08
エンリルの咆哮が咲和に届くことはなく、魔術陣から放たれていた光はその勢いを緩めていく。終には光は収束して消えていった。
光の放出が完全に終了すると、彼方、「リシュヌ法国」の上空に国を覆ってしまう程の巨大な魔術陣が形成された。
世界を睥睨し、衝怒の絲剣を天高く掲げる。
「…………私は」
静かに宝剣は振り下ろされた。
新たに形成された魔術陣は光を湛える。それは世界砕く白金の極光だ。
そして、遂に極光が放たれる、そんな時だった。
『――――――――――――――』
魔術陣と法国との間に、巨大な赤紫色の膜が一枚現れた。
極光は放たれた。膨大な熱量を以て世界を貫かんとする光の剣だ。そんなものを止められる者はこの世界にはただ一人しかいない。
そして、その一人とは咲和のことではない。
赤紫色の膜は魔術陣より放たれる極光を吸収している。
元は赤紫色だったその色も、白金と混ざり乳白色へと変わっていく。それは「アリシア王国」を覆っていた魔術防壁と似ている。
「神代の魔術………―――――――――――――――――――――――ならば」
再度、魔術陣を描く。
「罪禍の街は聖杯を抱き、未来を渇望し滅びを謳う。戦場には地獄を。営みには壊滅を。民草には凌辱を。廃滅の丘で、己の愚かさに悶えるがいい――――獣の凱旋は仇敵の血の河と共に」
自身の両隣に全く同じ魔術陣を二つ描いた。そして詠唱の完了と共に、そこには二頭の巨大な獣が現れる。翼を持たぬその獣は魔術陣の上に座っている。
巨人すら屠るだろう鋭牙としなやかで強靭な筋肉のついた漆黒の躰を持った怪犬。二頭はそれぞれ、左右片目がなかった。
【ご主人様、ご用件は?】
【ごしゅじんさま、おさんぽですか?】
二頭の怪犬は咲和に顔を向けて尋ねる。その声はどちらも少女然としていた。咲和の右側に現れた怪犬は落ち着きのあるクールな印象。左側の怪犬は元気溌剌で落ち着きのない印象。
「散歩ではありませんよ?」
そう答えて咲和は視線を前方へと向ける。それに倣って二頭の獣も視線を前へと向けた。
【蹂躙すればよいと?】
【蹂躙?】
「ええ………そうです」
咲和の言葉に獣は頷き、空を駆けた。
二頭の足元には魔術陣が現れては消えていく。それは咲和の描いたものとは違うもの。二頭が足場とする為に発生させているものだった。
漆黒の獣は法国の上空へと辿り着き、自ら発生させている魔術陣から法国を覆っている乳白色の膜の上へと飛び降りた。
膜に降り立つとすぐに爪を立て噛み付いた。王国を覆っていた物と同様に膜には伸縮性がありそう易々と破ることはできない。
【面倒ですね】
【かみきれないね】
獣たちは顔を見合わせて頷き、その身体を寄せ合った。二頭は抱き合うかのように溶ける。
二頭は溶け合い、混ざり、双頭の獣へとその姿を変えた。巨大だったその躰はより大きくなり、強固だった鋭牙はその強度と鋭さが増した。
【これで少しはマシになるかな?】
双頭の獣は後ろ脚で立ち上がる。そして、そのまま全体重を乗せて前脚を膜へと叩きつけた。
大地すら砕かんとする双頭の獣の一撃により、ようやく膜に小さな罅が入る。それを見逃すことなく双頭の獣は、罅の入った個所に爪を立てた。爪の入り込んだ罅は徐々に大きくなっていく。
双頭の獣はニヤリと口角を上げた。その時だ。
目の前に一人の女性が現れた。
それがいつからそこにいたのか、はたまた初めからいたのか獣にはわからなかった。しかし、獣はその女性に目を奪われた。
白銀の髪は二つに結われ、その長さは身の丈とかわらない。真っ白いドレスに身を包んだ姿は花嫁の様だ。全体的に白いそれの中で宝玉の様に美しい碧眼は唯々異様だった。
【奥、様?】
女性は獣の言葉に表情の一切を動かすことはない。
「叡智の名の下に、世界を睥睨し嫌悪する。独断、偏見、悔恨と自己犠牲。誰も必要ない、誰も居なくてもいい、ただ一人あの方さえいればそれで、私は幸せだった――――」
世界に響けと侮蔑を籠めて高らかに詠う。双頭の獣へと視線を向けた。すると、一頭と一人の間には魔術陣が現れる。それは捻じれ、螺旋状の槍のような姿へと形を変えた。
目の前に螺旋槍が現れようとも、双頭の獣が女性から視線を動かすことなかった。獣はその碧玉に心奪われて動くことが出来なかった。
「――――――――――ならば世界すらもとよりいらぬ」
その表情が崩れることはなく、祝詞は紡がれ指は鳴らされた。
螺旋槍は放たれ、双頭の獣を貫いた。
【ティ、マト、お、さ………】
ドクドクと血は流れ、乳白色の膜を冒していく。獣は縋りつくように前脚を伸ばす。
「……不快だわ」
女性は踵を返し、風に吹かれて霧散した。




