レイニー・ハーモニー
滴る雨音が、いつもより不思議な調和を生み出している気がした。石畳に敷き詰められた昇降口の先で踊る雨脚は昼ごろより落ち着いたけれど、それでもタンゴでも踊るかのように軽快に反響して僕の鼓膜をくすぐってくる。夜の静かな時に聞く雨音とはまた違う雰囲気の雨も、これはこれで悪くない。――そんなバカげたことを考える程度に、不思議と僕は落ちついていた。
革靴に履き替えて、化けコウモリみたいな黒い大傘を開き、昇降口をくぐる。そこで初めて、のど元から零れだしてくるような緊張感と同様が一瞬で全身に回り、傘の柄を握る指先と、雨にコーティングされた石畳を蹴る足が震えた。何も怖いことは無いのに。だけど、今の感情が自分には分からなくて。多分そのせいで、今こうして校門に向かって歩いていくにつれて、自分がどこへ向かうべきかすら忘れてしまう。
軽く呼吸を整えて肩を軽く回し、息を吐く。そして、少しずつ見える校門の外に、あの小さな影は見えた。
「す、好きです!」
おどおどした表情と、栗色のおかっぱ頭にくっついた薄桃色のカチューシャが印象深い小さな体躯がそう僕に勢いよく言い放ったのは、昼休みが終わり始めた図書室の隅でのことだった。図書委員の仕事で、昼休みを利用して蔵書の整理をしていたとき、本棚の陰に隠れながら僕の方へ向かってくるその姿は、非常に怯えて見えた。眼鏡の位置を戻して、脚立から降り「何か探し物?」と声をかけたところの突然の反応がそれで、思わず整いなおしたばかりの眼鏡のフレームがずれて、視界にぼやけた世界と眼鏡越しに矯正された世界とが混濁した。
「こ、これ読んでください!」
胸元の藍色のリボンから、彼女が一つ学年が下だということは分かったのだけど、詳しい顔つきまではほとんど分からなかった。彼女は僕が呼び止めようとする間もなくすごい勢いで僕に小さな便箋を押し付け、そのまま図書室を後にしてしまったからである。石像のように硬直してしまい、脚立を片づけることを一瞬忘れてしまったくらいにはその状況が理解できず、奇妙な声が漏れそうだった。一つ明確なことは、封をする黒猫のシールが添えられたシンプルな薄茶色の便箋をがどういうことを意味しているかと言うことだけで、僕は混乱した状況の中で予鈴のチャイムを聞いた。それは、つまり、彼女にとっては勇気ある「告白」だったのだ。
その後で、授業中にこっそりその便箋を開いてみると、そこには今時の女の子とは言い難い端正な文字で、ふざけた文面ではなく真面目に僕への想いが綴られていて、一句一句を読んで行くのに相当苦労した。如何せん、告白されることはおろか誰かを好きになったり、恋愛経験すらない僕にはあまりにあのたった数秒の出来事が衝撃的過ぎたのだ。正直、告白かどうかすら怪しいという今更ながらの疑心暗鬼もある。気の強そうな子には到底思えなかったし、何かの罰ゲームでさせられているという可能性も考えられなくはない。
だけれど、耳の先まで紅潮させたあの表情と、文面から伝わる彼女の言葉からはどうにも偽りが感じられなくて、授業を終えると僕はすぐに帰り支度をまとめて彼女が指定した校門前へ行くことにしたのだ。
「高森……さん?」
恐る恐る背中越しに僕が呼びかけると、水色の傘が震えて、雨粒が周囲に散らばった。高森、という彼女もまた、僕が問いかけた時みたいに、恐る恐る僕の方を振り向くと、昼の図書室の時と同じくらい顔を全面朱に染め上げて、それから俯いてしまった。
「あの、ええと……」
彼女が何も言葉を発そうとしないせいで、僕も言葉に詰まってしまう。時折僕ら二人を横目に帰路へ向かう生徒の視線が非常に痛い。
「とりあえず、帰ろうか」
何とか絞り出せた一言に、彼女は小さく頷いて、隣り合わせで歩き始めた。歩幅は大丈夫かとか、何も言わなくて大丈夫なのかとか、いろんなことが頭の中で絡み合って、彼女が僕の名前を何度も呼び立てることに気づいたのが少し遅れた。
「せ、先輩?」
「な、何かな」
これじゃまるでどっちが告白したんだよ、という自嘲気味な思案が浮かびつつも、彼女は眉を下げながら僕の方を見つめる。もちもちした白い柔肌と、小さいけれど雨粒を垂らしたかのような瞳が印象的に映えた。
「手紙……読みました?」
不安そうに問いかける彼女の声は微かに震えていたけれど、僕はほぼ即答に近い形で読んだよ、と返す。すると、より自信なさげなほとんど聞き取れない声音で返す。
「いきなりごめんなさい」
「いや、だ、大丈夫だよ」
不安な声を押し切って出した声は、彼女に劣らないくらい震えていて、そうやって彼女へ言葉を返すたびに言葉を誤っていないのか、こんな曖昧な回答でいいのかと言う思索が巡る。
彼女は何も言わず、僕の横を歩き続けた。彼女の水色の傘から滴る雨水が彼女の黒いブレザーの肩を濡らしていて、シミになっていることを思わず発見してしまう。ポケットからハンカチを取り出そうとしたけれど、そんなことをしたところでシミが取れるわけでもない。
「高森さん、肩、濡れてるよ」
「え……え、あ、本当だ」
指先で肩を摩った彼女の顔が持ち上がって、その一瞬に僕と瞳が合った。少しだけお互いに零れた声が、雨音の中に消えていきそうになったけれど、その時初めて僕は彼女の素の表情に気づけて、思わず笑い返してしまいそうになったのだ。
「あんまりさ、そんなに不安がらなくても大丈夫だよ。普通にしてる方が高森さんはきっと可愛い」
「え、あ、ええ、あ、あの……」
慌てふためいた様子で傘を揺らし、口を泳がせながら眉を潜めた彼女を前に、自然に僕の声が届く。
「僕はさ、恋愛経験とかないんだ。どうやって好きになっていくかも分からないし。どうやって声をかけて行ったらいいかも分からないけど」
泳ぐ彼女の口元が止まり、彼女の泣きそうな表情が映る。
「それでも、良ければ。……付き合ってみようか」
自然に零れた僕の笑みを見て彼女はようやく頬を持ち上げて、目尻から雫を垂らして頷いた。そうした会話を重ねるうちに雨脚が止み、雨雲の切れ間から彼女の傘と同じ色が顔を見せ、僕らに声をかけるようにその顔を広げていく。
傘を閉じると、彼女の手が自然と僕の指に絡まった。口数の少ない彼女は優しい笑みを浮かべながら僕の横顔を覗き、雨が過ぎ去った世界にまた僕が知らない音を運び込んだ。
Twitterの友人にこんなシチュエーションどうだ、ということで案をいただき書いてみました。
読んでいただきありがとうございました。