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007 アルバイト(前編)

 

「ありがとうございましたー!」


 店を出るお客さんに対してお辞儀をして見送る。最後の客が店を出て姿が見えなくなると途端にどっと疲労感が押し寄せて来た。


「だぁー、疲れたー!」

「お疲れ様」

「あっ、雪さん」

「はいこれ。コーヒーは飲めるかな?」

「えっ?はい、好きな方です。ありがとうございます」


 20時の閉店時間、他のバイトの子は閉店作業に取り掛かっていたのだが、今日初めてアルバイトでありかつ短期の手伝いで来ている潤はここで上がりだった。

 疲れた様子を見せている俺にコーヒーを差し出しながら声を掛けて来たのは今日一日近くで俺を指導していた凜のお姉さんの雪さんだ。


「それにしても呑み込みの良い子ね」

「そうですか?迷惑を掛けないように無我夢中でやっていたんですけど、あんなもんで良かったですか?」

「ええ、初日にしては及第点以上の働きぶりだったわ」

「なら良かったです。そういえば凛と真吾は?」


 雪に今日の働きを評価されつつ凛と真吾の姿が見えないことについて尋ねると、凜と真吾は裏方で閉店作業に取り組んでいるとのことだった。真吾も人手が足りない時はこうして手伝っているそうなのだが、付き合って数か月で凜の家にそれだけ深く関わっているんだなと少しばかり感心していた。


 潤は今日一日、注文を受けて商品の受け渡しや食器を下げて清掃をするなどといったそれほど食品には直接関与することのない業務を行っていたのだが、それでも客の数の多さで動き続けていた。


「それにしても凄いお客さんの数ですね」

「まぁケーキ屋からすればこの時期は仕方ないわね。忙しいことは有難いことだし」

「そうですね、おかげでほとんど売れ残りないですしね。あるのは日持ちするクッキーとかだけですし―――あっ!!」


 客の多さについて話しながら商品が入っていたガラスケースの中に目をやると、売れ残りという売れ残りは見当たらなかった。見事なまでに完売してしまっていた。

 無駄を出さないためにある程度終わりが見えた頃を見計らってケーキを出す量を抑えるらしいのだが、それでももっと作っても売れていたのではないのかと思う。だがそれを俺が口にしたところで店の方針があるのだろうし、素人の意見でしかない。


 しかし、思っていた以上の忙しさの余り忘れていたことを今思い出した。


「どうしたの?急に大きな声を出して」

「いやぁ、杏奈に――、あっ、妹なんですが、ここにバイトに来ることを家を出る前に言ったら帰りにケーキを買って来て欲しいって言われたのすっかり忘れてまして…………」


 頬をぽりぽりと掻きながらどうしようかと思うのだが、質問されたので何も言わないよりはと思ってとりあえず雪に杏奈の希望があったことを説明した。


「まぁ仕方ないですね、明日また来るんで取り置きできるように覚えておきます」

「ちょっと、妹さん楽しみに待ってるんでしょう?」

「まぁ……一応、はい。 ここのケーキが凄く美味しいって言って目を輝かせてましたね」

「嬉しい話だけど、それならきっと帰った時に何もないと知ったらがっかりするわよ!」


 忘れていた自分が悪いのだから杏奈には今日は諦めてもらい、明日また買って帰ろうと思うのだが、雪は杏奈のことを思いやってか「ちょっと待ってて」と言って厨房の方に入って行った。


 少しすると、パティシエを務めているこの店のオーナーでもある凜と雪の父親が雪と一緒に来た。

 背は潤より少し高いぐらいで、髭面の強面のその顔からあんな繊細なケーキが生まれていると思えばそのギャップに戸惑いを覚えるのだが……。


「お父さんが良いって言ってくれたからその妹さん、杏奈ちゃんだっけ?のケーキ私が作るわ」

「えっ、雪さんがですか?」

「おう、坊主、今日は助かった、まぁ急に来てもらったお詫びとお礼も兼ねてな。俺はまだやることがあるから雪が作るが、俺には及ばないまでも良いもん作るのは俺が保証する」

「これでも小さい頃からお父さんを見て一杯練習したんだからね」


 雪は父に材料を使用してもいいかどうかの許可をもらいに行っていたとのことで、杏奈の分というか、潤が持ち帰る用のケーキは雪さんが作ってくれるとのことだった。

 その表情は営業中の真面目で少しばかり恐れを抱く表情とは一転して無邪気な笑顔でどこか子供っぽさが垣間見えたのは小さい頃から慣れ親しんだケーキを作る作業に取り掛かるからだろうかと思えた。


 しばらく待っているように言われたので着替えて店の椅子に腰掛けていると、真吾と凜が来た。


「おお、なんかケーキ買い損ねたから今雪さんが作ってるんだってな」

「潤、ごめんね急に手伝ってもらってー。助かったわ」

「ああ、もう色々お礼を言われたからもういいって。それにバイト代だけじゃなくケーキまで作ってもらってるんだからもう気にすんな」

「そう?じゃあいいけど」


 真吾と凜と一緒になって雪がケーキを作り終えるのを待つのだが、その間に話したことは店のことがほとんどだった。心の中では凜に浜崎花音のその後の話が聞けたらと思うのだが上手く言葉に出来ずに、あわよくば凜から言ってくれないかと期待をしたのだが、凜は潤の心情を知らないのでそんな言葉が出る筈がなかった。


 そうして十数分待つと、雪がケーキの入っている箱を持って来た。


「ごめんね、お待たせ」

「いえ、こちらこそ無理を言ってすいません、ありがとうございます」

「いいのよ、久しぶりに他人に作ったから楽しかったしね。杏奈ちゃんと合わせてまた感想を聞かせて」

「はい、わかりました」

「あっ、もちろんお世辞なんていらないわよ?忌憚のない意見を聞かせてくれた方が私は嬉しいんだからね」

「そうですか、わかりました」


 雪からケーキを受け取りながらお礼を言うと、雪はまだ本格的にパティシエとして他人に提供をしているわけではないので、こうして作る機会がそれほど多くはないのだと言った。そしてそのケーキの感想を素直に教えて欲しいと少しばかり意地悪く笑いながら言うのだが、その顔がひどく可愛らしく見えた。


「(大人の女性の余裕なんかな?)」



 そんなことを思いながら帰路に着く。明日もまたバイトに行くことになっているので真吾と凜とは店でそのまま別れて、雪からもらったケーキは自転車の籠に入れてあるので崩れないように急ぎ過ぎず帰宅した。


 家に帰ると玄関まで杏奈が迎えに来て、待ちきれない様子を見せていた。


「あのさ、先に謝らないといけないことがあるんだ」

「えっ、何?もしかしてケーキ買えなかった?けど、手に持ってるのはケーキの箱じゃないの?」

「いや、ケーキは持って帰って来れたんだが、中身の方がな……」

「?」


 杏奈に事情を説明しようとするのだが、話をする前の杏奈は首を傾げて不思議そうにしている。ケーキがあるのに中身がどうしたのだろうかと思うのだが、店の正式なケーキを持ち帰るという要望に応えられなかった申し訳なさが少しだけあったのだが、そんな申し訳なさは数分後にはすぐに払拭された。


 ケーキを頬張りながら舌鼓を打つ杏奈の笑顔を見たので、翌日雪に話す感想はすぐに決まったのだった。



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