堺の抵抗 本圀寺の変
永禄11年(1568年)十二月
宗久が堺に戻ると堺の町はすっかり変わっていた。周りに堀や柵が張り巡らされており、櫓まで作られていたからである。
宗久は急ぎ会合衆を集め事情を聴いた。
「なぜ、戦の準備をしているのか!!」
宗久は大声で問うた。
「何故って信長と戦う為じゃ」
「兵力が違うのが分からんのか」
「なに、織田信長は美濃に帰っておるし、こちらには三好三人衆がいる。これなら一度勝って交渉ができる」
「相手が交渉に乗らなかったらどうするつもりか!!」
「その時はもう一度勝って交渉させる。ところで援軍は貰えそうなのか?」
「鉄砲隊九百人もしくは雑賀衆三千人を雇えとのことだった。しかし、戦になれば堺が燃えて失くなる可能性がある」
宗久は必死に戦を止めて矢銭を支払って穏便に済ませようとしたが思いとどまらせることが出来なかった。
「これでは堺が失くなってしまう...」
宗久は会合衆を一人一人説得に回った。
永禄十二年(1569年)一月
三好三人衆らが京都本圀寺に仮御所を置いていた将軍足利義昭を襲撃した。
三好政康
「信長本隊がいない今が好機!皆の者、本圀寺を攻め落とせ!」
「おおおぉぉ!」
本圀寺に三好勢およそ一万が襲いかかった。
「皆の者、怯むな!!数日守りきれば味方が必ずやってくる、それまで持ちこたえるのだ!!」
「おおぉぉ!」
光秀は味方を鼓舞し、なんとか将軍を守ろうとした。
明智光秀ら織田勢を中核とする義昭方は本國寺に立て篭もった。陥落は時間の問題と思われたが、三好勢の先陣が、山県源内、宇野弥七らの奮戦により、幾度も寺域への進入を阻まれた。
三好側は結局本圀寺を落とせず翌日攻めることにした。
しかし、その間に細川藤孝や三好義継、摂津国衆の伊丹親興、池田勝正、荒木村重ら、急報を聞きつけた畿内各地からの織田勢の後詰が合流してしまった。
三好家は不利を悟り撤退したが追い付かれ桂川河畔で合戦になり敗北した。
信長本人も僅かな兵士を連れて本圀寺に到着していた。
「このような所では危のうございます。ここは将軍用の城を作ります。それまで暫しお待ち下さい」
と二条城を建築し始めた。
一方その頃堺では
会合衆
「まさか、三好三人衆が負けるなどとは...」
「しかも、織田信長も、京に戻ってきたではないか」
「どうするのか!三好三人衆がいなければ勝つことなど到底不可能だ!!」
「ここは浪人を雇い集めて立て篭もるしか...」
「それでは堺が燃やされるぞ!!」
「もはや、織田に従うなど認めてもらえぬのでは...」
「私が織田家に交渉に行きましょう。武装を解除し、矢銭を支払うと。ただし、矢銭の量が増えるかもしれない覚悟はしておいて下さい」
宗久は自ら交渉することにした。
「そんなんでは意味がないではないか。何のために抗うことにしたのだ」
「ここまで悪化させたのは誰だ!貴方達ではないですか!私は矢銭を支払い穏便に済ませようと言ったではないですか!!」
宗久も我慢の限界だった。
「わかった。もう、今井さんに頼むとしましょう。皆さんもいいですね」
と会合衆の総意で決まった。
数日後、今井宗久は織田信長と、面会し交渉して、矢銭二万貫と武装解除で話がまとまった。もちろん自治権も奪われることになってしまった。
会合衆で結果を報告すると不服なのが文句を言うが数日後、最後まで矢銭を断っていた尼崎の町が完全に燃やされたと聞いて誰も文句を言わなくなった。
「あのままだったら私達も尼崎と同じ目に遭ってたかも知れないのか...義久殿の予想通り交渉には応じず燃やし尽くしたのか。私達は織田信長を見誤っていたのだな...義久殿に感謝しなければ」
宗久は義久の警告を聞いて良かったと心から思うのであった。
本圀寺の変と堺の結末の報告を受けていた。
「やはり、三好は完全に敗北したな。しかし、美濃から二日で来るとは恐ろしいな。」
信長の行動力に驚いていた。
「しかし、堺は燃やされずに済んでよかった。せっかく清酒を高く売れる所を確保していたから失いたくはなかったしな」
と安堵した。
(さて、今からが動乱の幕開けだな。早く城の改築を急ぎ織田に備えなければ..)
備前の岡山城、備中高松城、因幡の鳥取城、美作の高田城の改築と軍備の増強を急いだ。