054 新学期
「潤にぃ先に行ってるよー!」少し離れたところから聞こえる声。玄関から杏奈の声が聞こえてくる。
「おぉ、また学校でなー」
「行ってきまーす!」
慌ただしく玄関を飛び出して行く杏奈に声だけで見送った。
潤は二階の自分の部屋でのんびりと久しぶりに着る制服に袖を通す。夏休みも終わり、今日から学校が再開される。
電車通学の杏奈に対して自転車通学の潤はまだ時間に余裕があるのでゆっくりとしていたのは一学期と変わらない。
「いってきまーす」
「気をつけるのよ」
「わかってるよ」
いつも通りの母親とのやりとりをして杏奈に遅れること十数分、潤も自転車に跨り家を出る。
「あっちぃー」
九月だといっても昨日の今日で暑さが劇的に改善されないのは当然だ。まだ夏の日差しを存分に浴びながら学校に向かう。
数十分自転車を漕ぎ続ける。
学校に近付いているのだが、いつもなら周囲を歩く潤と同じ学生の姿がほとんど見られない。
「やべぇな、のんびりし過ぎて遅刻するかもな。 遅刻して修学旅行の班が勝手に決まるなんて御免だぜ」
遅刻するかもしれない中、それでもぼーっと考え事をしているのは修学旅行がもう一か月後に迫っているからだった。その目的地は日本有数の古都とそこから程遠くない都会。
班編成を気にするのはもちろん花音と一緒になるのかどうかなのだが、幸い二年で同じクラスになれたので修学旅行も一緒に回れる可能性が格段に上がったのは望ましいことだ。
そんな修学旅行の班編成をどうするのかは前以て二学期に決めるというのを担任から聞かされていたのだが具体的にいつ決めるのかまでは聞いていない。班を決める時に遅刻や休みでその可能性を不意にしてしまっては勿体ないでは済まない。
「っと、まずは毎日確実に通うこと!」
直後、学校までそれほど遠くないところまで来て、遅刻しないようにして立ち漕ぎに切り替えるのだが途端に通路の角から人影が飛び出して来た。
「―――あぶねぇ!」
そんなことを考えていたせいで曲がり角から飛び出して来た人物に気が付くのに遅れてしまう。
なんとか飛び出して来た人物を避けることに成功したのだが、急ハンドルを切ったせいでバランスを崩してしまった。
ガッシャン!と音を立てて盛大に転倒してしまう。
「っつーーー、いてててっ」
なんとか受け身を取ったものの、足にいくらか擦り傷を負ってしまうと思うに留まっているのはまだ傷口を確認していないためである。だが感覚的に少なからず少量の出血はしているだろうというのはわかった。
「だ、大丈夫!?」
潤の自転車と接触しそうになった長い黒髪で大きな二つの三つ編みをした女子が先に落とした眼鏡を拾って着けた後に心配そうに声を掛けてくる。
「あ、あぁ大丈夫だよ。いや、危ない目に遭わせて申し訳ない。えっと、君は確か――」
「同じクラスの水前寺響花です、深沢君。 それにこちらこそごめんなさい、急いでいたもので」
「ああ、遅刻しそうだもんな。いいよ、先に行ってて」
「そんなことできるわけがないじゃない!あたしのせいでこけた人を放ってないわよ!」
「お、おぅ」
突然声を荒げられて驚き戸惑ってしまう。
目の前の人物、水前寺響花はおよそそういった大きな声を出すような人物には見えないのだから。それは一学期同じクラスだったことである程度教室でも水前寺響花がどのようにして過ごしているのか、その雰囲気も知っている。
潤の知る水前寺響花というクラスメイトは、長い黒髪を後ろで大きな二つの三つ編みを作って背中に垂らしており、前髪も目に掛かるほどに伸びている。それでも邪魔にならないのはなんとなくだがその大きな黒縁眼鏡があるおかげなのかとは思うのだが、実際のところどうなのかわからない。
そして休み時間はいつも読書に耽って特に誰かと仲良くしている姿を目にしたことがない。クラスに特別仲の良い友人はいないのだろうと勝手に思っていた。
そんな水前寺響花に道端の中、大声で怒られたのだ。驚くなという方が無理である。
目を丸くして言葉を失っていると、きょとんとした潤が何故きょとんとしているのか理由を察したのか水前寺響花はあわあわしだした。
「あ、あの、そ、その、すいません!話したこともない深沢君に対して急に大声だしたりしてしまって……」
「いや、驚いたけど、それは別にいいよ。ただ意外だなって思っただけで。それに、声あんまり聞いたことなかったけど、綺麗な声してるんだな」
「えっ!?」
確かに大声に驚いたのは事実だ。それと同時に驚いたのは声を聞いた記憶がほとんどない目の前の女子の声を初めて近くで聞いたのだが、透き通る様な声で物凄く耳に心地よかった。
素直に思ったまま伝えると水前寺響花は次にきょとんとした。突然脈絡もないことを言われて思考が追い付いていない。
「それよりもさ、とにかく早く学校に行った方がいいよ。本当に遅刻するからさ」
「えっ!?あっ、そうだね、じゃあ深沢君も急ぐわよ!」
「あー、俺は一応保健室に寄ってから教室に行くよ。だから先に――」
「じゃああたしも保健室に一緒に行くわ!」
「へ?」
明らかに二人とも急いでいた理由は同じだ。もちろん遅刻をしないため。
自転車に乗っていた自分がバランスを崩して勝手にこけただけなので水前寺響花には先に向かうように伝える。潤は怪我の具合を確認するのとその処置の為に保健室に向かおうとするのだが、ここで水前寺に対して嘘をついたとしても、そもそも同じクラスなので教室に姿が無ければ後で問いただされるか又は不安にさせてしまうだろうから怪我をしているだろうという内容は伏せてある程度正直に答えた。
しかし、眼鏡の奥から真っ直ぐに潤を見る水前寺響花の目は、潤が何と言おうとも一緒に保健室に付いて行くという意思を感じる。
「はぁ、わかったよ(結局二人とも遅刻じゃないか)」
諦めて付いて来てもらうことにした。
この時点で潤と水前寺響花の遅刻が確定的に決まった。ただでさえこの出来事で遅れていた上に、保健室に寄っていくのだ。それに水前寺響花は徒歩である。徒歩に合わせて自転車を押しながらのんびり歩いて学校に向かうことにした。
こうなると遅れる時点で急ごうが急がまいが結果はそれほど変わらない。




