私
目を覚ますと長い間眠っていたかのような錯覚に襲われる。
どれくらいの間眠っていたんだろうか。そんなに時間は経っていないのだろうか。
ああ、なにも思い出せん。私は何をしていた?
そもそもここはどこだ?全く記憶にない景色だ。
天井も、壁も、扉も。そして、布団の上に力なくうなだれる両手も。自分の口から漏れる呼吸の音すらも。
「私は誰だ?」
私が目を覚ましたことに気付いたらしいナースが駆けつけてきた。それに続くように医者がやって来る。そうか、ここは病院だったのか。全員が全員、安堵したかのような表情を浮かべている。聞いたところ、私は交通事故に遭ったらしく、数日間生死をさまよったんだとか。後遺症として記憶喪失こそ残ってしまったが、命が助かったのは奇跡なんだとか。
なんだかとんでもない話を聞かされた気分だが、結局それは私であって私ではない誰かが経験した話にすぎない。今私は生きているし、記憶がない。ただそれだけのことだろう。
私の場合、忘れてしまったことは人との記憶らしい。物の名前とか、言葉とか、そういったものはいろいろ覚えているが、家族や、いたであろう友人の名前とか、そういったものが思い出せない。無論、思い出も、だ。とはいえ、無くして悲しむのは無くす前を知っているからであって、それを知らぬ私には悲しいという感情がどうしても生まれてこなかった。
いくらかの時間が過ぎて男が息を荒くして部屋に入ってきた。急いできたのだろうその男は、見たところ20代くらいの若い男だった。私の顔を見るなり「生きてて良かった…」と泣きそうな顔でこぼす。私の親族だろうか?
聞くに、その男は私の恋人らしい。写真とかの形となった思い出を見せてもらったのだ。信じるしかあるまい。事故に遭って何日も目覚めなかった私のそばにいつもいたらしい。目覚めたという連絡を聞いたときは逆に心臓が止まるかと思ったという。どうにも私は愛されていたらしい。
「記憶喪失になったって聞いたけど…大丈夫だよね!いつかきっと取り戻せるよね!」
男はそう笑顔で言う。ずいぶんとポジティブな男だ。私からしたらお前は赤の他人も同然なんだぞと、そう言ってやりたいものだが…。こんな輝くような笑顔を見せられたらそう言う気も失せるというものだ。
それから毎日、男は私のところにきた。無くしてしまう前の私のことをたくさん教えてくれた。この本が、この映画が好きだったとか、こんなことが得意だったとか。少し気になっていた家族のことも教えてくれた。昔火事があって、全員向こうに行ってしまったらしい。どうりで見舞いに来ないわけだ。
私のことのはずなのに、男が言うことはすべて新しい情報として仕入れられた。なんとも奇妙な話だ。
それでも私は充実感を覚えていた。根拠こそないが、何かを思い出せそうな気がするし、それを待ってくれる、私のことを好きだと言ってくれる人もいる。ああ、私はきっと、幸せ者だ。
ある日のことだった。男がいつも来る時間に来なかった。心配と言うわけではないが、不思議に思って少し病院内を回ろうと部屋を出た。歩いていると、不意に男の声が聞こえてきた。なんだ来ていたのかと、そう思って声のする方に向かってみると、部屋の中で男と私の担当医が喋っているのが見えた。盗み見も、盗み聞きもするつもりはなかった。だがどうにも私のことを話しているようだとわかると、そうせずにはいられなかった。
「そうですか。怪我はもうほとんど完治しているんですね。重い怪我じゃなくて良かった。じゃあこのまま行けば記憶も…」
「その事なんですが…。大変申し上げにくいんですが、記憶が戻る事は…恐らく……ありません……」
「え…」
私はきっとその時の、その瞬間の男の顔を忘れることはないだろう。それこそ、もう一度交通事故に遭ったとしても。
とても…とても…絶望した顔だった。これ以上ない不幸にあったというような。何よりも失いたくない希望を失ってしまったかのような。そんな心境がありありと写し出されていた。
「ああ…そうか……。そうか……。」
私は理解してしまっていた。男は確かに私を見ていた。私と過ごしていた。けど見ていたのも、一緒に過ごしていたのも…
「私じゃ……ダメ……だったんだな……」
そうだ。なぜ忘れていたんだ。私はもう、私であって私じゃない。あの男の求める私ではない。その私はもう、死んでしまったのだ。その私が帰ってこないと、もう二度と会えないと、そう知ってあの男はあの顔をしたのだ。
悪いのは…誰だ?盗み見してしまった私か?あんな顔をした男か?それとも記憶は戻らないと告げた医者か?はたまた、交通事故に遭ってしまった…もう、帰ってこない…私か?
そのどれもが否だ。きっと…残酷なほどに…誰も悪くない。悪が無ければ正義も生まれぬ。誰かを断罪することはできない。
ただ残ってしまったのは、もう死んでしまった私の皮を被った誰かだけだ。誰かに愛されているわけでもない。中身があるというわけでもない。誰も知らない…そんな、何かだ。
残される側の気持ちを考えろと喚く下衆は、残してでも逝きたかった側の気持ちを考えたことがあるか?
どうやって生きればいい?何も残っていないのに。何もわからないのに。何も覚えてないのに。
だからこそ。残すものを持っていないから。もしくは忘れてしまったから。私はこの地を蹴り、空に跳ぶのだ。
そして虚空に問いかけるのだ。
「私は誰だ?」と。




