1−1 インストール
その怪物は、鋭い眼光で九十九玲仁をにらみつけていた。
剥き出しの牙からしたたる唾液に、隆々とした四本の太い腕。毒々しい紫の血管は浮き上がり、禍々《まがまが》しさが全身から溢れている。一筋縄ではいかない相手だと嫌でも思い知らされる。
「もう――後には引けない」
覚悟を決めた玲仁が低く静かな声でつぶやき、自身の人差し指を目の前にかざす。指先はゆっくりと――目の前の「コマンドボタン」に触れる。
「奥義・エターナルフラッシュ!」
仰々しく、その技名が画面上部に映し出される。
光の線が怪物の中心へと向かい、やがて凄まじい衝撃の爆発が広がっていく。
玲仁は涼やかな顔でその光景を見つめている。
そう――なぜなら全ては、彼のスマホの画面上で繰り広げられている出来事だからだ。
「ついに倒した……」
この攻撃で決まらなければ、次のターンで完全にやられていた。クエストで地道に貯めたジェムをつぎ込んで手に入れた超激レアの『勇者ヘラクレス』。その最終奥義をもってしても倒せなければ、禁断のガチャ課金に手を伸ばすしかなかった。
この強敵を攻略するために玲仁は研究と育成を重ね、ようやくひと月をかけこの偉業を達成したのだ。
真っ白に染まった画面はゆっくりとフェードしながら元の戦闘画面へと戻っていく。憎き奴の姿はそこにはもうない。
「何をついに倒しただって?」
玲仁は顔を上げた。その視線の先には、明が立っていた。
皆方明。玲仁が通う高校の生徒なら誰も知っている、ワル中のワル。その脇にはいつも引き連れている同じくクラスメイトの男たち数名もいた。
「こんな道端でキモイやつがいると思ったら、お前うちのクラスのやつじゃねえか?」
学校外でわざわざマスクをしているのに、気づかれるとは。ついていない。
突然、胸ぐらをつかまれた。明の腕から鼻をつく不快な匂いがする。何かの香水だろうか。色気づいてるな。いや、今はそんなことはどうでもいい。なんて不運だ。
「てめえ。何か言えよコラ」
「…」
きっと返事をしようがしまいが、結末は同じパターン――昔ながらのRPGならまあよくあるパターンだ。わかっている。後数秒もすれば、理由もなく殴られる。現実は常にゲームよりも難易度が高く――残酷だ。
となればもう、いちかばちかの行動に移るしかない。
「あ!」
玲仁が突然立ち上がり、上に指をさす。
「ん?」
明が一瞬気をとられる。その隙を玲仁は見逃さなかった。古典的な手法ではあるが――単純な相手には有効な手だ。ぽかんとしている明の脇をすかさずすり抜ける。
「あ、待てテメェ!」
玲仁は背後をちらりとみる。明とその連れが、全力で追ってきていた。
なぜ追いかけてくるのだろう。理由がよくわからない。動物は逃げられると本能的に追うというけれど、まさに不良というのは野生動物と何ら変わらないのだなとつくづく思う。
(こうなったら――あの場所に隠れるしかない)
明たちの視界から逃れながら、右に曲がり左に曲がり、玲仁はとある場所を目指した。
玲仁が自分ひとりの世界を確保するための場所。
そこは、街外れの物静かな神社ーー『神明社』。
○○神社ーーという名前じゃない神社は珍しい気もする。全国に約一万八千ほどあるらしいが、詳しいことは知らない。ただこの神社はそこまで大きくもなく、比較的人気も少ない。むしろそれは玲仁にとって都合が良い環境であり、鍵のかかっていない社のひとつを勝手に隠れ家として密かに愛用していた。
明たちが追ってきていないことを確認すると、すばやく社に忍び込み、玲仁はうずくまった。
スマホを取り出し、再び『戦神プロジェクト』のアプリを起動する。
「ふう、落ち着く……」
玲仁はクラスで人気者でもなければ、いじめられているわけでもない。特別運動ができるわけでも、勉強ができるわけでもない。だが、それこそが玲仁の狙いでもあった。
好きなゲームをしてただ日々をのんびり過ごす。それが玲仁にとっての幸福だった。
だいいち現実世界は大しておもしろいこともないわりに、難易度の高いクエストだらけだ。そんなものに取り組むぐらいなら、確実に時間をかければ報われる、レベル上げが可能なゲームの世界の方がよっぽどマシだ。
現実はゲームの世界よりどこまでも面倒で不条理――これが玲仁の持論だった。
「ねえ、やっぱりやめようよ。こんなの無駄だってえ――」
ふと、賑やかな話し声が聞こえ、玲仁は扉の格子の隙間から外をのぞいた。同年代らしき三人組の女子グループの姿がみえた。無論こちらの存在には気づいていない。
「みんなで頼めば間違いないって」
「カップル成立めちゃ多いって評判らしいよ。絶対いけるって」
静けさがウリのはずの神明社だが、最近妙な変化が起き始めていた。
とある有名人がここでお参りをしてカップルになったとか、嘘か本当かもわからないような噂があっという間にSNSで広がり、どうも巷では恋愛成就の神社としてプチブームになりつつあるらしい。その影響で近隣の女子高生たちが立ち寄る状況をたびたび目撃するようになったのだ。
つまり玲仁にとっての聖域はここ最近脅かされつつある。
(恋愛成就……)
玲仁にとっては難易度最大級の、クエストである。
がらんがらん。女子グループが『ガラガラ』を鳴らす音が境内に響き渡る。玲仁はイヤホンをさし、必死で彼女たちの会話を自分の世界から追い出そうとした。
しばらくして女の子たちが去った後、玲仁はゆっくりと社の外に出て、拝殿の正面に立った。今まさに女の子たちが鳴らした『ガラガラ』を見上げる。
「こんなボロい場所に、恋愛の神様がいるわけない……」
そうつぶやきながら、縄の先端をつかんでいる自分がいた。
(……けど、もし聞いてる神様いるなら俺にも彼女くれってんでひとつよろしくお願いしまああああっす!!!)
そう心の中で叫び、『ガラガラ』を揺らしてみた。
がらんがらん。
その音は空へと吸い込まれていく。こんな音で恋愛の神様が気づいてくれるなら大したものだ。
静けさが再び境内を包みこむ。
「……はい、お疲れ様でした」
玲仁は拝殿に背を向け、すたすたと歩き始めた。
「気を取り直してゲームの続きでもやるか……」
再びスマホを取り出す。画面が消えていたので電源ボタンを押すが、画面がつかない。玲仁は思わず首をかしげる。
「おかしいな」
何度か再起動を試みたが、やはり反応がない。
「修理? まさか……最悪だ。お金がかかるし――しかもしばらくゲームできなくなる!? なんてこった」
そう落ち込みかけた矢先、突如ホーム画面が表示された。
「何だつくじゃん……ん?」
よくみるとひとつだけ、見慣れないアイコンが出現している。
中央には白黒の陰陽のマーク。
アイコンの下端には『ヤオヨロズ』と書いてある。
「なんだこれ? ヤオヨロズ? こんなアプリ入れた覚えないぞ」
無意識にそのアイコンをタップした。するとみたことのないロゴマークが表示される。
陰陽印に似た形のマークだ。
和風の世界観のゲームかな、と考えているうちにすぐにホーム画面が映し出された。殺風景な壁紙とボタン以外に、チュートリアルもなにもない。
「ずいぶんテキトーだな……」
不満に思いながらも、一通りのそれっぽいメニューがあることは確認する。『ホーム』、『バトル』、『編成』、『ガラッ』……『ガチャ』の間違いだろうか。画面下部に四つボタンが並び、だいぶ簡素なつくりだ。
謎のネーミングセンスを怪しみつつも、もはや玲仁にとっては警戒心よりも好奇心が勝っており、すぐにボタンをタップする。
すると別の画面へと移ったところまではよかったが、期待に反して「所定エリアでタップしてください」というメッセージがポップアップして、それまでだった。
「所定エリア……って何だ? もしかして『位置ゲー』なのかな?」
「どうかしたか?」
「いや、どうも何もエリアの説明が何もなくて――」
と自然に話始めて玲仁はハッと我れに返り、顔をあげた。
そこには明とその仲間たちが立っていた。
「よお。やっと会えたな」
しまった。『ヤオヨロズ』アプリに夢中すぎて、まったく周りに気を配っていなかった。
「さっきはよくも堂々と俺たちから逃げてくれたな……」
「えっと――今日だけ、見逃してくれないかな? ちょっと気になることがあって……」
「今おれは、すげーむしゃくしゃしてる」
「はは……まあ……そうですよね」
玲仁は再び振り向き、駆け出す。
「おい、今度は逃がさねえぞ!」
明にすかさず突き飛ばされ、玲仁は社の正面に備え付けられた賽銭箱へと背中を豪快に打ちつけた。
「イテテテッ……」
玲仁はスマホを落とし、その場にうずくまった。その光景をみて明が笑うと、取り巻きも釣られるように一斉に笑った。
玲仁は唇を噛みしめる。何も悪いことをしていないのに、なぜこんな仕打ちを受けなきゃいけないんだ?
なんとか立ち上がろうとするが、脚に力が入らない。
「何なら神様にでも助けを呼んだらどうだ?」
明がケラケラと笑う。玲仁は想像を巡らせていた。
全くだ。本当に神様がいるなら、今目の前で起きている光景を何とかしてほしい。自分の庭で起きているもめごとくらい解決してくれないものか。
無意識に頭上にあるガラガラの縄をつかんだ。そのままむりやり体を引き上げると、同時にがらんがらん、と鈴の鳴る音がした。
「ん?」
全員の様子が、どこかおかしい。玲仁でなく、その横の床に視線が落ちていた。
なんと、そばに転がっていた玲仁のスマホの画面が、白い光を放っているのだ。
「……治ったのかな」
だが次の瞬間、スマホは直視できないほどまばゆい光を放った。
「うわっ!」
「な、何だッ!?」
明とその取り巻きもわめき散らしている。しかし驚いているのは玲仁も一緒だった。
やがて光が収まりおそるおそる目を開ける。
「誰…?」
目の前に見知らぬ少女がぽつんと立っている。
長い黒髪に、吸い込まれるような黒い瞳。白と赤を基調としたきらびやかで高級感のある装束を羽織り、すらりと立っていた。
まるで時が止まったかのように、しばらく誰もがその子をみつめている。
玲仁はもう一度瞬きして、目を凝らす。この神社に巫女さんなんていたっけ……と想像を巡らせ始めた直後、その女の子は玲仁を見て、ついに口を開いた。
「はじめまして、玲仁様」