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037 魅惑

 

 ミーンミンミンミーン


 夜の帳の中で楽団を思わせるような地を這う虫の鳴き声も潜みきり、伴って蝉の鳴き声がじわじわと鳴り響き出している。時間の経過と共に人も虫もより多く活動を始める時間帯。



「あー、良い天気だ。それに夏の朝は意外と涼しいよな。特にこういうところに来ると静かだしなんかこう解放されたような気分になるんだよなー。いっそあいつらも起こして来れば良かったかな?」


 潤は一人早く目が覚めたので民宿の近所を散歩していた。昨日日が暮れてから花音と二人で花火を買いに出かけていたのだが、夜の景色と朝の景色では周囲の印象が大きく変わる。

 海沿いの堤防の防波堤の上をなんとなく歩いているのだが、その少し先には防波堤に座っている潤の知っている人物の横顔があった。

 近付いていくに連れ、朝陽を浴びて艶のある黒髪にほんの少しの陽の光を取り込んで反射し、煌びやかに映る感情を表していないその横顔がとても綺麗に見える。


「…………」

「あれ?潤君じゃない。どうしたの?みんなまだ寝ているでしょ?」


 無言で雪の横顔に魅入ってしまっていたのだが、潤の存在に気付いた雪が不思議そうに声をかける。


「はい、ちょっと早く起きたのでせっかくだから散歩を……」

「どうしたの?ぼっとしているけど?」

「あっ、いえ、雪さんってやっぱりめちゃくちゃ綺麗だなーって」

「えっ?」


 雪の顔が尚も魅力的で心ここにあらずといった様子で口をついて思うがまま言葉にする。その言葉を受けた雪は目を丸くしたあとに薄く微笑んだ。


 最初に見た時の雪の表情は感情がわかりにくかったのだが、そのあとの移り変わる感情の機微もまた綺麗に映し出される。


「あっ、すいません。俺がまだ子供なのか知らないっすけど、見た目だけじゃなく、こう大人の余裕を感じるんですよね」

「ぷっ、嬉しいこと言ってくれるけど、そんなに歳も変わらないわよ?4つでしょ?まぁそりゃあ色々経験している分そういう風に見えるかもね。私もその歳の時そう見える人もいたしね」


 笑いながら答える雪はそんなに変わらないと言いつつも、それでも経験がある様子を窺わせる。


「座ったら?」

「あっ、じゃあ失礼します」


 雪の横に座る。特に何かあるわけではないのだが、促されるままに座り視線は陽が昇っていた水面に光を反射している波に向ける。


「ねぇ、キスしてみる?」

「は?」


 隣に座る潤に対して、唐突に潤に顔を近付ける。艶めかしいその唇に思わず釘付けになってしまう。


「ちょ、ちょっと何言ってんすか!?」

「えー?そんなこと言いながら潤君今私の唇じっと見ていたよね?」

「そ、そりゃあ俺も男ですから、そんなこと言われたら多少は意識しますよ」

「あらあらー?そんなこと言われるとお姉さんも意識しちゃうわよ?」

「うぐっ!あんまり遊ばないでもらえませんか?」


 絶対におちょくられているのだと思うのだが、まだ一向に調子を崩さない。波風に揺られる髪をかき上げるその仕草も色っぽく、夏の薄着がまたその色気を存分に引き上げた。


 雪は座った体勢から防波堤に手をつけて上半身だけ潤に近付ける。潤にその気があればすぐにキスできる距離に来ていた。


「大丈夫、誰も見ていないわよ」

「いや、見ているとか見ていないとかそんなことじゃなくて、キスなんて好きな人とするもんじゃ……」


 前傾姿勢になるのでTシャツの隙間から胸の谷間が見える。昨日雪の水着姿を見ているはずなのだが、水着姿の時とは違い妙に視線を向けることに罪悪感を覚えた。


「ふふっ、好きな人とのキスか……。普通はそうよね、そうできることが一番望ましいもの」

「……あの?」

「んー?」

「なんかあったんすか?」


 潤の言葉を聞いて呟くように漏れた言葉は間違いなく自分に向けられていた言葉じゃなく、どこか雪自身に向けられた言葉ではないかと感じた。

 雪に問い掛けるとその返事はどこか遠くを見ているように見える。


「別に今は何もないわ」

「今はってことは、昔に何かあったってことっすか?」


 雪の言葉のニュアンスから引っ掛かりを覚えたので探る様に問い掛けた。


「聞きたい?」

「聞いて何かできるわけじゃないですけど、もし何か出来ることがあるなら」

「潤君にできることならあるわよ」

「普段お世話になっているんで、こんな時ぐらい雪さんのために力を貸しますよ」


 本心であることには間違いない。雪には今回車を出してもらっただけでなく、バイトでも色々教わっている。力になれることならなんでもしようと思った。


「聞いたあと慰めてもらうためにキスを要求するけど、それでも良い?」

「話が最初に戻ってるじゃないですか!?あほなんですかい!?」

「ふふっ、良いツッコミね。うそうそ。つい君達を見ていると思い出しただけで大したことじゃないわ。もう過ぎたことよ」


 再度キスをねだる雪の様子は先程とは打って変わって意地悪そうな笑みを浮かべており、潤の反応を楽しんでいる様子を見せて話す。

 最後にこれ以上の介入をしないように線引きされたように感じる。



「そろそろ朝食の時間よ、戻りましょうか」

「はい(……誤魔化されたかな?ちょっと気になるけど本人がもういいって言ってるならそれでいいのかな)」


 立ち上がり、民宿の方に向かい歩き始めている雪の背中を見送りながらそんなことを考える。

 追いかけるように雪の横に並び民宿に向かうのだが、そこでの様子は普段の雪となんら変わらなかった。


「あっ、そういえば杏奈ちゃんから前に持って帰ってもらったケーキのお礼を言われたわ」

「そういえばそんなこともありましたね」

「それで今度料理というかお菓子作りを教えることになったのよ」

「えっ?そうなんですか?」

「ええ、ちょっと勢いに押されてね」


 今回の旅行で初めて顔を合わせた杏奈は以前潤が持ち帰ったケーキが雪の作った物だと知って改めてお礼を言うと同時にそのままお菓子作りを教えてもらうことに持ち込んだらしい。


「ったく、あいつめ。すいません、妹が迷惑をかけたみたいで」

「いいのよ、意欲がある子には教えてあげたいしね。作る相手も決まってるみたいだし」


 光汰のために作ろうとする杏奈を思い浮かべるのだが、雪も気付いている様子を匂わせた。

「(しかし、料理か。花音は料理ができるのかな?)」とまだ呼びなれない呼称にほんの少しだけむず痒さを覚えながらエプロン姿の花音に妄想を膨らませてしまっていた。




 民宿に戻ると光汰も真吾もまだ寝ている。ほんとこいつらはと呆れながらも足をこしょばすなどといたずら混じりに起こした。




 車通りも増え始めるのは海水浴場を訪れる人たちである。


 潤達は車の修理が終わるまで午前中は海水浴に出かけていた。雪のことが少し気になったが、雪は帰りも運転しなければいけないので疲れて眠たくなってはいけないということなので民宿でゆっくりと過ごしていた。


 雪の店の車は朝から修理屋が訪れており車を見ていた。動かなかった理由はバッテリーの経年劣化によるものだったとのこと。バッテリーを取り換えるだけで良かったので実際は泊まる必要もなかったとのことは雪の談だった。


「(まぁ色々と思い出も出来たし、俺としては良かったかな)」


 夜の散歩デートとは潤自身が思っていることなのだが、車の故障がなければその時に起きた花音とのあれこれも起こらなかった。

 まだ記憶に新しい花音を抱き寄せた感触が生々しく思い出せる。恥ずかしい話なのでさすがに光汰と真吾に言えるわけがないので胸の内に秘めていた。


「じゃあ帰るわよ」

「「はーい」」


 午後一に車に荷物を積み込み乗り込む。


 そうして予定外の外出から外泊に変わった海水浴は終わりを迎えた。



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