竜のねぐらだと」
「ぶっちゃけ裏は取れてないんでしょ。だれも生きて戻ってないんだから」
と、自分は空気清浄の術で新鮮な呼吸を確保しながら、フェンカはさして面白くもなさそうに返す。
陰気にわだかまる森の木々を見渡して、イルサームは腕を組んだ。
「だがこのあたりに、正義に燃える勇者さまご一行とドラゴンがドンパチやらかした跡はない。竜退治に名乗りをあげるほどの腕自慢、かなり強力だったはずだ。森の中で戦いになってりゃ、教会のひとつも建てられるくらいの更地ができてるはずだが」
「緑竜からすれば、植物が生い茂ってるほうが保護色になるし矢避けにもなる。戦いの跡地に熱心に植林してる可能性もあるんじゃない? まあ、あたしが思うに、ドラゴンと戦うにおよんだ討伐隊がいなかったんじゃあないかしらね。不面目だから町に顔も出さずにいずこかへ退転、ってところじゃないの?」
「そうかあ? 三国中にとどろき渡る大悪竜ヌロボルゲンなんて話、この地方にくるまで聞いたこともなかったぜ。しょせんは場末のローカル悪党だ、正義屋さんがそんなにビビるとは思えんが」
本当の巨悪には立ち向かわず、小さな悪を吊るしあげてしたり顔をするのが「正義の味方」というやつだと、イルサームは偏見を持っている。
もちろん小悪党のイルサームは、偉大な権威には歯向かわず、法と善意の目が届かぬ隅のほうでこそこそしているが、己のことを分を弁えた悪党なのだと思っていた。だからどっちもどっちじゃないかという理屈なのだ。
沼のほうへ一歩踏み出したところで、茂みにまぎれて朽ちかけた看板が立っているのが目にとまった。
「なになに。『ヌロボルゲンにご用のかたは突きあたり左三十フィート』……とな。ずいぶんご親切なこった」
「あからさまなあやしさね。普通に考えれば罠だけど」
フェンカはあきれつつも訝しんだが、イルサームは酸の沼に爪先が漬かってしまうぎりぎりまで近寄り、左へ曲がった。
慎重に足もとをたしかめながら進んでいくと、看板のいうとおりのところに、倒木と面妖な植物に覆われた竪穴が口をあけている。
「ご用があるのはドラゴンのお宝であって、ドラゴンさまご自身にじゃないが。まあのぞいてみるか」
「どうなってもしらないわよ」
ドラゴンが大顎を開いて待ち構えているのではないかと、フェンカはイルサームのバックパックから飛びあがって距離をとった。相棒ごと丸呑みにされたり、竜の吐息でまとめて蒸発してはたまらない。
フェンカの懸念をよそに、イルサームはすんなりドラゴンの巣穴へと入り込んでいく。
「……ちょいと濁った空気だが、進めないことはないな」
「あ、ちょっと、まちなさいって」
相棒の背中が見えなくなってしまったので、フェンカはあわてて後を追った。
竪穴は狭苦しいがさして長くは続いておらず、すぐにひらけた地下空間へ出た。
空気は異臭がするというよりは、鼻腔へ突き刺さるように痛い。どうやらいまの穴はドラゴン自身が出入りするためのものではなさそうだなと、イルサームは闇で見通せぬ天井を仰いで心中にひとりごちた。ヌロボルゲンには人間大の手下か仲間がいて、そいつのための出入り口であろう。
追いついてきたフェンカが、耳元でささやく。
「ねえ、聴こえる?」
「なにがだ?」
聞き返され、フェンカは両手を腰にやってあきれ顔になった。
「……もう、人間ってホント役に立たない。ドラゴンの呼吸音がするでしょ。たぶん寝息」
「マジで? 生きてやがったか」
「ちょっと、どういう意味よそれ?」
イルサームがなにをいっているかわからず、フェンカは問い返した。
分を弁えているつもりの悪党は、説明する。
「強大な悪竜ヌロボルゲン、だが周囲千哩四方にとどろき渡るほどのスーパーメジャーってわけじゃない。かたや正義屋の勇者さまパーティが六組、生きて還ったものはなし。お前さんのいうとおりトンズラこいたのもいるかもしれんが、六組全部ってことはないと思うんだ、俺は。もし討伐に成功してりゃ、盛大な凱旋式を挙行してたに決まってる。まあ勇者さまがたは名誉の戦死を遂げたんだろう。それでもドラゴンが深手を負ってる可能性はあるし、ひょっとしたら最後のひと組と相討ちになった、なーんてこともありえただろ?」
「可能性は低いけどローリスクでハイリターン、のつもりだったわけ。なら残念だけど骨折損ってことで帰りましょう」
「おやすみ中だろ? まだチャンスタイムだ」
「寝息の調子が変わったらあたしは降りるからね」
「そんときゃ俺も逃げる」
イルサームは暗視の術がかかっている眼鏡を取り出してかけると、足もとに転がる朽ちた木片や、酸に侵蝕されて脆くなっている岩肌を踏み砕いてしまわないよう、爪先立ちになりながら家捜しを開始した。
進んでいくうちに、イルサームの耳にもたしかに巨竜の寝息が聴こえてきた。鍛冶屋のふいごを動かしているような音だ。深い一定のリズムを刻んでおり、ドラゴンはぐっすりと眠っているらしいことがわかる。
巣穴の中心、ヌロボルゲンの枕元にこそ最大のお宝があるだろうと、イルサームは寝息のするほうへと近寄っていく。
はたして、悪竜の長大な尾の先が見えてきた。呼吸に合わせて、ゆらりゆらりと左右に振られている。はたかれてしまわないように、タイミングを見計らって通り抜けると、イルサームはドラゴンの巨体の下をのぞき見た。やはり、金銀銅、大量の貨幣が敷き詰められている。
(ひと抱え持ってけば、ここまでわざわざきた元はとれるわね)
そうジェスチャーするフェンカへ、
(もうちょっとコンパクトで価値のあるお宝を探そうぜ。宝石とか魔法の指輪とか)
と返して、イルサームは頭のほうへとさらに進んでいった。
剣呑そうな蹴爪の生えた後脚の脇をすり抜け、ゆったりと上下に揺れる翼を匍匐前進でくぐる。フェンカは肩をすくめつつ飛ぶという器用な真似をしながらついてきた。ヌロボルゲンが目を醒しそうな気配はない。
肩口のあたりまでやってきたとき、突如として巨竜の前肢が持ちあがり、イルサームもフェンカももう少しで悲鳴をあげてしまうところだった。
頭を抱えて身を伏せていると、大きな手はのんびりと宙を泳いで頸すじを掻きはじめる。鉄板をも引き裂く鉤爪と弩の矢すら弾く鱗がこすれて耳障りな金属音を立てたが、穏やかな寝息に変化はない。
ふたりともに、詰めていた息を深々と吐いて動悸を鎮める。
(……おどかしやがって)
(はやいとこズラかろうよ)
(いや、やっぱりこいつは相当ダメージを受けてるぞ)
(なにいってんの、どこにも傷なんてないじゃない)
指をふりふりフェンカの示すとおり、ヌロボルゲンの全身を覆う鱗には、剣をたたきつけられた斬創も、魔法で灼かれた痕もなかった。すべらかで、美しいほど深い緑色の身体にはしみひとつない。
しかしイルサームは不敵な笑みを浮かべて巨竜の偉容を眺めやった。あらためて見てみれば、およそ間違いない。
(きれいすぎると思わないか?)
(……どゆこと?)
(普通、これだけの巨体になったドラゴンは、背中に苔を生やしてたりするもんだ。連中にとっちゃおしゃれの一種だし、カモフラージュにもなる。ところがこのツヤツヤお肌、卵から孵ったばかりの雛竜みたいじゃないか)
フェンカの目にも、ひらめきが奔った。
(まさか――脱皮した?)
(おそらくそうだろう。かなりの深手を負って、とりあえず傷だけふさぐために脱皮したんだ。ある程度まで育ったドラゴンはもう脱皮しない。体力食うからな、脱皮は。だがこいつはあえて脱皮せざるをえないほどひどくやられた。ぐっすり寝てるのもそのせいだ、まともな状態なら俺たちに気づいて絶対起きる)
(いわれてみればそうね。ドラゴンって地獄耳の千里眼だし。ひょっとしたら計算違いで、最後の体力を脱皮に使っちゃって死にかけなのかも)
(さすがにそこまで間抜けじゃないと思うが、脱皮してもしなくても死ぬって状態なら、たぶんドラゴンは脱皮を選ぶな。ズタボロの屍体なんて晒したくないだろうから)
(なるほど、ちょっと余裕出てきた)
そういってフェンカは先にヌロボルゲンの頭のほうへ飛んでいき、
(きゃー、すごいこれみてみてー!)
とさわいだが、全部ボディランゲージなので視線の途切れているイルサームには伝わらない。とはいえ、長大な角をまわりこんできたイルサームも、唇をすぼめて口笛を吹きかかったほどの光景だった。
しゃがみ込んだ牛くらいの大きさの岩は、明らかにエメラルドの原石だ。悪竜ヌロボルゲンは、それを枕に眠りに就いていた。
その周囲に散らされているのは、きっちりとカットされている宝石。サファイア、エメラルド、アクアマリン――寒色系が多いようだが、ルビーやトパーズも混ざっている。
武具もいろいろあったが、特に目を引くのがいくつか。
柄頭にダイアモンドが嵌められ見事な拵えの鞘に納まった剣、柄にびっしりと聖典の守護ルーンが刻まれている槍、大造りな黒鉄の戦斧、純白の羽根をよってつくられた(矢筒が見当たらないが、おそらく構えれば光を放つ、矢種無制限の)弓、フェニックスの像を戴いた紫檀の杖、鏡のように磨かれた白銀の盾――これらはおそらく、討伐隊の持ち物であったろう。
激戦で破壊されてしまったものも少なからずあるに違いない。たとえばあってしかるべきはずなのにここにはない、鎧。
(全部持って帰るのは到底無理だが……しかしすげえな)
(ていうか、よくこんな装備の討伐隊に勝てたわね、このドラゴン)
ふたりは顔を見合わせた。同じ悪でも、この竜は偉大なる悪だ。悪ながらあっぱれ。
(敬意を表して、一番高そうなやつだけで我慢するか)
(盗りすぎて恨みを買ったらあとでひどい目に遭うのはこっちだしね。あたしは宝石持てるだけにするわ)
といって、フェンカはポシェットにエメラルドやサファイアを詰めはじめた。ちゃっかり大粒のものばかり選んでいる。
ひとつだけ持っていくなら、やっぱりこれだよな……と、安直な考えでイルサームは宝石の山に鞘ごと突き立てられている剣へと近寄った。
もしかしたら、返り討ちにした敵へのちょっとした弔い、墓標のつもりだろうか。
こんな立派な剣は見たことすらない。イルサームがこの先悪党としてどれだけ栄達しようと、あるいはここしばらくの運命のいたずらに任せるまま正義党へ転身しようが、イルサームの自力では絶対にものにすることができないだろう。
――と、手に伝わってくる重みははっきりと告げていた。元の持ち主はいかなる志で剣を振るい、そしてこの竜と戦ったのか。
だが現実は、強ければ勝ち、弱ければ敗れる。勝てないときは戦いを避けなければならない。最後に生き残ったものが勝者であり、必ずしもそれは、正しきものでも、善きものでも、賢く強きものですらないかもしれない。
(ちょっとー、そんなところでひとりの世界に入ってないの。退散するわよ)
はちきれんばかりになったポシェットを重そうに提げ、フェンカがぱたぱたと目の前で両手を振ったので、ようやくイルサームは我に返った。
もちろん、分不相応な上に目立つので、イルサームはこの剣をさっさと売り払ってしまうつもりでいた。でも一度くらい見てみようかなと柄に手をかけたのが、大間違いだった。少なくとも外に出てからにすればよかったのだ。
三インチくらい刃の様子をあらためようと、ちょっと鯉口を切っただけのつもりが、バネが跳ねあがるかのように剣は勢いよく鞘から飛び出してきた。しかも、強烈に光った。真昼の明るさで、ヌロボルゲンの洞窟中を照らしだす。
さいわいイルサームの眼鏡は薄明かりを増幅するものではなく、そもそも光源の一切ないここではそんなものでは役に立たず、急に強い光を浴びせられても目が潰れることはなかった。それでももちろん、洞窟からいきなり外へ出たのと同じことで、視界が眩む。
さすがに、ぐっすり眠っていたヌロボルゲンも目を醒した。寝起きの巨竜が頭を振って意識をはっきりさせるのと、イルサームとフェンカが激しく瞬きをくりかえして瞳孔を調節するのに、ほぼ同じ時間がかかった。
一瞬、お互い茫然と見つめあう。
行動は、ほんのわずかだがイルサームたちが迅かった。家主を起こしてしまった、と理解するだけで済んだからだ。ヌロボルゲンのほうは、眩しくて目が醒めたのは、枕元に置いてあった陽光の神剣が抜かれたからで、それは侵入者の仕業だ――と、三手ほど考える必要があった。
反射的に、剣があった場所のかたわらに置かれていた盾を起こし、イルサームとフェンカはその陰に飛び込んだ。
ヌロボルゲンが猛毒のブレスを噴出した時点では、イルサームはまだ肩から上しか隠れていなかったが、起動した盾が防護の結界を展開したので大緑竜のブレスはすべて食い止められていた。
「この盾すげぇ!?」
「あたしは隠れてるからね。早く逃げてよ!」
驚いたのはイルサームたちのほうで、ヌロボルゲンは苛立たしげな燐光を目に踊らせるだけだった。前の持ち主にも防がれているのだろう。
ブレスの奔出が続いているあいだに、イルサームは急いで盾のストラップを左腕に通し、立ちあがる。
ヌロボルゲンの肺腑が、一度空になった。
右手に剣、左手に盾を持ったイルサームは、傍目には戦う気満々に見えたかもしれない。しかし、身にまとっているのはきらめく鎧ではなく、こそ泥仕事向けの、地味な仕立ての単なる服だ。
巨竜は侵入者を睨みつけ、軽く息を吸い直して苦々しげに口を開いた。
「そのふたつの武具の力を知っているということは、あやつの縁者か。話を聞いて仇討ちというわけか」
「え……いや」
盾が助けてくれたのは単なる偶然、剣にいたってはとんだ薮蛇、すごい勘違いをされている。だが誤認を解く口上を考える前にヌロボルゲンは話を勝手に先へ進めていた。
「そのひと組の武具が共鳴しているかぎり、あらゆる竜のブレスは防がれ、竜種の紡ぐ魔術ははねのけられるとわかっていたのだろう?」
つまり剣を抜いていなければ、盾の結界は発動しなかったということらしい。なるほどと納得してしまい、イルサームはヌロボルゲンの科白の隙間に割り込むことを忘れてしまった。
「……だからあやつは絶対負けるはずはないと、そう思ったか。騙し討ちに違いないと、そう思ったか。卑怯者の寝込みを襲って仇を討っても恥じるにはおよばないと、そう思ったか?」
「ちょっとまて……」
「あやつはな、ほかの連中とは違い、正々堂々と名乗り、吾に挑んできた。優れた武具を備えていたのだから、その上に細工を重ねれば充分勝機があったにもかかわらず、吾と対等な戦いを望んだのだ」
「それはちょっと……」
「あやつの誇りが、きさまにはないのか? あれだけの勇士の縁者が、きさまのような……」
感情が昂ったらしく、ヌロボルゲンが言葉に詰まったところで、ようやくイルサームは己の本分を思い出した。
胸を張って、一歩踏み込む。
「悪党で悪いか? 卑怯けっこう。人間にゃ牙がないから剣を持つ、鱗がないから鎧兜に盾で固める、一匹じゃ弱っちいから群れるし作戦も立てる。なにが悪い? だいたいこの剣と盾の前の持ち主のことなんぞぜんぜん知らん」
「……知らんだと?」
「安心しろ、あんたのご立派な勇敵に、俺みたいな悪党の縁者はいないってこった」
「ならばなんのためにここへきた。そしてなぜ真っ先にその剣と盾を手にしたのだ」
と、追及の手を変えてきたドラゴンへ、
「この中からひとつだけお宝をいただくとすりゃ、剣に目がいくのは普通だろう。あと、とっさに身を守れそうなものはこの盾しかなかった。ちなみにあんたを討伐するように触れてまわってるのは、南の町の長だ」
イルサームがそういうと、ヌロボルゲンの首の角度がわずかに変わる。
「南に人里があることは知っているが、襲ったりなにかを要求したことはないぞ」
「なるほどな。あの町長、なかなかのタマじゃねえか。なにかの拍子で知った竜のねぐらへ、町をおびやかす悪竜がいると喧伝して、出しゃばりな正義屋を送り込む。返り討ちにされてもべつだん痛くない。首尾よく斃せれば正義屋さんには栄誉とケチな報酬をつかませて、手前は竜のお宝をごっそりいただこうってわけだ。返り討ちにされる討伐隊が増えれば増えるだけ、腕利きたちの遺品がお宝の山に足されるわけで、ひょっとしたら町長はそっちのほうが歓迎かもな」
うまいこと考えやがって、とむしろ感心する調子のイルサームの眼前へ、ヌロボルゲンの頭が降りてきた。
「……きさま、悪党といったな?」
「ああ。それがなにか?」
ヌロボルゲンの目が、ぬらりと光る。
「その町長とやら、始末してもらいたい。報酬は、ここにあるものをなんでもだ。持てるだけ持っていけ」
「俺は悪党は悪党でもチンケな小物でね。まがりなりにもひとつの町を束ねてる、そんな大物に手を出すリスクは冒したくない」
首を左右に振り、イルサームはにべもなく答えた。
「どうしても嫌か」
「あんたなら、いますぐ飛んでいって町長の家を消し炭にする、そのくらい簡単だよな? なぜやらない?」
「……なるほど。そうだな、いまの話は忘れてくれ」
大悪竜ヌロボルゲンの名を、イルサームたちがこれまで聞いたことがなかったのは当たり前だった。そんなものは存在しなかったからだ。
だがこの生き物はあくまでもドラゴンであって、善悪の境界にこだわっているわけではない。
町まで飛んでいかないのも、べつに本当の「悪竜」として知られるようになることをおそれているからではなくて、憎いと思った以外の相手に累がおよぶのは本意でないからだ。
自分の命にある種の価値があることを知っているから、戦いを挑んでくる連中にも、対等な敵どうしであるという以上の感慨はなかったろう。小細工なしで真っ向臨んできた相手は特に称揚するにせよ。町長が手引きをするようになる前から、たまにはそういう来訪があったに違いない。
それでも、町長のことは気に入らなくなった、そういうことだろう。
もう帰れとばかりに、巨大なエメラルドの原石に頭を寄せて目蓋を閉じていたヌロボルゲンへ、イルサームはひとつ提案した。
「なあ、町長をここにおびき寄せるってのはどうだ?」
「吾を斃したと、虚偽の報告をするわけか」
さすがに、理解が早い。
「そうすれば、きっとあの古狐、よだれを流してここまでやってくる。あとはひと思いに骨まで溶かすなり、手足を一本一本砕くなり、好きにすればいい」
「ここに財宝が山積されていることを知っているのだろう、やつは。雇った人足や町のものを引き連れてくるのではないか」
町長の口車に乗せられた連中――ようするに、最近続いた六組の討伐隊と同じように、ヌロボルゲンには見えるわけだ。悪竜は死んだと聞かされてくるわけで、丸腰であろうから、よりやりにくい。
だがイルサームはかぶりを振った。
「最初は絶対ひとりでくる。まずはどんなものがあるか確認して、それから自分で運べる分を持ち出そうとするさ。小粒の宝石や金貨なら、いくらかポケットに詰めてガメられても仕方ないと思うだろうが、長寿の霊薬やら、透視の水晶やら、空飛ぶ絨毯やらは独り占めしようとするはずだ」
「なぜわかる?」
「俺が町長でも同じことをするからさ」
にやりとイルサームは笑い、ヌロボルゲンはどうやら納得したらしい。
「では、きさまに任そう。条件はさっきと同じだ、好きなものを持っていけ。きさまは悪党であるからして、報酬だけ取って実行をしないこともありえるだろうが、それはそれでいい」
「いいや、あんたにも『悪党』の仲間入りをしてもらうさ。因果応報といっても、騙し討ちには違いない」
性格の悪い表情を浮かべてから、イルサームは目を閉じると手にしていた陽光の神剣を鞘へ納めた。瞳孔が縮むのを待って、また開ける。ズレていた暗視の眼鏡を鼻の頭から押しあげて、鞘に納めた剣を元の宝石の塚へ立て直し、盾もそのかたわらへと置いた。
ヌロボルゲンが、目を眇める。どうやら、不思議がっている顔らしい。
「どうした? 持っていって構わんぞ」
「業物すぎて買い手を探すのが大変そうだ。かといって捨て値で捌きたくはないしな。とりあえず、町長に見せる証拠の品はこれでいいか」
そういって、イルサームはルーンの刻み込まれた槍を取った。それから、周囲を見まわして二、三小物を拾ってポケットにしまい、最後に大粒のルビーをひとつ。
「舌先三寸だけの仕事にしては我ながらボッてるなと思うが、こんなところか」
「欲のないやつだ。変わった悪党だな」
「分を弁えるのが長生きの秘訣――死んだ祖父さんの教えでね」
と応じ、きた道を戻ろうとしたイルサームを、ヌロボルゲンが呼び止めた。
「ちょっと待て」
「……なんだ?」
「持っていけ」
差し出された巨大な前肢の鉤爪に、なにやら鞣す前の皮のようなもの引っかかっている。寸秒、眉根を寄せて考えたが、イルサームはすぐに正体に思いいたった。
「あんたの脱け殻?」
「破れていなかった部分だ。たまに吾の古くなった鱗を買いにくる商人がいるので、そやつに売ってやろうかと思っていたが」
「ありがたく。こいつを靴やマントに仕立てれば、百年は使えそうだな」
「悪竜ヌロボルゲンの噂が聞こえてきたら、また立ち寄るがいい」
どうやら冗談らしい。イルサームは苦笑を返す。
「やめとくぜ。大悪竜ヌロボルゲンの右腕、悪漢イルサームなんて評判が立ったら、命がいくつあっても足りそうにない」
……結局、ずっとイルサームのバックパックの中に隠れていたフェンカが出てきたのは、ヌロボルゲンの巣穴から地上に這い出てきたあとだった。
「なんだ、意外に臆病だな」
「怖いとか怖くないとかの問題じゃないわよ。ドラゴンは妖精の肉が大好物なんだから」
「ヘビースモーカーのお前さんなら、さしずめ薫製妖精か。食えんのか、それ?」
「ぶゎか」
むくれたフェンカへ、イルサームはポケットから取り出したものをひとつ差し出す。
「ほれ、いいものやるよ」
「なにこれ、パイプの火皿じゃない」
「吸っても吸ってもなくならない、無限のな。味が好みかどうかまでは保証できんが」
「うわーどうしよ。これで絶品だったりしたら、もしかしてあんたに惚れちゃうかも」
すっかり機嫌の直ったフェンカは、早速キセルを組み立てはじめる。イルサームは二個目の報酬を地面へ放った。木彫りのラバだ。
地面に落ちたラバ像は、見る見るうちに真物と同じ大きさになった。四本の脚も、頸も、胴も、耳も、しっぽも、滑らかに動く。しかし、あくまでも木製。
木馬ならぬ木ラバに乗って、イルサームはその首筋をたたいた。行きにイルサームが切り開いた道なき道を、ゆったりと木ラバは歩きはじめる。
キセルを組み終わったフェンカが、やや不服そうな声をあげた。
「馬はなかったの?」
「あったけど、馬じゃこの狭苦しいところ通れないぜ」
「どうせならそれも持ってくればよかったのに」
「べつにいいだろ。……ところで、どうだそれの味は」
いわれて深々と一服し、フェンカはゆっくりと煙を吐いた。
「うん、不味くはない。でもちょっと薄くてボケてる。葉を切らしちゃったり節約したいときは助かりそうだけど」
「ふう、やれやれ。妖精に惚れられたら面倒そうだったから助かった」
「なーによ、ちょっと残念だったくせに」
「サイズ違いなら小さいよりは大きいほうがいいだろ」
「トロルとか?」
「……ひでえ喩えだなそれ!?」
「じゃあオーガ」
「美女ケンタウロスとか、歌姫ハーピーとか、そういう発想は出ないわけか?」
「ないわー。サイクロプスでいいんじゃないそれなら」
「……人間の彼女探すわ」
ボケ倒すのに飽きたところで、フェンカはもうひとつ思い出した。
「あといっこ、なにか拾ってなかった?」
「ずっとザックの中にいたくせに、よくわかるな」
あきれるイルサームに、フェンカは詰め寄る。
「なに、最後のはなによ?」
「秘密だ」
「えー、ここでそれはないでしょ」
「仕事道具だからそのうち使う。それまでのお楽しみ」
「ケチぃ。あとで種明かしするなら、いま教えてよー……」
現世や 浜の真砂は 尽きるとも
世に悪党の 種は尽きまじ
(世界観不一致)