生きる希望
無限のように広く白い部屋に、一人の若い女がいた。室内は薄暗いが、何処か暖かみのある光りが遠慮がちに空間を漂っている。
女の衣服は使い古した雑巾のように擦り切れ、所々骨張った体躯を露にしている。手入れのされていない、痛んだ茶髪が顔を隠す。その隙間から覗く目の下には、濃く深い隈。不健康な面持ちに生気は感じられない。
怯えたように周囲を見渡すが、これと言った変化は見当たらない。何処までも、まるで遥かまで続くかのように――白い“無”が続いていた。
「何なのよ……」
不安に押し潰されそうになりながらも、女は終わりへの一歩を踏み出した。
木靴が鳴らすカツカツと言う不規則な音色。その音だけが女を支え、その音だけが世界に響いている。
白い世界は――ただ只管〈ひたすら〉に沈黙を保っていた。
暫くの間、女は辺りを彷徨っていたが、それが全くの無駄だと悟ったのか、部屋の隅に腰を下ろした。
目に写るのは白い虚無。時の流れは感じられず、何時しか女は夢の世界へと引き込まれて行く。
どれ程の時間が経った頃だろうか、女はゆっくりと双眸を開けた。光りを拒絶し霞む視界の中、光りを切り取ったように一つの影が映えていた。
「ふむ、起こしてしまったかの?」
目を覚ました女に声を掛けたのは、椅子の背持たれに跨るように座る初老の男。
伸び放題の白髪頭に、皺が深く刻まれ、長く白い髭が軒を連ねた初老の男。鮮やかに光る蒼い瞳とは不釣り合いな衣服、元は純白だったであろう法衣も、男と同じように薄汚れくたびれている。
何処か落ち着いた雰囲気の男は、目鼻立ちがすっきりと整い、老齢ながら中々に良い面構えをしていた。
女は驚きと戸惑いを隠せず、目を大きく見開いたかと思えば、所在無げに視線を彷徨わせていた。
「心配なされるなお嬢さん。儂〈わし〉はカイラスコープ、この館の管理人をしておる」
「館……管理人? ここは一体、どこなんですか?」
女はたどたどしく質問を投げ掛けた。老人の言葉を聞き、先程よりも幾らか落ち着いたと言えども、その黒い瞳には未だ不信の光りが宿っていた。
「ふむ、此処は録命館〈ろくめいかん〉。天と地の狭間に存在する館。現に在りて夢の中に在る場所。死に瀕した者を救う、再生と死滅の場所。或いは――」
老人は一度句切り、天を仰ぎ見た。再び視線を戻し、顔の前に人差し指を立てると、微笑みながら女に告げた。
「命を記録する場所」
「命を……記録する場所?」
「そうじゃ、まぁ今のお嬢さんには関係無い事じゃがな」
そう言うと、老人は満面の笑みを浮かべた。女の顔にも、少なからず安堵の表情が伺えたが、やはり少なくない疑問が残っているようだ。
「それで……なんで私がここにいるんですか?」
「ふむ、単純な話じゃな。此処は死に瀕した者を救う場所。つまり、お嬢さんが死に掛けておるからじゃよ」
己の死が近い事を告げられても、女は眉一つ動かさなかった。生きる事を諦めていたのか、或いは既に死を覚悟していたのか。
「確かに私は瀕死でした。一週間近く何も食べていませんから、でもなぜですか? 私がここに来てから随分と時間が経っているのに、なぜ死なないんですか?」
「最もな疑問じゃ。然らば答えてしんぜよう。この館は時の流れから隔絶されておるんじゃよ。正確には見捨てられた、と言うべきかの。故に老いる事も死ぬ事も無いのじゃ」
老人は自嘲気味に破顔した。
「そうですか……さっき言いましたよね? 再生と死滅の場所だって、だったら死なせて下さい。私には帰る場所なんてありませんから」
顔を覆う痛んだ茶色い髪の隙間から、女の淀んだ黒い瞳が垣間見えた。老人は軽い咳払いを一つすると、女を諭すように問掛けた。
「何があったんじゃ? この老いぼれに聞かせてはくれんか?」
「良いですけど、一つ条件があります」
「何じゃ?」
老人は悪い予感がしたが、敢えて聞く事にした。女は遠くを見詰め、暫し黙考した後に口を開いた。
「話終えた後、私を必ず死なせてくれると約束して下さい」
「ふむ、残念じゃが約束は出来ん。何故なら儂には決定権が無いからの」
「では結構で――」
女が申し出を断ろうとした矢先に、老人が素早く口を挟む。
「約束は出来んが、何とかなるかも知れん。ともかくお嬢さんが話してくれんと、儂も判断に困るでな」
老人は微笑みを浮かべ、優しく語り掛けた。その笑みに見惚れていた女は、渋々とではあったが事の顛末を紡ぎ始める。
「……私が、私達が暮らす村は――」
「待て待て、話す必要はないんじゃ。儂に任せい」
思わぬ言葉に、女は頭上に疑問符を浮かべるばかりである。老人は意味深な笑みを浮かべ、女の眼前に掌を翳〈かざ〉した。
「目を閉じとれ」
怪訝な面持ちのまま、指示通りに双眸を閉じた。
老人の掌に室内の光が収束して行く。その暖かな光は軈〈やが〉て、二人を優しく包む込んで行く。それに反比例するかの如く、室内は二人を除いて暗黒に支配された。
背丈の低い若草が生い茂る平野の中心に、歳月を重ねた一本の大樹が悠然と聳〈そび〉えていた。四方に広く伸びた枝からは、柔らかな木漏れ日が溢れ、その下に暮らす生き物達に安らぎを齎〈もたら〉していた。
大樹の周囲を野兎が跳び跳ね、栗鼠が枝や幹を駆け回っていた。その大樹から幾許か距離を置いた叢〈くさむら〉に、気配を殺し機会を窺う影が二つ。
二十歳前後の若い男女は低い姿勢を保ち、じりじりと前身する。二人の衣服は確りとした丈夫な作りながら、継ぎ接ぎの目立つ見栄えのしないで物あった。
活発な雰囲気を纏う女は、漆黒の瞳に掛る栗色の前髪を払うと、傍らにいる男へと視線を送る。やや幼さを残した精悍な顔付きの男は、深紅の瞳を深緑の髪の間から覗かせ、獲物の所在を探していた。
「ほらあそこ、二匹いるでしょ。見える?」
「ああ、晩飯は兎の丸焼きだな」
「そゆ事は仕留めてから言ってよね」
「へっ、余裕だっつの」
若い男女は声を潜め、大樹の下で戯れる二匹の兎に狙いを定めた。
「タリスは右、俺は左な」
「わかった、外さないでよね」
男が指示を出し、女はそれに従う。二人は背負っていた半弓を構え、矢を番えると弓弦を目一杯引き絞った。眇〈すが〉められた瞳は、正に狩人のそれだ。
二人に取って眼前の獲物は須要な食料であり、逃す訳には行かない。
「せーので行くぞ、せーの」
ヒュッと風切り音が聞こえたかと思えば、次の瞬間には矢の刺さった兎が地面に転がっていた。しかし、転がっている兎は一匹のみ。もう一匹は正に脱兎の如しである。
「……ちょっとエルミオ、アンタさっき余裕って言ってなかった?」
「よっしゃー、今日は兎の丸焼きだあ! 早く帰ろうぜ」
女の言葉など何処吹く風、男はそそくさと仕留めた獲物を回収し、その場を立ち去ろうとしていた。
「早くしねぇと置いてくぞ。そうだ、序でにカリヌスの葉も摘んで帰ろうぜ」
「あ、こらぁ! 待ちなさいよ」
毎度の事ながら、女はいい加減な男の態度に腹を立て、拳を振り上げ後を追った。
霊峰として知られる山の麓に、小さな村が在った。伐採した木々で建てられた、温もりは有るが簡素な家に住まい、主に狩猟を生業とする者が多く暮らしていた。住人は百人にも満たないが、皆が楽しく、充実した生活を送っていた。
森林を開拓し、この村の礎を築いた先人は、此処より東に位置する国から流れて来たと、凡そ百年前の文献に書かれている。
小動物を狩り、野草や木の実を採り一日を過ごす。そんな有り触れた日々を送っていた二人に、凶報が舞い込んだ。
太陽は傾き、黄昏が辺りを染める。夕食を終えた二人は木製の円形の卓を挟む様に座っていた。その卓も、二人が座る椅子も、以前にエルミオが拵えた物だ。
「戦争?」
「ああ、西のバルメラと東のミシュアが不仲だったのは知ってるだろ? このままだと国が傾くっつーんで、さっさと片をつけたいって所だろうな」
此れ迄幾度と無く小競り合いを続けて来た両国間であるが、激化する諍〈いさか〉いに終止符を打つべく、全面的な戦争に乗り出したと云う訳だ。
「それで、この村はどうなるの?」
「俺達の先祖がミシュア人っつー事でよ、人手を寄越せってほざいてるらしーぜ」
男の言葉に、女は不安を募らせる。争いとは無縁で在った筈のこの村にも、戦争の火の粉が舞い掛ろうとしていた。
「つー訳でよ、村一番の弓の名手であるこの俺様にお鉢が回って来たってこった」
女の表情は見る見る内に驚愕の色に塗り潰されて行く。一方、当事者である筈の男は、他人事の様に笑みを浮かべていた。
「そんな顔すんなよ、俺らは後方支援が主な任務らしいしよ」
「だっ、誰がアンタの心配なんか。それに村一番の名手? 笑わせないでよ、私より下手なくせに。アンタなんかに来られても、他の人に迷惑が掛かるだけよ」
心情を隠すかの様に、女は矢継ぎ早にまくし立てる。しかし、表面上を幾等取り繕おうとも、頬を伝う涙を誤魔化す事は出来なかった。こんな時でさえ、素直になれない自身を女は疎ましく思う。
男は女の頭に掌を乗せ、何かを悟ったかの様に微笑んだ。
「明日の朝には出発する。悪いな、こんな時に……でもよ、ちゃんと帰って来っからさ、家畜の世話、頼んだぜ」
「……約束だからね」
それ以降、二人が言葉を交す事は無く、夜を迎え朝を迎えた。そして女が目覚めた時に、既に男の姿は無かった。
女は日が昇ると狩りに出掛け、日没までには家へと帰った。獲物が取れる日もあれば、そうでない日もあった。一人で取る食事は味気無く、無性に寂しさを募らせる日々が続いた。
男が戦死したと伝えられたのは、そんな日々を一ヶ月程過ごした頃だった。
「……嘘吐き」
変わり果てた男を前に、女はそれだけを呟いた。涙を流すまいと、必死に堪える様が痛々しく、村人の心を鋭く穿〈うが〉つ。
自慢の深緑の髪は半分以上が燃え落ち、ただれた頭皮が露になっている。幾度と無く重ねた唇も、下顎ごと失われていた。
帰って来た男は、頭だけとなっていた。
男が戦争に狩り出されなければ、二人は永久の愛を神に誓っていた筈だった。
それでも気丈に振る舞う女を、村人は不憫に思い事在る事に気を遣ったが、それは苦痛でしか無かった。女が意を決するのに、長い時間は掛らなかった。
巓〈いただき〉には神が住まう。霊峰として云い伝えられて来たその山を、一心不乱に登る女がいた。長く険しい道のりに、時折挫けそうになる自身を叱咤し、女は只管山頂を目指した。
幾日が過ぎたかも定かでは無く、過酷な旅を続けた女の体は疲弊しきっていた。満足な食事も取らず、眠る事も忘れ歩んだ結果、気が付けば山頂に辿り着いていた。
朦朧とする意識の中、女は確かに見た。何も存在しない――只の岩肌を。
「……神様なんて、いないじゃない」
山の神に願いを乞えば、或いは叶えてくれるかも知れない。だが、神など存在しない。そんな事は初めから解っていた。只、縋りつく何かが欲しかっただけだったのだ。
沈む夕陽に見守られながら、女は力無く地面に倒れ込んだ。 暗黒色に塗り潰されていた室内に、仄かな光が溢れ出す。その中心には老人と女がいた。
「成程のぅ、よぉく解ったわい」
「い、今のは一体……?」
老人は翳していた掌を下げ、得心が行った様に呟いた。女は閉じていた双眸を開けるが、頭上に疑問符を浮かべるばかりである。
「お嬢さん、いや、タリスさんの記憶を覗かせて貰うたのじゃ。記憶、と云うより過去その物と云うべきかの」
老人の言葉に訝しがる女であるが、名乗ってもいない名を告げられた事に、その事実を認めざるを得ない状況に陥る。
「案ずるな、その辺は弁えておるわい」
要領の得ない言葉と、片目を瞬かせた老人に初めは意味の解らなかった女であるが、漸く理解した頃には頬を朱に染めていた。其から程無くして、女は落ち着きを取り戻し徐に口を開く。
「辛かった……逃げ出したかった。現実を受け入れたくなかった」
「その答えが死ぬ事だと?」
「私ならあいつを、エルミオを止める事が出来た。救う事が出来た。なぜあの時、そうしなかったのか、そればかりを考えてしまうんです」
女は泣き崩れ、鳴咽を漏らし始める。
「例えお嬢さんが命を絶ったとしても、事実が変わる事はない。楽になれたとしても、赦される事はない」
言葉と共に、老人は優しく女を抱き寄せた。そこに疚しい気持など、微塵もあろう筈がない。
「生きれる可能性がある者が、死を望むのは罪じゃ。生きたくても生きれない者は沢山おるんじゃからな」
老人の諭すかのような言葉に、女はむせび泣きながらも何度も頷いた。
幾許かの時が流れた。二人は老人が何処からか用意した紅茶を楽しみ、談笑に花を咲かせていた。
「もうそろそろかの……」
言い終わるか否か、老人の視線の先、白い壁に扉が生えるように現れた。装飾も満足に施されていない、両開きの質素な扉だ。
「その扉が何処に通じておるのか、神ならぬ身に知る由も無いが……その先に未来が待っておると、儂は切に願っておる」
女は立ち上がり、確かな足取りで扉の前へと立った。振り返ったその顔に、嘗ての面影は感じられない。活力に溢れた満面の笑みを浮かべている。
「ありがとう、管理人さん」
女はそう言い残すと、扉を開け放ち消えた。その後ろ姿を見送り、老人は椅子に座ると共に、安堵の溜め息を溢す。そして、煙草を取り出し火を点けた。
「云わなくて良かったの、本当の事?」
「なんじゃ、ベルか。見ておったのか」
「まぁね、暇だったし」
何時の間にか、老人の傍らには毛並みの美しい黒猫が寄り添っていた。人語を解し、女人の声で話す猫であるが、老人が気に留めた様子は皆目見当たらない。
「あの娘が生きるか死ぬか、或いは記録されようが儂には関係の無い話じゃ。云われた仕事はこなしておるんじゃからの」
黒猫は颯と老人の膝に飛び乗ると、続きを待った。
「男の死体が魔術で造った偽物だと知れば、あの娘は絶望し、死を望んだであろう。それでは儂の仕事は成されん。男が異国で他の女とよろしくやっとると伝えても、それは同じ事じゃ」
「まっ、そうだけどさ。罪悪感とかない訳?」
「嘘は吐いておらんからの、そんなもんは感じんわい」
「死んでも変わらないわね、あんたは」
膝の上では、黒猫が喉を鳴らしている。老人は深く吸った紫煙を吐き出すと、火を消し二本目を取り出した。外界に放り出された紫煙は、宛ても無く空間を彷徨っていた。