尼子義久 Wikipedia風 後世の評価 ゲームでの扱い
要望が多かったので急遽作りました。
少々雑かもしれませんが許してください
また、この人物を書いて欲しいと言う要望があれば超簡単にですが書いていくつもりですのでよろしくお願いします
(徳川親子(家康、信康)については簡単に書いてみたので後日投稿する予定です)
尼子義久(1540~1624)
戦国大名、征夷大将軍、太政大臣(死後)
尼子晴久の次男として産まれる。
頭角を表したのは弘治三年の浦上との戦の後だとされている。
当時日ノ本に知らない者はいないと言われる雑賀衆や伊賀、甲賀の忍を召し抱えたり、村の次男、三男や浪人も多く召し抱えた。(後に、尼子家鉄砲頭、大筒衆頭を任せられる遠藤兄弟も居たとされる)
同じ頃、色々な物を発明もしている。
永禄二年(1559年)に将軍、義輝に謁見しており助言をしたと残されている。
また、この頃堺で鉄砲を購入している。この時偶然居合わせた信長に会い話をしていると信長公記に記されている。
同年、降露坂の戦いにおいて、雑賀衆等鉄砲で待ち伏せし、大打撃を与え、毛利元就の次男、吉川元春と口羽通良を捕える(交渉によって二人は毛利家に返される。しかしこの処置が後に災いする)
永禄三年(1561年)に尼子晴久が行っていた中央集権化に加わり、七老中と言う組織を造り出す。
同年、尼子晴久が急死し家督を継ぐ。
永禄四年(1562年)
二度目の上洛を果たし、将軍義輝に謁見する。ここで、幕府に対して手切れを言い付け、三好長慶に近付く(松永久秀の方が近付いたとも言われている)
美作の三村家に侵攻、毛利が和議を破って石見山吹城を攻めてくる。また、各地で反乱が起こる。
永禄五年(1563年)
毛利本拠地安芸に侵攻、勝利し続けたが、石見から戻った吉川元春に惨敗、命からがら逃げ延びる。
同じ頃、石見では本城常光が毛利軍を打ち破り大勝利していた。(毛利元就は月山富田城の戦い、降露坂の戦いに次ぐ命懸けの撤退を行っている)
義久は大敗と元春への恐怖から独断で朝廷を使い和議を結ぶ。(これが後に大きな反乱が起きる原因となる)
毛利と婚姻同盟が結ばれる。(和議の条件)
全体的に勝ち戦で毛利家を追い詰めていた為、家臣から猛反発を受ける。
永禄九年(1566年)、嫡男又四郎(後の方久)が産まれる。
この頃、貿易で南蛮船を購入し、船の構造を調べさせた後、直接貿易を行っている。
永禄十一年(1568年)には三村に勝利し、配下にしている。また、宇喜多直家に支援をして備前の浦上を討とうとしたが失敗している。
弦亀二年(1571年)に三度目の上洛をしており、この時は六万もの大軍勢だと言われている。この頃京を手中に納めていた織田家と不戦を結んでいる。
またこの頃、本願寺顕如と近衛前久に近付いている。
また帝に拝謁し、南蛮人と大友などの一部の大名が奴隷貿易をしていることを報告したと記録が残っている。
弦亀三年(1572年)に越後上杉家と同盟を結ぶ。また、上杉謙信自身が出雲に来たことが記されている。
同盟と共に、上杉の越中攻めの援軍として二万もの軍が送られている(記録によれば伊勢国司だった北畠具教が参加していたと書かれていた)。
同年、尼子家を支えてきた、重臣牛尾幸清、佐世清宗、赤穴盛清と一族の尼子勝久が反旗を翻す。
また、この反乱軍に織田家は支援し柴田勝家を大将に援軍を送っている。
この反乱は毛利と同盟を結んだことが一番の原因と言われている。
反乱は鎮圧されたが、織田家とは手切れ、尼子領内は反乱の影響で大きな被害がもたらされたと記されている。
天正元年(1573年)備前、播磨に侵攻
制圧後は丹後に侵攻させる。
また、播磨制圧軍の多古重盛は丹波救援に向かう。
天正二年(1574年)
織田信長がほぼ全軍を率いて丹波に来た為、尼子家と織田家の一大決戦となる。
この戦は歴史上類を見ない程の激戦となり六万を越える死者を出したと記録されている。
織田家とは朝廷の仲裁で停戦となる。また捕虜になっていた信長と正室帰蝶が人質だったと残されている。
京に入った後、本願寺顕如と松永久秀と合流し、松永久秀を家臣とした。
また、ルイスフロイスとロレンス了齋と会っており、布教を認めている。
天正四年(1576年)
錦の御旗を帝から賜り、朝敵となった大友家の征伐に向かう。
この征伐により、九州の勢力図は一気に代わり、大友に臣従している相良、阿蘇、表向きには臣従していた龍造寺等が一気に鞍替えをした。(後に龍造寺は尼子に攻めかかった為、攻められている)
記録によれば大友家は一族全員が処刑され同調していた当時の将軍足利義昭も切腹している(詳しくは大友征伐を参照)
天正五年(1577年)には人質だった織田信長が解放され、代わりに九条兼孝が出雲に来ている。
九条兼孝の日記(九条日記)によれば、尼子の対応は人質ではなく客人対応で見たことのない料理を味わい、贅沢をさせてもらったとある。
天正六年(1578年)に島津義久の娘が嫡男方久に嫁ぐ。また、尼子、毛利、島津の三国同盟がなる。(詳しくは西の三国同盟を、参照)
天正七年(1579年)
京にて武芸大会を開いている。(詳しくは武芸大会を参照)
徳川と婚姻同盟を結ぶ。(義久に側室として真喜の方が入る)
上杉家の家督争いに介入する。(詳しくは御館の乱を参照)
天正十一年(1582年)
正親町天皇が譲位。
また、即位した陽光天皇の勅により織田と同盟する。
また、武田に内通した荒木村重の反乱を未然に防ぐ。
平希三年(1584年)
四国攻めに大将として参加。長宗我部を下す。また、毛利との約定により四国を分ける。(詳しくは四国征伐を参照)
また、織田信長暗殺を実行したとされる。(詳しくは尼子禁書を参照)
平希四年(1585年)
武田の侵攻を受け織田家当主、三法師(後の信秀)が尼子家に臣従し武田との戦になる。
義久自身は出陣せず、嫡男方久、重臣北畠具教等が出陣し勝利している。
(詳しくは甲州征伐を参照)
この戦で織田、武田両家は尼子家の傘下となる。(一部の織田家臣は織田から独立する)
平希五年(1586年)
上杉家が能登を譲渡し従属する。
また、嫡男方久が同盟国の伊達に向かい、義久が激怒しその尻拭いをさせられたと言う書状が上杉家に残っている。
平希六年(1587年)
征夷大将軍に任じられ将軍となる。
また、同盟国毛利家と島津家が従属し幕府の重役となる(両家は代々当主が幕府の重役(七老中)となる)。
平希七年(1588年)
津軽為信と密約を交わしたとされる。
また、佐竹から使者が来て、援軍を送っている。
平希八年(1589年)
東北仕置きを終える。(詳しくは東北仕置きを参照)
北条征伐を行い、全国の大名全てを小田原城に集まらせている。
関東最大の小田原城に居た者は全て撫で斬りにされている。(詳しくは小田原征伐を参照)
平希九年(1591年)
武家諸法度を定める。
平希十二年(1593年)
尼子学校が始まる。(武家の為の寺小屋)
尼子検地、刀狩りが行われる。(詳しくは尼子検地、刀狩りを、参照)
また、正親町上皇が崩御した後、深く悲しみ、船岡山に皇霊殿を建築している。(現在は宮内庁が管理している)
また詳しい時期は分からないが文録年間に高山国、呂宋を制圧している。
呂宋 助左衛門の書状が残っており、それによれば文録八年(1600年)に呂宋に幕府軍が上陸し支援したことが書かれている。
また、島津義弘が息子久保に送った書状には文録十一年(1603年)に南蛮人の船団を撃破し、甥の島津豊久が大将首を上げ島津の名を世界に広めたと言う内容の書状が残されている。(スペインに島津のことが書かれた手紙が残されている)
また、文録十三年(1605年)にはスペイン、ポルトガル等複数の国と終戦の調停を結んでいる為、歴史学者の間では文録七年(1599年)~文録十三年(1605年)の長い期間戦っていたのではと推察されている。
また、調印後に征夷大将軍を方久に譲り隠居している。(官位も返上したと残されている)
それからの行動についてはあまり記録に残されていない。
しかし、確実にあったとされることは以下の通りである。
文録十五年(1607年)頃、武芸大会に出場..。北畠久具に敗北(鉢屋久経の残した尼子記に記載)
同年、島津義久と試し合戦で勝利(島津久保と尼子元久の試し合戦から逆算)
文録十八年(1610年)頃、日本行脚。(お忍びで)
※記録に残っている所で、奥州、常陸、武蔵、越後、甲斐、三河等で行動記録を確認。
文録二十年(1613年)頃出雲、月山富田城で過ごしている記録が残っている。
寛永元年(1624年)7月に死去。(85歳)
死後に正一位、大政大臣を与えられている。
また、正室だった秋芳院(秋)は二年後に死去している。
後世の評価
現代において専門家の評価は割れている。
名君、家臣に見捨てられなかった当主、二重人格者、影武者説などある。
名君と言う評価は義久の生涯から判断されている。
家臣に見捨てられなかった当主と言うのは、義久は独断で判断することもあり、尼子勝久の乱は、多くの普代家臣や重臣も荷担していた事から、義久は平凡で周りの家臣の支えがあったから天下を統一出来たのではないかと言う評価である。
二重人格者、影武者説と言うのは、尼子家重臣だった鉢屋久経の残した尼子記において、浦上との戦で落馬した後、人が変わったかの如く、聡明で行動するようになったとある。また、謀略を巡らす際、別人の如く雰囲気が代わり口調も厳しくなったと記されていた。
ただし、影武者説は否定されている。
多くの人材を集め、情報を大事にした。
義久が天下統一できたのは多くの人材を登用したからであると言われている。
義久は鉢屋衆と言う忍び集団が居るにも関わらず、伊賀、甲賀の忍を召し抱えている。(後に大名となる、百地、藤林、望月である)
これにより、日ノ本全域の情報を得ていた。
また、遠藤兄弟など、当時無名の浪人だった者から大名だった北畠具教、今川氏真等も召し抱えている。
他にも松永久秀や織田に滅ぼされた朝倉家臣山崎吉家、真柄隆基等もいる。
後に尼子四天王、尼子十人衆と呼ばれる者達もこの人材登用で家臣になった者達が含まれる(尼子四天王、尼子十人衆を参照)
将軍暗殺、織田信長暗殺に関与?
以前から将軍義輝暗殺や織田信長暗殺の疑惑は出ていたが、関与を示すものが出てこなかった為、無関係と思われていた。(将軍暗殺は永禄の変を参照)(織田信長暗殺は織田信長を参照)
しかし、発見された義久の遺書である尼子禁書、松永久秀へ送った手紙が見つかり、歴史学者を驚かせた。(尼子禁書の詳細は下へ)
松永久秀へ送った手紙によれば、将軍を始末すれば天下が動き、天下泰平になるとあった。この書状により足利義輝を殺した真の黒幕は義久であるとされ、義久が、足利幕府を滅ぼした張本人とされた。
技術開発国日本の祖
義久は当主になる前から色んな物を開発している。
方久の作った技術開発局の、元になる尼子鍛冶衆を作っており、ここでは多くの技術が見つかり開発され現代でも尼子重工業として続いている。
この、鍛冶衆の作り上げた技術の最高傑作が蒸気船出雲と大筒衆の加農砲だと言われている。
特に蒸気船は義久肝煎りではと言われ、高山国、呂宋を巡る外国との戦いで圧倒的な強さを見せたと言われている。
尼子禁書
尼子禁書とは尼子義久の遺書で二代将軍、尼子方久によって禁書とされ歴代の将軍のみが見ることの出来た物である。
尼子幕府の中で、何代にも渡って受け継がれたとされ、最後の将軍尼子秋久に受け継がれた後、行方不明だったが、尼子一族と関係の深い出雲大社の宝物殿で発見された。
書かれてから四百年近く経っていると言うのに、保存状態が物凄く良く、代々守られてきたことがよく分かった。
尼子禁書の内容は大きく分けて三部で構成されており、第二部三部は歴史学者を大きく驚愕させるものだった。
第一部は尼子義久の生涯。
第二部は今後起こるであろうことと、その対応策。(地震、噴火、飢饉、戦争等)
第三部は大政奉還する場合の対応とその後の動きについてだ。
特に二部について書かれたことは実際に起こっており、一種の予言の書に近かった。尼子禁書と歴代将軍が行ってきた政策を照らし合わせると、ほとんど一致している。歴代将軍がこれを読んでいたのは間違いなかった。
また、長らく疑惑があった織田信長暗殺について、第一部に自身が計画し、雑賀孫一が実行したことが詳しく書いてあった。
しかし、意外にも人質の信長と帰蝶と舟遊びをしたとも書いてあったので、なぜ信長との仲が悪くなり暗殺するまでになったのか研究が進められるようになった。
この発見により義久についての研究が大きく進むと共に、未来を見通していたことについて、何者だと言う疑問が新たに出るのであった。
現在は貴重な資料として国の重要文化財として出雲大社に保管されている。
また、甲陽軍艦(武田歴史)、尼子記(尼子歴史)、信長公記(織田歴史)と共に戦国四大記として戦国時代の貴重な資料とされる。
尼子四天王
尼子義久を支えた家臣で絶対に外すことが出来ない四人である。(前期と後期と存在する)
前期
中井久包
亀井秀綱
宇山久兼
本城常光
後期
立原久綱
北畠具教
本城隆光
松永久秀(一説に鉢屋久経が上げられる)
尼子十人衆
尼子義久家臣で特に功績が残されている十人(四天王を除く)
小笠原長旌(尼子家内政の大黒柱)
多胡重盛(元七老中)
鉢屋弥之三郎(元鉢屋衆頭領)
遠藤俊通(尼子鉄砲頭)
遠藤秀清(大筒衆頭)
山崎吉家(京都所司代)
杉谷善十坊(狙撃衆頭)
宇山久信(七老中)
藤林正保(伊賀三上忍)
中井久家(七老中)
※中井久家の代わりに鉢屋久経の名前が上げられる。
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ついでなので書いてみました
ゲームでの尼子義久
信長の○望大志pk
統率80武勇70知略76内政60外政30
志
尼子の天下
特性
適材適所
士官五年以上の忠誠心の高い家臣の能力が二倍
忠誠心が低い家臣の能力が半減する
鬼兵隊
大名が出陣した合戦時攻撃力30%アップ
敵より味方の数が少ない場合攻撃力50%アップ
足軽の死亡率が上がる
農兵の死亡率が大幅に上がる
大名が出陣した合戦に敗北した際、家臣の忠誠心が下がる
大命
暗殺(武将を暗殺(大名の場合強制的に当主変更))※使用条件として松永久秀が家臣にいること
朝廷利用(強制的に和議、同盟を命じる)
尼子式組手(足軽、農兵LV+3)
黒鍬招集
忍暗躍
大宴会
花押入り感状
能力は織田信長に劣っているが、恐ろしいのは大名のスキルだ。
ゲームにおいて1560年(桶狭間の戦い )マップの尼子家は別に大したことないが、1570年(天下動乱)マップの時には西国最大勢力となっており、毛利、本願寺と同盟を結んでいるため普通でも難易度は高い。(高難度でもクリア出来る)
1574年(尼子、織田決戦)マップでは既に手がつけられなくなっている。
また、このマップ以降の高難度を選んだ場合、容赦なく暗殺や朝廷利用を使ってくるため、「ゲーム環境が壊れてる!」や「松永さえ殺せば!」と、世に言う松永狩りが横行した。(1574年6月までは松永久秀は大和で独立勢力としているため)
信長の○望シリーズの実況で有名なYouTuberが1574年マップから始めて尼子家を倒すまで!と題して高難度をプレイしていたが、高難度の尼子家の鬼畜を紹介する動画になり話題を呼んだ。
発売から四年後、一人のプレイヤーが遂に尼子家を滅亡させその動画を投稿し有名になった。販売元からは賞状が与えられた。ちなみにこの時使われたのは武田家だった。
戦国○双
戦国○双3で始めて登場。この時、鉢屋久経、北畠具教も登場している。
やる気の無さそうな見た目となっており、普段は戦なんてしたくないとこぼしている。
しかし実際は二重人格と言う設定になっており、人格が変わると冷酷にして苛烈。戦闘中人格が変えることができ人格によって行動が変わる。
武器は刀と鉄扇となっており、やる気のない人格の場合は鉄扇が主になりカウンターからの一撃が主体になるが人格が変わり苛烈になると刀が主体になり、攻撃範囲も広くなる。
その為プレイヤーから扱いづらいと酷評。
しかし、慣れたら使い分けが出来かなり強いと言われている。
ムービーでは松永久秀といる場合は冷酷な性格で対応して毛利元就の場合はやる気のない性格で対応している。
その為、実は使い分けてるのでは?とプレイヤーに言われている。(今川義元も実は...と言われている)
余談だが、元就よりも久秀の方が気が合っており、二人きりになるとよく悪巧みを話し合う。(ムービーで信長暗殺を企てるシーンがあり、最後に二人で笑っている映像が不気味すぎる、実際にこんな感じでやってそうなどと言われている)
FG○
スマートフォンアプリFG○ではぐだぐだイベントでのみ登場。
ノッブこと信長には「気が合うことは多いが、気に食わん奴!!あれ(義久)と久秀が揃ったらロクでもない!!」
と言い、イベントのフラグとなる。
また、景虎からは「鍛練の相手を見つけてくれるし、いい酒を沢山くれる」と義久に買収されていた。
ぐだぐだイベントでは松永久秀と共にラスボスだった魔神柱と合体した浅井長政に従い、マスターを苦しめたが最後は裏切り、ノッブとマスターを支援して退場している。
また、クラスは判明しておりアベンジャーとなっている。(久秀は不明)