53 皆月愛莉の危難
久々の明るい回。
視界の全てが闇だった。
光は遠ざかり、愛しく想う人の顔はもう見えない。
世界は全て闇に包まれてるんじゃないかと錯覚してしまうほど真っ暗で。
それは自分に迫るものも同様だと気付き自嘲する。
彼女に迫るものは、深い絶望。
どんなに人が頑張っても克服できない全ての終わり。死。
身体が芯から凍っていく。
高速で落下する感覚さえ失ってしまうような神経の麻痺。
避けられない死を、素直に認めることができない彼女は僅かに腕を伸ばす。
「た、す、け――」
まだ、死にたくない。
両想いだったのに。
これからだったのに。
彼をおいて一人で死ぬことなんて――
そこで、彼女の思考は途切れた。
「う、ん……」
背後にゴツゴツとしたものが当たっている感覚に目を覚ます。
長らく闇に目を慣らしていた所為か、開けた視界が明滅する。
同時に、体が酷く重いことに気付く。
倦怠感なんかではなく、何か重石がのっているような明確な重量。
地面に寝かされたままの格好で、彼女は視線を腹部に移す。
そして、自分の目を疑った。
「ヘイヘイヘイヘーイ! フゥー! ドゥフフフフ……」
双丘が跳ねていた。
ペシンペシンと叩かれて、形を歪めて踊っている。
「生きてて良かった! こんなナリでも生きてて良かった!」
白いモコモコとした動物が何かワケの分からないことを囀りながら、彼女の胸を叩き、揉んで遊んでいた。
彼女――愛莉は、羞恥に顔が真っ赤になる。
「な、な、な……」
「お、嬢ちゃん起きたk」
「いやああぁぁぁぁあぁああ!!」
動物の言葉を待たずに、それの長い耳を掴むと全力で振り回して地面に叩きつける。
何度も、何度も。冷静な思考を取り戻すまで彼女はそれを地面に殴りつけた。
「ごふっ!」
「あべしっ!」
「ちょ、おまっ動物虐たブッ!」
「あっ」
「あぁん」
動物が恍惚とした声を上げ始めた途端、愛莉の思考が一周回って落ち着いた。
肩で荒く息をつぎながら、改めてその動物を一瞥する。
全身は白く、綿毛のようにモコモコしており、頭上に伸びている両耳は長い。身長は30cm前後といったところで、愛莉が見下ろす形になる。動物なのに服を着ており、久しく見なかった現代風のTシャツと短パンを穿いている。可愛らしい顔に浮かぶ紅い瞳は片方に十字の傷跡がついていて痛々しい。
隻眼の兎が地面に縫い付けられピクピクと痙攣している。
「ハァ……ハァ。一体なんなのコイツ。……っていうか、私死んだはずじゃ?」
自分の置かれた状況の不自然さに気付く。
助かるはずがなかった。あんな速度と高度から落ちたら死は免れない。
なのに、今愛莉は生きている。
なんで……?
呟くと、兎がむくりと起き上がり頭を掻いた。
「どうやら嬢ちゃんは転移系の罠に掛かったみたいだな。オレが天井の魔法陣から落ちてくる嬢ちゃんを受け止めたんだよ」
そう言い、兎が天井を仰ぐ。
地面からは優に数メートルもあり、落下の衝撃は相当なものだろう。
「あ、ありがとう。でもどうやって?」
そんなこと、こんなひ弱な兎には到底できそうにない。
すると兎が誇らしげに胸を張り笑みを浮かべた。
「オレの種族はちっとばかし変わっててな。重力ウサギっつーんだ。一瞬だけ重力を操れるスキルで、嬢ちゃんの落下する速度を無効化したのさ」
「じゃあ、貴方が私を……」
「そう! オレは嬢ちゃんの命の恩人なわけだ! だからおっぱい揉ませてくれドゥフ!」
愛莉の肘鉄が顔面に決まり、再び撃沈する兎。
しかし予想外の早さで復活し、ピョンと起き上がる。
「嬢ちゃん、動物愛護団体に訴えるぞ?」
「そんな団体この世界にな……あれ?」
そこで愛莉は強烈な違和感を覚える。
先程から感じていたふわふわとした、名状し難い疑問が漸く形となる。
それに、今自分が喋っている言葉は……。
「なんで、日本語が分かるの……?」
「いや嬢ちゃんそこからかよ」
呆れたように溜め息をついた兎は、どうしたもんかとガリガリ頭を掻くと次いで懐から何かを取り出す仕草をし、再び嘆息した。
「あぁ、こっちにはタバコはないんだった。あー、嬢ちゃん。こんなナリしてるけどな、オレも一応元日本人なんだよ」
「え、じゃあ貴方も召喚されたの?」
思い出されるのは、かつての期待に満ちた日。召喚されたばかりで、この世界は希望が満ちていると信じて疑わなかった時のこと。
目の前の兎も同じ苦渋を味わったのだろうか?
「召喚? いや、違うな。オレは他の日本人の奴らと一緒に女神に呼ばれたんだよ」
「女神? ああ、そういえば神官がここは女神が造った世界って……」
「アルティアって女神だ。死んだ筈のオレたちは、いつか訪れる災厄に備えて呼び出されたらしい。その際に、希望があるなら聞くっつーからよ、強面だったオレは皆から好かれるような可愛い顔にしてくれって言ったらよぉ……」
膝を落として、ドン! と地面を叩く。
「あの女神、オレをウサギに転生させやがった!」
「あー、なるほど。じゃあ、その服は?」
「あ、これか? これは自作だ。スキルで作った。にしても嬢ちゃんよぉ」
「ん?」
一拍間を置いて、眉根を寄せて兎が尋ねる。
「なんでオレが喋ってることを不思議に思わねえんだ?」
「ああ、それね」
いつも喋る狐といたからな……。思案する愛莉は、実際に見た方が早いと冥爛を召喚することにする。
魔法を発動し、大きく息を吸い込む。
「冥爛!」
「このクソウサギがああぁぁぁぁぁ!!」
「ぐぶぉっ!」
召喚されるなり、冥爛はウサギを大剣で斬りつけた。
愛莉の目が驚愕に見開かれる。
「貴様! 愛莉の胸に触れるなど羨まけしからん! 愛莉の全ては妾のも――」
「ちょっ、冥爛!? なんでいきなり殺すのよ! せっかく同郷の人と会えたのに!」
愛莉の叫びに冥爛は地に倒れ臥す兎を一瞥し、不思議そうに愛莉に向き直る。
「死ぬわけがなかろう。こいつ、妾たちより大分強いぞ?」
「え、嘘でしょ?」
言って、愛莉は怪訝な顔つきで鑑定を発動する。
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坂内徹也 32歳 男 レベル158
重力ウサギ
職業:裁縫師
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「……は?」
「な、言ったじゃろ?」
したり顔の冥爛に愛莉が呆れたと溜め息をつく。
「でも、種族的にはオレより狐の姉ちゃんの方が断然強いぜ?」
むくりと起き上がった兎の背中には、既に斬りつけられた傷は残っていない。
化物かと戦慄する愛莉を無視して会話が進んでいく。
「それはそうじゃが。お主、レベル100を越えているということは……」
「ああ、もってるぜ。ユニークスキル」
「え、どういうこと?」
会話についていけず戸惑う愛莉に冥爛が滔々と説く。
いつになく嬉しそうな顔だ。
「端的に言うとじゃな。人も魔物も一定の霊格を超えるとレベルの限界を越えることことができるんじゃ。ユニークスキルには霊格を高める効果があるので、保持者は努力次第でレベル100を越えることがある、というわけなのじゃ」
「そうなんだ……」
納得し、俯く愛莉。
ユニークスキルと聞いて彼の顔を思い出してしまった。
今頃私が死んだと思い、気が気ではないだろう彼のことを。
「恭平君……」
「お、嬢ちゃんの彼氏かい?」
「へっ? ちっ、違う違う違わないけど違うよぉ!」
「ちょっ、嬢ちゃん! 照れ隠しにオレを叩きつけるのはやめてくぼぉ!」
兎を地面に繰り返し叩きつける愛莉を、というか愛莉の懸想する相手を想像し、ペッと唾を吐く冥爛。
彼女は心底どうでもよさそうな表情を浮かべると、愛莉に問う。
「愛莉、そんなクサレ小僧のことよりここから脱出する方法を考えないかえ?」
「狐の姉ちゃんもいい乳してんな! 揉ませてくれ!」
「黙れクソウサギ!」
瞬時に発動された『劫火』が兎の全身を焼いた。
炎の中で黒い影が悲鳴を上げる。
「や、やめろ! こんがり焼けちまう!」
そんな兎を無視して愛莉は思案げな顔を浮かべる。
見たところ、今いる場所は魔宮のようだが……。何階層にいるのか検討がつかない。
兎と冥爛がいればモンスターとの戦闘は心配ないだろうが、上層に帰るまでの時間が気になる。
一刻も早く恭平に合流して脱獄を手伝わなければいけないのだ。
「ねえ、兎さん。ここって一体何階なの? 一階までどのくらいで戻れる?」
こんがり焼けてしまった兎に尋ねる愛莉。
すると兎は事も無げに、
「ここは魔宮の32階。上層への道は塞がれてて戻れねえ」
「「……は?」」
どういうわけか、落ちた穴には転移罠が仕掛けてあり、この階層まで繋がっていた。
幸か不幸か、そのおかげで助かったわけだが、我が身の不運を呪わずにはいられない。
そんな愛莉に追い討ちをかけるように兎が続ける。
「ここから脱出したいなら最下層まで行くしかない」
呆然とした表情を浮かべる愛莉と冥爛。
こうして彼女達の長い魔宮攻略が幕を開けた。
兎さんのステータスが見えるのは、彼が自ら開示しているからです。




