1.異世界
――あれ、あたしどうしたんだろう?
貴崎優奈は、現在自分がおかれている状況が飲みこめていなかった。
今ここに至るまでの記憶が一切ない。
と言っても、まったくの記憶喪失というわけでもなさそうだ。
パニックに陥って混乱しているというわけでもない。
今日は、ごく普通のありきたりな一日だったはずだ。
学校を出たところまでは覚えている。というか思い出せる。
それ以降の記憶、今この状況に至るまでの記憶がすっぽり抜け落ちている。
他のことは問題なく思いだせるのだが……。
自分が女子高生であること。埼玉県に住んでいたこと。
家族構成。友人たちの名前と顔。
今日学校で出た宿題。
優奈の彼氏である正樹の優しさ。
その他もろもろ。
しかしここ数時間の記憶が存在しない。
ぼやっとしてるのではなく、その間何も起こらずに今のこの時点までスキップしたような。
優奈はあたりを見渡した。
屋内ではなく屋外であることは確かだ。
山道とでもいうのだろうか。
田舎にいけば幾らでも見られる光景だとは思う。
両端を木々で覆われた、つまりは元々山、森か林であった地域を切り開いて作った道。
優奈が暮らし生れ育った――そして今も暮らしている――地域では見慣れぬ風景ではある。優奈の生活圏の都市の雑踏とはまったく趣が異なる。
「えっとお……」
とりあえずどこかへ移動しようか。優奈は考えた。
が、どちらに行けばいいのかがわからない。
優奈は改めて状況把握に努める。
足元は砂利混じりの未舗装道路。道幅はそれなりに広い。
車が二台は余裕ですれ違えるような幅だ。
道の両側には木々が生い茂り、立ち入ることを許さないような剣呑な雰囲気が醸し出されているようにも思える。
前か、後ろか。
――道沿いに歩けばどこかに辿り着くかな?
優奈は目を凝らし、左右を――前後の道の奥を――伺った。
見渡す限り街灯も無く、空は夕闇が迫っている。
視線の先には何も見えない。ただ道が蛇行しているだけだ。
「まあいっか」
優奈は深く考えずに、歩き出した。
進む方向はたまたま自分が向いていた方向。
少し歩けばなんらかの標識か、拓けた場所――つまりは、家や建物のある地域――に辿り着くと考えていた。
学校が終わった時のことは記憶にある。
であるならば、今のこの時間を考えるに、それほど遠くまで来ているはずもない。
こういう時に役に立つのが腹時計だ。
優奈は空腹を覚え始めていたが、極度に腹が減っているわけでもない。
空には夕焼けが見え始めているが、日没までは至っていない。
ならば、記憶を失ってから数時間というのが妥当かつ適当な経過時間だろう。
日が変わっているのであれば、もっと空腹が優奈を攻めたてているはずである。
優奈はそれほど今の状況を悲観視していなかった。
しかし、歩けども歩けども誰とも出会わない。
どういうことだろう。よほどの田舎なのか。
徒歩ではなく、自転車でもなく――足元の未舗装の道路はオフロードバイクでもなければスピードが出せないようだから――、車で移動したのだろうか?
歩きながら優奈は考える。
学校の帰り道からの寄り道の結果? どこかに寄ったっけ?
それともなんらかの事件に巻き込まれた? そのせいで記憶を失った?
どちらにしてもこんな道は通ったことが無いし、家から学校までの通学路には、該当しそうな箇所はない。
それどころか優奈の暮らす街の中にはこれほどの敷地を持った公園もなければ付近に山もないはずだ。
このような自然に恵まれた場所に心当たりはなかった。
が、優奈は普段からそういった場所に対して興味があったわけではない。
電車に乗ればハイキングや山登りの出来る地味で目立たない山なんかもあったかもしれない。
ここはそういった場所なのだろうか?
ふと何かの気配を感じて優奈は立ち止まった。
「えっとぉ」
誰かいるのか? という問いが出てこない。
優奈が武芸者の類であれば、感じ取られた気配が殺気であると瞬時に判明して身構えただろう。
優奈がこの世界の理を理解していたら、その時点で走りだして逃げ出していただろう。
だが、優奈にはそんな感知能力も知識も備わっていない。
それでも彼女の本能は何か危機が迫っていることを本能的にうっすらと感じ取った。
ぐるぐるぅぅぅ。
唸り声を聞いた。その低い音は、イヌ科の動物だろうか。
「まじ?」
身の危険を感じて立ちすくみながらも優奈は、どこか達観していた。
それが、どういう経緯で自分に湧き上がってきたのかは彼女自身もわからない。
優奈は犬が好きである。幼い頃に噛まれたトラウマもなければ、多少の大型犬でも恐れずに――飼い主が許せば――頭を撫でられる。
犬のほうでも、そんな優奈のリラックスした雰囲気を感じ取って優奈を敵視や警戒しない。
犬と優奈の関係はほぼほぼの場合は対等で良好であった。
狂犬病におかされた、あるいは飼い犬ではない獰猛な生来の野犬であれば、それは優奈にとっては脅威となるが……。
そして、相手が姿を現した。
たしかに、それが所属するのはイヌ科に相当するだろう。
が、野犬であったとしても。
どんなに育ちがよかったとしても。
あり得ない大きさだった。
優奈が知りえる限り、犬であればその頭の高さはせいぜい優奈の腰辺りだ。大きくても頭の高さが優奈の胸を超えることはそうあるまい。
が、優奈に向ってゆっくりと歩くその動物の巨躯は。
遠目に見てもはっきりとわかる。
少なく見積もっても、優奈の頭と同等の位置にその牙を光らせている。
犬と言うよりは、育ちかかった小熊である。
もっとも、熊ほどの重厚な体つきではない。
が、それは優奈にとってなんの楽観材料を与えるものではない。
単純に、相手の獣は優奈を絶命、あるいは捕食できるだけのポテンシャルを軽く所持していることが見て取れた。
「ま、まじ……」
かろうじてそれだけを吐いた優奈の頭の中でアラートが鳴り響く。
――に、逃げなきゃ……
しかし、足がすくんで動けない。
ゆっくりと近づいて来るその犬のような生き物の姿が徐々に鮮明になってくる。
大きな牙が口元からはみ出すように生えている。
精悍な顔つきは獰猛で、犬というよりは狼に近い。
目は飼い犬のそれではなく、獲物を狙う野生の輝きだ。
「ひっ!」
優奈は恐怖から、叫びを漏らした。
その音を契機に、相手の動きが変わる。
ゆっくりとした足取りから、一気に獲物へと襲い掛かる、仕留めるためのハンターの速度へと。
「きゃあああああ!!」
優奈は叫んでいた。
気が付くと獰猛な牙が目前まで迫っている。
優奈は反射的に目を閉じた。
その刹那。
ひゅんという飛来音とともに、「がぅ」という低い獣の悲鳴が上がる。
同時に、優奈の体に衝撃が加わる。
彼女の体に何かが激突してきた。
それは、今まさに襲い掛かろうとしてきたあの獣であっただろう。
数十キロ、あるいは百キロに近い鈍い衝撃を受けて優奈は後方に倒れ込んだ。
激突の速度が減衰していたことが優奈にとっては幸いした。倒れはしたが、大きなダメージには至らなかった。
そして、どさりという、何かが崩れ落ちる音。
それだけだった。
獣の追撃もなければ、牙や爪による引き裂くような攻撃による痛みを受けることがなかった。意識もはっきりしている。
優奈はかろうじて上体を起こし、恐る恐る目を開けた。
目の前には先ほど優奈を襲った巨大な獣が横たわっているのが見える。
崩れ落ちる獣に、光り輝く剣が刺さっている。
地面には血だまりが出来ている。
「護衛も無しで、こんなとこで何やってるの?」
声のする方を見ると二人の人影が見える。
「大丈夫?」
一人が優奈の元へとゆっくりと歩いてきた。
もうひとりは、獣の死体に刺さった剣を回収しているようだった。
「あ、ありがとうございます」
「いえ、どうも」
言いながら、優奈が立ち上がるのに手を貸してくれたのは人懐っこい笑みを浮かべる少年だった。髪の色が赤く夕焼けに溶け込んでいる。
この二人が、おそらく自分を助けてくれたのだろう。
もっとも、この犬にも似た獣が、この二人によって差し向けられたのではなければ。の話ではあるが。
――コ、コスプレイヤー……?
――ってわけじゃあないよね?
立ち上がりながら、優奈は二人を観察した。
二人とも、優奈と同年代に見える。17か、18歳か。あるいはそれよりもう少し年上という線も捨てきれない。
そして、そこが不可解な点なのだが、二人が身に付けている服装。
現代日本では見慣れない、それこそファンタジーの世界、ゲームやアニメから抜け出したような恰好であった。
足元は実物を見たこともないような武骨なブーツのようだった。
下には白くシンプルなズボン。上半身に身に付けているのはシャツのようだが、既製品ではなく、手作りを思わせる。柄もなにもなく無地の布を染めただけのもののようだ。
剣に対して何事かを呟きながら鞘に納めたほうの少年の顔は夕日の逆光となってよく見えない。かろうじてその髪の色が黒ではなく金髪か、あるいはかなりの薄い茶色に染まっているということだけが見て取れた。
シルエットからするに、180cm近い――あるいはそれを多少は超えるほどの――長身だった。
代りに優奈は、もうひとりの少年の顔をしげしげと眺めた。
そばかすのあるその顔つきは、日本人のようでもあり、外国人のようでもある。良く見るとその顔には幼さも残されているようだった。
赤みがかった髪の毛はとても自然のものとは思えないが、鬘ではなく、染めたものでもないように思える。
「とにかく、こんなところを一人で歩いてちゃ危ないよ」
優奈が危なげなく一人で立ち上がったのを見て赤髪の少年が咎めるようにいう。が、優奈を心配してという配慮は十分だが、厳しい言い方ではないようだった。
「すみませんでした」
反射的に謝りながら、優奈の視線は自然ともう一人の少年へと向く。
それを見て取った赤髪の少年は、
「それとお礼はあっちにね」
と優奈に再度の感謝を誘う。
剣を回収したと言うことは、あの大きな獣を仕留めたのは彼だということなのだろう。
――ちゃんとお礼をいわなくっちゃ
優奈は、剣を納めた少年に近寄りながら、頭を下げた。
「あの、ほんとにありがとうございました」
「いや、それはいいんだが。
変わった服だな……」
聞き覚えのある声に優奈は顔を上げる。
「まあくん!?」
優奈の目の前にあったのは見慣れた優奈の彼氏。正樹のそれだった。