秘密の裏庭
ヒラヒラと木漏れ日が射す小さな裏庭。
取り囲む高いレンガの壁は蔦の葉で覆われ、地面には所狭しと様々な花が好き放題に咲き乱れている。
ぽっかり空いた天井からは青い空が見え、そこは小鳥たちの出入り口になっていた。
この全く手入れされていない庭の片隅でうたた寝をしている一人の少女。
華奢な体を覆う長い髪は光の加減でプラチナにもパープルにも見え、透き通る白い肌と薔薇色に上気した頬、そして髪と同じ色の長い睫毛は世にも不思議な存在感を放っていた。
すやすやと全てを白いベンチに預けて眠る様子だけを見ると、まるで妖精か天使の様に美しい。
そう、眠っている時だけは妖精か天使の様だと乳母のミセス・ブラウンは常々思っている。
こんなにキレイで神々しいのに…
ひとたび目を覚ませば、その美しい容姿からは想像出来ないほど、大雑把で、無鉄砲で、そのくせ人見知りで、世間知らずで…と挙げればきりがない。
「ふぅっ」
思わずため息を吐いてから、そっと少女の肩に手を置いて揺り動かす。
「ヴィオラ様!ヴィオラ様!」
決して穏やかではない起こし方だが、これでもまだ生ぬるい方で、現に本人は全く起きる気配がなく微動だにさえしない。
そんなヴィオラの様子に困ったり呆れたりせず、ひたすら華奢な体を激しく揺らし、耳元で名前を叫ぶミセス・ブラウン。
普通の人間なら飛び起きるほどの大声で叫ばれても安らかに眠るヴィオラを見て、ミセス・ブラウンは最終手段を使うことにした。
手探りで近くにあったマンドラゴラの鉢植えを掴み、勢いよくその苗を引き抜いたのだ。
「#@$%&*()_@*&^%$#@)!&*!@^#*?#&#!!!!!!!!!!」
耳を劈く強烈なマンドラゴラの叫び声が裏庭に響き渡る。
もしも偶然、この庭の近くを通りがかった人間がいれば死んでいるかもしれない。
しかし、ここは森の奥深くに隠された屋敷。通りがかった人なんて、この20年間一人もいないのだけれど。
もちろん用意周到なミセス・ブラウンの耳には耳栓が仕込まれており、その影響は全くない。
そして、死の叫び声を直接聞いたヴィオラはと言うと…
「ん…、もうちょっとぉ…」
陽射しを遮りながらゆっくり寝返りを打って、むにゃむにゃと呟いたかと思うと、また寝息を立て始めた。
そんな様子を見たミセス・ブラウンは大きなため息を吐くと、今しかないと思いっきりヴィオラのお尻を引っ叩いて怒鳴った。
「ヴィオラ様!いい加減に起きてください!」
先ほどのマンドラゴラにも負けない声量と威力のある怒声と衝撃。
さすがのヴィオラもミセス・ブラウンの平手打ちには適わず、渋々ながら重い瞼を開いた。
「う、う…ん。ミセス・ブラウン?」
ぼんやりした寝ぼけ眼の視界に映るミセス・ブラウンの真っ赤な顔。
「今朝、申し上げたでしょう?今日は新しい教師が来るんです!」
そう言えば、そうだった。
ヴィオラは記憶を巻き戻して、今朝ミセス・ブラウンの言っていた事を思い出した。
『今日は午後2時から新しい教師が来ますからね。5分前には書斎にいてください。何て言ったって、ネロ様からのご通達ですから。』
ネロ様、とミセス・ブラウンが呼ぶのはヴィオラの兄の事だった。
兄と言っても、遠い遠い昔に一度だけちらりと見た記憶がある程度。
ヴィオラがネロについて覚えているのは、漆黒の髪と褐色の肌に対してヴィオラと同じエメラルド・グリーンの瞳が輝いていたことぐらい。
両親を知らないヴィオラにとっては唯一の肉親だが、その声さえ聞いた覚えがないとなれば、ヴィオラにとっては乳母のミセス・ブラウンよりも遠い存在だった。
「今、何時?」
少しずつ自分が置かれている状況を把握しながらミセス・ブラウンに尋ねると、顔をしかめたミセス・ブラウンに強引に腕ごと引っ張り起こされ、そのまま屋敷の中へ連れ込まれた。
「い、痛い~!ミセス・ブラウン~。腕がちぎれるぅ!」
「ヴィオラ様が暢気に昼寝なんかしているせいです。ほらほら、早くしないと遅れますよ!」
カツカツカツと廊下に響くミセス・ブラウンの足音と引き摺られるようなヴィオラの足音。
いつも強引なミセス・ブラウンだが、今日はいつも以上にパワフルで、気づけば部屋着から普段着に着替えさせられ書斎に押し込まれた。
静かな書斎の壁に掛かった時計の針は1時55分を差している。
『さすが…』
と、感心したのはヴィオラかそれとも隣室で待機していた教師か。
当のミセス・ブラウンは時間通りにヴィオラが書斎に収まると、今度は鼻歌を歌いながらキッチンでアフタヌーン・ティーの用意に励んでいる。
そして書斎では…
世間一般で言えば、それはそれは美しい容姿のヴィオラとそれに引けをとらない美形の教師、ロッソが顔を合わせていた。
「初めまして、ロッソと申します。」
そう言って、沈黙を破り目の前の人物が頭を下げる。
その動きに合わせて、ふわりと揺れた金色の髪にヴィオラは目が釘付けになった。
何しろ生まれてこの方、自身の妙な髪色とミセス・ブラウンの茶髪、そして兄ネロの黒髪しか見たことがないのだから仕方ないといえば仕方ない。
まるで太陽の光が燃え移ったみたい…
ロッソのオレンジ色に光る髪を見てヴィオラは思った。
「…素敵な色ですね。」
しばらくして、再び沈黙を破ったのはロッソだった。
一般的に見れば、ヴィオラの髪こそ見たことも聞いたこともない色なのだ。
しかし、微笑みかけるロッソに対してヴィオラは眉間に皺を寄せ頷いただけ。
それ以降は、俯いたままロッソの方へ顔を上げようともしない。
『話に聞く以上の人見知りだな。』
ロッソはこっそり心の中で呟いた。
何しろ、生まれてからずっと世間との接触を絶たれている少女なのだ。
唯一、心を開くのは乳母のミセス・ブラウンにだけ。
『兄の俺にさえ、懐かなければ口も利かない。』
そう苦笑しながら漏らしたのは幼馴染のネロだった。
遠い昔に会っただけ、というのはヴィオラの記憶の中だけで、実は何度か妹に会っているネロ。
それはヴィオラの誕生日だったり色々だったけれども、極度の人見知りのおかげで目が合う間もなく姿を消して、言葉さえかけられなかったと言う。
今、そのヴィオラ本人を前にすると、大袈裟に聞こえていたネロの言葉もあながち嘘ではないと確信した。
「ヴィオラ、様ですね?ネロ様とは昔からの友人なんですよ。」
とりあえずの内輪ネタから攻めるロッソ。
これで、少しは警戒を緩めてくれるといいんだけど…
しかし、そんなロッソの願いも虚しくヴィオラはただ頷くだけでこちらを見ない。
それどころか、さらりとプラチナの髪が流れて美しいヴィオラの顔を遮った。
もう、どうにでもなれ。
ロッソは半ば諦めて一方的に授業を進めることにした。
「とりあえず、今日は魔法の理論から始めようと思います。」