北条征伐後
北条氏政が縄に繋がれ連れてこられたが何とも図々しい奴だった。
命乞いをしながら尼子のことを罵ったり、信勝や、氏真に裏切り者など罵声を浴びせたりしていたので全員の前で切り落としてしまった。
氏政の首はそのまま晒し首にし、体は野犬と鴉のエサにした。
次に、最後は見事に散ったと言うと当主北条氏房は、当主としては国を滅ぼした時世が読めないうつけだが、武士としての最後は見事と話を聞いた誰もが口をこぼし、俺自身も見事だと思ったので辱しめることなく、丁重に葬るよう氏直と江雪斎に命じた。
全ての片付けをするのに十数日かかり、全ての大名に帰還を許し、新年に論功行賞を行うことを告げた。また、国替えがある可能性も伝えておいた。
北条の領地である相模、伊豆、武蔵等は秀久と降伏した北条一族、それと氏真等に管理させた。
平季九年(1591年)1月
全ての大名が大阪城に集まった。
この大阪城、史実と同じ設計にしていたら三年後には完成していただろう。
秀吉の手腕には驚かされた。総責任者の藤堂が秀吉に任せてほしいと言ってきたくらいだ。
なので、総責任者を秀吉に変えたら今までの数倍早く出来上がって来たのだ。
さて、今回の論功行賞は方久から発表させた。次期征夷大将軍と認識させるためだ。
「それでは、今回の論功行賞を発表する。まず、戦功第一位、武田家!当主、武田信勝、前へ!」
「ははぁ!」
方久に呼ばれ信勝が前に出てきた。
「武田家は小田原城本丸に一番乗りし、先代当主北条氏政を捕らえた功績は大きい。甲斐三万石から甲斐一国、それと信濃諏訪郡、佐久郡を与えることとする!」
「は、ははぁ~。ありがたき、幸せにございます」
方久が報酬を発表すると泣いて喜んでいた。
方久は信勝に祝いを言った後下がらせた。
「次に戦功第二位、徳川家!当主、徳川信康!前へ!」
家康は小田原城の戦い後隠居した...。いや、させられた。本当はまだ、当主に居座り信康に学ばせようとしたが、今回の単身での突撃に感化された三河衆が中心となり家康に対して隠居するよう願い出たのだ。
家康は拒んだが、石川や本多等はなんと、徳川家臣全員の連書状まで出してきたので承諾するしかなかったのだ。
ちなみに側近の鳥居元忠と本多正信は署名はせず、家康と共に隠居することを願い出ていた。しかし二人の息子達はきちんと署名していた。
「元忠!正信!お前達もか!!!」
と二人ともこの事を知っておきながら黙っていたことに家康は大声を上げたが、二人からも信康様は立派な当主になりましたと説得されたのだった。
徳川は遠江は没収だが、三河、尾張三十五万石、信濃伊那郡が与えられた。
不満が出るかと思ったが意外にもすんなり認めた。付いてきていた徳川家臣も不満な感じは出していなかった。
他に加増は長宗我部が土佐、阿波が与えられ、今川氏真は徳川から没収した遠江十万石と伊豆、相模十万石が与えられた。
東北は予定通り分け、伊達は弟が反乱を起こそうとしたが輝宗が鎮圧し、人質としてやって来たので悔しいが現状維持とした。佐竹は常陸安堵だけのつもりだったが本城隆光と鉢屋久経の口添えもあり下総半国が与えられた。
これには鬼義重と言われた佐竹義重も号泣していた。
武蔵、相模十万石は弟の秀久に託した。
上野は秋上久家 、下野、下総半石、上総は山中幸盛や本城隆光など、領地移動させた者達に与えた。
隆光に関しては、佐竹に予定以上の領地を与えたので、その見張りの為に移動させた。
しかし、佐竹義重と言うか佐竹一族は隆光に恩義を感じてか、裏切ることはなく、それどころか隆光の息子(次男)に娘を嫁がせたり隆光の要請だとすぐに手を貸したりと謀反を起こす様なことはなかった。
平季九年(1591年)8月
幕府として新しく武家書法度を定めた。
基本は氏真の祖父氏親と父義元が作った今川仮名目録とうろ覚えな家康の作った武家書法度を合わせた内容だ。
他にも各大名の子供についても法を定めた。
1、各大名の次期当主となる者は基本嫡男とする。他の者がなる場合、幕府に届け出をし、配下全員がその当主に従う連書状も合わせて提出することとする。
2,各大名の嫡男、及び次男は六歳~十五歳までは京にある幕府の学舎に通うことを義務とする。(傅役は十一歳までは同行を認める)また、十二歳からは全寮制とし、身の回りを世話をする者三名のみ同行を許可する。
とした。
1は毛利元就が家督を相続した時に行ったのを真似てみた。
2は人質としてと、他の大名の子らと切磋琢磨してほしいと思い無理矢理法度に組み込んだ。
幕府の定めた法度は全国の大名に送られた。発令は再来年からとした。
他にも大名に年二回の上洛の義務化なども命じた。金を使わせて力を削ぐためだ。
平季十二年(1593年)1月
法度を定めてから二年、今年は大名とその嫡男、次男も集まっている。
今年から大名の子供を学舎で教育するためだ。まぁ、人質でもある。勿論、人質は別で取っている。
十一歳までは京にある大名屋敷から通うが十二歳以上は問答無用で寮に入って貰った。
勿論、全員が同じ作りの部屋だ。これは尼子一門も同じだ。本当は二人一組にしようかと思ったがこの時代では無理だと判断し一人一部屋とした。
食事、風呂は共同で食事内容も全員同じと徹底してある。
それらは全て各地の大名に命じて年一回税として納めさせている財源で賄っている。
授業内容については幕府で決め、七老中の毛利や島津からも了承されている。
ちなみに今回指導する教員として、読み書き算盤は下間頼廉や座主を息子教如に譲り渡した本願寺顕如など教養人達が教え、朝廷への礼儀作法、和歌などは隠居している細川幽斎や公家から指導しに来ている。勿論公家は前久や兼孝が認めた人物だ。
教える変わりにそれなりの、給金を与えている。しかし不正をした場合の対価はかなり高くなっている。
武芸百般は、剣術は隠居した北畠具教や柳生宗厳等の剣術家、槍術は宝蔵院胤栄等槍で名を馳せた者に頼んだ。
弓や鉄砲も同じ様に名の知られた者が教えた。
将来的には教員試験をして合格した者に任せようと思っている。
ああ、民百姓にも読み書き算盤は教えている。最低限その三つが出来ていれば騙されたり口減らしで捨てられても生きては行けるだろう。しかし、1日一刻半(三時間)で夜間に行っているので思うようには出来ていない。
農民の子は日中仕事をしているので日中に寺小屋をやられると生活が出来ないと、いくつもの場所で言われたので、夜間学校のようにした。将来的には改善したい。
後、口減らしの子供は幕府が金を出して孤児院を作っているのでそこで暮らしている。勿論、職の斡旋などもして一人立ちさせている。
少しづつだが、落ち着いてきている。隠居する条件だったあれについても情報や影での根回しを着々と進めている。
日本が完全に落ち着いたら発表するつもりだ。
その為にも後二つ、秀吉のやった政策の太閤検地と刀狩りを行わなければならない。時間はまだあるのでゆっくり確実に行おう...。
平季十二年(1593年)六月
正親町上皇が崩御された。二月頃から体調を崩されており、最後に一度呼ばれた。最後にお会いした時とは比べものにならない程衰弱されていた。
孫である後陽成天皇を頼むと言うこと、生きている間に乱世の終わりと民達の喜びを見れたことがどれだけ嬉しかったか話して下さった。
上皇様の遺言に則り、大喪の礼(天皇の葬儀)と陵墓は簡素な物にした。しかし、正親町上皇様の功績は語り尽くせぬので、前久や兼孝等と話し合い、皇霊殿を造ることにした。
皇霊殿とは歴代の天皇や皇族を祀る為の物だが、今回は正親町上皇様の為に造ることにした。場所に関しては船岡山にすることでまとまった。また、その周辺は神域とされ、許可証を持った者しか入れず、管理が厳重にされるのだった。
後陽成天皇からの承諾を得たので最優先として高名な宮大工等を集め一年で作り上げるのだった。
また、元号は変わり文録となるのだった。
それから日本は安寧の時を過ごした。
文録十三年(1605年)
義久は隠居の条件だった、高山国(台湾)と呂宋 (フィリピン)を領地とし外国との戦後交渉を終え、完全に征夷大将軍の職を方久に譲り隠居を宣言した。




