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天照、立ち上がる⑤

 ついに仁科が生徒達に別れを告げるその日がやってきた。


 帰りの会が終わり、生徒達がまばらに席を立ち始めた頃だった。廊下からやたらざわめきが聞こえ、クラスメイトの数名も何事かと次々廊下へと出ていく。

 玲仁と天照も様子を見に行くと、ちょうど2-Cから出てきた仁科多江とすれ違った。すぐさま廊下の奥へと消えていく。

 一方の2−Cの教室からは


「おい、このタイミングでかよ……」

「アタシたちを見捨てるってこと? 最低……!」


 などという声がちらほらと聞こえた。次の瞬間、天照は駆け出した。


「天照!?」


 玲仁の言葉も耳に入らず、天照はただ衝動的に仁科の後を追っていた。職員室まで辿りつくと、その戸の前に生活指導の先生、前田が立っている。


「なんだ、天野か」

「仁科先生に合わせてください」

「ダメだ」

「なぜです?」

「……事情はわかっているのだろう? 今日だけはダメだ。もう下校の時刻だ……さっさと生徒は帰れ」

「……」


 戸のすぐ向こう側で、仁科はそのやりとりを聞いていた。出席簿を握りしめ、肩を震わせながらも、仁科は無言で席へと戻り、そのまま黙々と書類を整理し始めた。


 そしてようやく仁科が職員室を後にしたのは、夜九時を過ぎた頃だった。引継ぎのために残った課題を片付けていたが、無論それだけではない。生徒と顔を合わせることを恐れ、どうしても職員室から出ることができなかったのだ。

 静かに職員室玄関から出て、無人の暗い校門をくぐろうとしたその手前で、彼女は呼び止められた。


「仁科先生」


 それは、天照だった。

 この時間まで生徒が構内にいることは禁じられているから、どこかで身を潜めていたのだろう。


「学校を辞められるのですか?」


 天照の質問は、簡潔で、鋭い。

 仁科はしばらくの沈黙の後、口を開いた。


「……この前、私のことを迎えにきた男性がいたでしょう? 

「溝賀様、でしたか」

「ええ。彼と婚約したの。ちょうど二週間前に」

「それが辞められる理由ですか?」

「半分正解。確かに私は結婚を理由に辞める。でもそれは私にとってのきっかけにすぎない。本当は……私が教師として続けていく道をあきらめただけ。むいていないと思ったから。ただそれだけよ」

「むいていない……なぜそう、言い切れるのですか?」

「ふう……あなたと話しているとまるで私が生徒で、あなたが教師って気分にさせられるわ」

「すみません」

「……私ね、子供の頃からずっと不器用な人間だった。何をやるにも傷だらけで、すんなりうまくいったことがなかった。教員になるのも、ギリギリ試験に合格して、どうにかって感じ。それでもね、私は子供たちに教えるのが好きなんだって信じてたから頑張れてきた」

「では、なぜ……」

「溝賀さんに会って、私は『妻』か『教師』どちらを選ぶかを迫られたの。そのときに私、正直わからなくなっちゃったのよ。自分がなりたいものは、何だったのかって。幸いあなたにはまだこれからゆっくりそれを考え、決める時間があるわ。でも私はそろそろ絞り込まなきゃいけないの」


 そう言って、彼女は再び背を向けた。自分がなりたいものを決めるという価値観が、天照にとっては不思議だった。天照はこの世に降り立った瞬間から、玲仁の従神であり、巫を支えることが使命。それを疑うことなど考えたこともなかったからだ。

 だからこそ彼女の中に宿る霧に包まれたようなもやもやとしたもの――その正体を知りたいという思いが、ずっと天照の心の奥底に居座っていたのだろう。


 しかし彼女が去ってしまってはもう、それを知ることもかなわない。


「仁科君!」


 突然の声に、天照と仁科はどきりとして振り返る。校門の外にいつのまにか溝賀の姿があった。


「……学校には来ないでって言ったじゃない」

「すまない。ただ、あまりにも君の帰りが遅いものだから」

「引継ぎのために処理しなきゃいけないことがたくさんあったの」

「しかし……」


 そう言いながら溝賀は再び奥に立っている天照に気づいた。


「君は……この前の」

「彼女と話していたのよ」

「そうか。もう会話は終わったかい? さあ、行こう」


 そう言いながら溝賀は仁科の手をつかみ、引こうとした。しかし今回の仁科の反応は、前回とは異なっていた。


「いい加減にしてっ!」


 仁科はその手を振りほどき、声を荒げた。予想外の出来事に溝賀はぽかんと目を見開いていたが、すぐに今まで見たことがないような鋭いまなざしで彼女をにらみつけた。


「なぜ……僕はただ、あなたのことを思ってそうしただけなのに……」


 そう言って振りほどいた彼女の二の腕を再び掴もうとするところへ、天照が素早く立ちふさがった。


「やめてください。仁科先生が嫌がっています」


 天照の背中越しから怯えたような目つきで溝賀を見つめる仁科。その視線はもはや恋人にむけるようなものではなかった。


「……君には関係ないだろう」

「誰であろうと、暴力を見過ごすわけにはいきません」

「君には……関係ないと言っている!」


 溝賀が憎しみのこもった表情で、天照をにらんだ。これがこの男の本性かもしれない、そう思った次の瞬間だった。背後に違和感を覚え振り返ると、仁科の全身から禍々しい邪気が立ち上っていた。


「これは……まさか」


 天照が再び向き直ると、溝賀が片手にスマホを握りしめていた。


「まさか……ヤオヨロズ?」

「ヤオヨロズだと……なぜそれを……まさか君、巫か?」

「ちょっと、何がどうなって――」


 やがて仁科から噴き出す邪気の勢いが増し、仁科の頭上で小さな紫色の霧の集まりとなった。と同時に、仁科は気を失いその場にがくりと膝から落ち、倒れた。


「先生!?」


 彼女自身はあふれ出ている邪気に気づいていないようだったが、気の流れに敏感な天照はその現象が彼女の体から発生しているとすぐに察知した。


「仁科先生に一体何をしたのです?」

「何って? 手助けさ。やりたくもない教師を辞められるようにな」

「これは……あなたの従神ですか」

「そうさ。こいつは疫病神といってな、人に取り付き不幸を呼び寄せるのさ」


 禍々しい邪気の集合体から奇怪な声がする。それはあらゆる方向から聞こえてくるようで、耳元で囁かれているようでもある、不快な音だった。


 仁科は自身のふがいなさを責めていた。もちろん、昔から決して器用ではなかったかもしれないが、しかしここ最近の彼女の失態が、人為的、いや神為的に――起こされていたものだとしたら。彼女の悩みは全て、この男によって仕組まれていたものということになる。


「自分の婚約者に……なぜこんなひどいことを」

「何だその言い草は。僕は彼女のためを思って、踏ん切りをつけられるように助けてあげたんだぞ?」

「勝手に仕組んだのであれば、それはあなたの傲慢にすぎません。彼女の意志ではない」

「小娘に何がわかる。人はそうやって悩み苦しむ生き物だ」

「いえ。あなたのしていることは、彼女の精神への一方的な暴力にすぎません」

「だまれぇえええ! 女は……みんなそうだ。いつもいつも……なぜそうやって……僕を否定するッ!」


 それまでの精悍な顔立ちはみる影もなく、怒りで顔をくしゃくしゃにした溝賀が敵意の視線を天照に注いでいた。


「こんな仕打ちをしたくはなかったが……やむをえまい」


 仁科から噴き出た邪気は、彼女の頭の上でその体の二倍、三倍にも膨れ上がり、渦巻いている。


「『疫病神』は実体を持つ神ではない。物理的に干渉することはできないかわりに、人に憑りつくことで力を発揮する」


 そして溝賀が疫病神に目配せする。次の瞬間、疫病神が天照目がけ飛んできた。


「ゲゥアアアアッ!」

「!?」


 あっという間の出来事だった。避ける間もなく疫病神が天照の体の奥へと注がれていく。四肢の末端まで覆い尽くすように、紫と灰色のもやが全身をあっという間に包み込んでいた。


「疫病神の発動技能アクティブスキル不条理な事件(ミスハプニング)』は、宿主から『幸運』を遠ざけ、『不運』を呼び込む。そして常態技能パッシブスキル消極的同調ネガティブシンクが、宿主のネガティブな感情を取り込み、膨れ上がる……最高の組み合わせだろう? 不安や憎しみ、恨みが大きければ大きいほど、その者の境遇をむしばむのさ」


 天照は息苦しさを感じ、その場にうずくまった。胸に手を当てながら、悪しき力が体を駆け巡る感覚がはっきりと伝わる。血管と皮膚の間をもぞもと這いまわるような心地悪さだ。


「感じるだろう? 動揺を! 不安を! 体を駆け巡る憎悪を!」

「これが彼女の中にいたというのですか……」

「そうだ。仁科は悩みを抱えていたから、ずいぶんと力を蓄えられたようだな。君も早くその力に屈してしまいなさい」


 疫病神が、体の中でよりいっそう暴れまわるのがわかる。天照は顔をしかめ、胸に当てた手を強く握りしめ耐えている。


「僕に『参りました』といえば、そいつを放してやるぞ? 悪い取引ではないだろう? 心の苦しみは体の痛みより耐えがたい」

「それをわかっていながら……あなたは、本当に、最低の、()()()ですね」


 するとそれまで胸をおさえうずくまっていた天照が、すっと立ちあがった。


「もう十分です。これはやはり『つくられた』心の痛み。学ぶに値しないと、確信しました」


 天照は目を閉じ、意識を集中する。やがて全身がゆっくりと光を帯び始めた。同時に天照を纏っていた邪気が、薄らいでいく。


「何っ!? 君は巫では……」

「私は巫ではありません。従神、天照大神です」

「な、なんだと!?」


 溝賀が慌てて、スマホをのぞきこむ。ヤオヨロズのバトル画面には、彼女の顔アイコンが、デッキ画面に並んでいる。目の前に立っている少女と何度も見比べるが間違いない。


天照大神あまてらすおおみかみ!? そんなばかな……こんな人の形をした、社会に溶け込んで生きている神がいるというのか?」

「神気の流れを操るという芸当は私の十八番おはこです。これしきの邪気を体から取り除くことなど私にとっては造作ありません」


 そう言って天照が目を見開くと、全身から天照の聖なる気が波のように邪気を押し出す。


「ギ、ギィイイ……!!」


 疫病神のが中空で形をとどめられず、ふわふわと漂い始めた。


「そして最期にこれを申しておきます。私には疫病神に付け入られる心の隙など……一切ない」

「そ、そんなふざけたことがあってたまるか……いけよぉ、疫病神ぃ!」

「ギ、ギィシャアアア!」

「なおも過ちを犯すというならば……仕方ありません」


 邪気の塊と化した疫病神が最期の力を振り絞り、天照へと勢いよくむかってくる。

 しかし天照の手のひらに触れる前に疫病神の動きが止まった。どんなに前に進もうとしても、せき止められ、かわりにおびただしい光の粒が疫病神の表層を削り取りながら、はじけ飛んでいく。


「ギィァアアアーーー!」

「ば、ばかな……!」


 溝賀の目の前で、疫病神はみるみると実体を失い、小さくなり、やがて――消えた。

 人気のない校庭に、静けさと暗闇が支配する。

 青ざめた表情の溝賀が、茫然と立ち尽くしていた。


「もう二度と、仁科さんの前には現れないでください」


 横たわる仁科を抱き上げ、天照はそう静かに言い放った。

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