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木漏れ陽の上 我見えぬ空の光

作者: 橘紡
掲載日:2010/12/16


いままで出逢った すべての人に。

                         橘 紡


バスの中でゴロゴロとうるさくないように、持って歩いた大きなキャリーバックをドアの所の階段に置く。足と交互に下ろしたとき、ハイヒールの足音がバスの階段に響いた。気を使っていたつもりだが結局、カタンカタン、と音を立てて降りることとなった。


外に出ると、モワーンと熱気が顔にかかった。さっきまで寒いくらいにクーラーが効いていた車内にいたのだが、今は汗がにじみ出るほど暑い。何年も前には、彼女の実家の近くの公民館の近くにバス停留所があったが、利用者が少なくなっていき、運行停止したのだ。現在は1キロほど歩いて、国道沿いのバス停を使わなくてはならなくなった。その利用されなくなったバス停は、いつだったか、台風に飛ばされてきた何かに屋根を潰され、それ自体撤去されてしまった。停留所があった筈のところに、少し段になった白いコンクリートがあるだけになっている。


国道沿いから車二台がぎりぎりですれ違うほどしかない道に入る。坂道をのぼり、また下り、また上ると橋に差しかかる。その下を流れる八東川は、千代川よりかは幅のない川だ。左から右に水が勢いよくかけていく。夏の日差しを右斜め上に浴びて、川は眩しいくらいだった。先にはまだまだ続く長い長い下り坂と、濃い緑の絨毯のように広がる田があるだけである。そしてここは、身内では『部落』と呼ばれる、集落が一望できるポジションだ。  小学生の頃は、夏休みに毎日朝六時に起きて、六時半から始まる恒例のラジオ体操をした後の、ランニングコースだった。ここ立って、この景色を見てからUターンしてまた同じ道を帰って行った。


右側に目をやる。渓流に近い、岩だらけの中を水が滑らかに切り抜けていくその先に見える、青葉の群れに目が留まった。


そこには大きくカーブがかった桜の並木道がある。昔、毎日通った通学路である。実家から2キロ離れたそこに、青色の丸い屋根の、決して綺麗とはいえない体育館と、正面と裏は白、両サイドはレンガ色の小学校の校舎があるのだ。


児童も減り、もう何年か後には、廃校も決まった学校である。

毎日、そこに通い、友達と遊んだり、おしゃべりしたりした。

あの年月分だけ、あれから過ごしたのに、思い出は鮮明に残っている。何気ない会話は、もう思い出せないけど、教室の窓から差し込んでくる光の色や、指定の黄色いランドセルの真ん中に付いた、端の剥がれた校章や、開かない屋上のドアとか。あの、ゆっくりと流れる、時間とか。通学路に伸びる、自分の隣の少し短い、影とか。


六年も通っていた学校だ。つらいこともキツかったこともあった筈なのに、思い出されるものは、そういうことばかりだった。きっと自分は調子がいい性格なのだろう。


そこではゆっくりと時間が流れ、柔らかな光に包まれた、やさしい場所だ、と。そう錯覚している。


あのころ、手をつないでそこにいた子達は、今はもう、それぞれの新しい居場所に立っている。


―――とどまっているのは、こんなところでくすぶっているのは、きっと私だけだろう。“自信がない”なんて言って、親に散々反対されて、諦めかけているのは、きっと私だけだ。


太陽はいつも、眩しく輝いている。太陽は必ず昇り、そして沈む。それは世界の真理で、絶対に揺るがない。


―――だけど、あれだけ暑い夏の太陽が、周りを照らしていても、いつでも周りが輝いて見えたとは、限らない。


φ


空は晴れ渡っていた。木の葉と木の葉の間から空が見え、初夏の遠い太陽からの日差しを遮ってくれる並木道はちょうど良かった。学校から家までの約二キロのちょうど中間にあるオアシスのようなものだった。特に暑い日には、規定の黄色い野球帽を川で濡らして、頭を冷やした。親は汚いからやめろと言ったが、川は底の魚や虫がはっきり見えるほど透き通っていたし、コケひとつ見られないほどだった。


何より、暑いのだ。この炎天下の中、三十分もの間歩いて家に帰るのだ。こうでもしていないとやってられない。


私は、同じ帰り道に同い年の子はいなかった。だから一年から三年くらいまでは二つ年上の、先輩たちと帰っていた。時間枠の早い一年生の頃は、三年生の教室の前に陣取って、その三人組みの女子を待っていた。今になって気が付くことだが、かなり自分は鬱陶しかったかもしれない。同い年三人で今まで帰っていたのが、いきなり二つ年下の面倒を押し付けられたのだ。自分はかなりドジだったし、歩くペースも遅い、見たいテレビがあっても、急いで走って帰ることもできない。おまけに自分は特に可愛げがあるわけでもないのだ。たまに、せっかく話しかけてくれても、会話の苦手な自分は、彼女らが求めるような受け答えができなかっただろう。そりゃ嫌になる。


イライラは溜まる一方だっただろう。

それは、何ともわかりやすい方法で示された。


ある日、いつものように、先に三人が歩いて、その後ろを自分が追いかけているときだった。いつもより妙に早足だった。それでも、自分の目線の位置にある背中を追いかけて、置いていかれないように、一生懸命に歩いた。でもだんだん早くなって行く歩調に、ついに付いていけなくなった。


「あの…もう少しゆっくり…」


言い終わらないうちに、三人はわざとらしく話し声のボリュームを上げて、さらに歩調を速めていった。ほとんど競歩のようなスピードだった。


「…………」

息はだんだん荒くなっていった。

どんどん、背中が遠くなっていく。

息は、荒くなっていく。

背中が、小さくなっていく。

必死に追いかけていたものは、走って、いつもの通学路に消えた。


「…………」


なんだか、必死について行っていた自分が馬鹿みたいに思えてきた。現に今だって、軽くあしらわれている。こういう気分を味わうのは初めてだった。


「……」


視界がぼやけていく。


どんどん、ぼやけていく。ぼやけて、ぼやけて、近くの景色の輪郭さえも、見えなくなってしまう。

足は止まっていた。

炎天下の中、せみは鳴く。近くに大きな桜の木がある。そこには何匹ものせみが止まっている。蝉時雨。という言葉がぴったりだった。まさしく雨のように、音が降り注いでくる。


歯を食いしばって、外に漏れないようにしている声は、それにかき消されて、もとよりそこは人通りのまったく無いような農道で、誰にも聞こえることはない。


小一、夏。



φ



何とか一年間の学校行事を一周した。


相変わらず、学校までの三十分間、ただ黙って歩くだけだった。でも、この前の金曜日から、後輩ができた。弟ともう一人が入学してきたのだ。弟は自分よりも張り切って、集団登校の集合場所に向かっていた。


私は、もう一人で帰れるようになっていた。いや、以前から一人でも帰れていたのだが、今までは母親が心配してあの人たちと一緒に帰れと言って一人での下校は許さなかった。


というのも、山のふもとが通学路で、そこを歩いて帰っていたため、熊やら猿やら猪やらが、冬以外いつ出てくるか分からないからだった。いつだったか忘れたが、家の前に大きな熊が陣取っていて、家に入れないし怖いしで、大泣きしたこともあったのだ。屋根から屋根へ猿が飛び越えて、かわらがカタカタとなるのもしょっちゅうだった。


人に話しても信じてもらえないが、縁側を駆けっぱなしにして留守にしていた裏のおばあちゃんの家は、仏壇の間に猿が入り込み、仏壇前に敷かれている座布団に座って、供え物を食べる猿の姿は、まるで仏壇を拝んでいるようだったとか。そのおばあちゃんの、「猿が拝んどる――――ッ!」という叫び声に、猿は一目散に逃げて、おばあちゃんに怪我はなかったようだった。後となっては笑い話。事件の一年後。おばあさんの長い長い笑い話を聞いたあとに待っていたアイスは、役得だった。


こほん。本題に入ろう。

柿の木の下には猿の食べ散らかした柿の残骸が秋の日差しを浴びて干からびている。そんな中、屋根を駆け回る、柿泥棒の小さな陰が見えた。

屋根に面した柿の木の、手ごろな柿を一つもいで、影は恐る恐る、しかしそれにしては大胆に、来た道を戻っていく。


その影は、小さな少年だった。

この少年は、まず自分の家の一階の屋根に登り、住宅の隣に位置している、屋根は一階部分より少し高いくらいの長屋の屋根によじ登り、そこからすぐ隣の家の蔵の屋根に飛び乗り、柿をぼる、常習犯だった。それは4歳年上の部落中で有名な悪ガキ直伝の手管だ。周りの大人にバレないように身をかがめて屋根の上を歩いた。


少し悪知恵も働いた。周りの悪がきには劣るにしても。

なんとも元気な、我が弟である。

近所の悪ガキと一緒に他人の家の窓ガラスを割れば、一人でも謝りに行く、我が弟である。

本当におバカであった。


ある日、部落内のある家の窓に、泥球がいくつも投げ込まれて、ひどく汚れてしまった事件があった。


ある日の夜。同じ部落の上級生の男子児童二人が家に来た。


――くん、いる?


その男子たちは言った。妙にニタニタした、その顔を不審に思った。

普段は呼び捨てなのに、今日に限って『――くん』と呼んだあたりも、ある意味で怖いくらい不審だった。それに、こいつらが弟に会いにくる用件が分からなかった。思い当たることはひとつ。あの事件のことが浮かんだ。なぜなら、こいつらが部落内でかの有名な悪ガキだったからだ。これは勘だが、もしかしたらこいつらが主謀者かもしれないのだ。


いやな予感がして、とっさに居留守を使おうとした。


「………。い、いません。」


今は夜だ。不自然に思ったかもしれない。どうも腑に落ちない顔をしたが、そいつらは帰ろうとした。ほっ、と息をつく。しかしそのとき、弟が風呂からあがって玄関を通って自室に向かった。


げ。


弟が通り過ぎた後の沈黙は、かなり重かった。


そのとき、変な顔をして睨んでくる上級生にもろともせず、もう一度、「いません」と言った自分は妙に誇らしかった。


この頃の自分にとって、この上級生たちは、『悪』そのものだったのだ。ヒーローモノのアニメに出てくる怪獣とか魔王のようなものだ。玄関の上がり口に立っていても、目線はあいつらのほうが高いのだ、普通に立ったとき見下ろされたら、そりゃもう、怖かった。


「――く~ん!出てきて~!」


いかにも調子よさそうな先輩の一人が叫んだ。


「こんな夜中に人ん家に来て大声出すなッ!この礼儀知らず!」とは言えなかったが、心の中で何度も叫んだ。

不審そうな顔をして、弟が出てきた。


話はやはりあの事件のことだった。


話の内容は、こういったものだった。今はもう、詳しい会話は忘れてしまったが、あいつらは弟があの事件の犯人だと思っているようで、謝りに行けと忠告しにわざわざ家まで押しかけて来たらしい。


「ぼくじゃないです。」


弟はきっぱりとそう言った。弟が最上級生相手(それも魔王)に、あそこまではっきりと、まっすぐに相手を見据えて言ったのには、正直驚いた。いつも、どこかおどおどして、自信なさげにしていたはずだったのだ。しかし今回ばかりは、こいつがそう言うならそうなのだろう、と本気で思った。嘘だってつく弟なのに。


嘘つくなよ!


あいつらは確かそう怒鳴ったはずだ。その最初から決め付けたような口調に、怒りを覚えた。

「お前ら、こいつがこう言ってんだからそうなんだよ!ていうか夜中に人ん家来て騒ぐな!帰れ!!」とは、やはり言えなかったが、心の中で何度あいつらを貶したか分からない。


そして騒ぎを聞きつけて母親が奥の台所から出てきた。大人が出てきたことで、あいつらは気押されていたようだった。それからすぐに、あいつらは逃げるように帰っていった。その後父に、「本当にお前じゃないんだな?」とあの恐い顔で聞かれ、弟はまた同じことを繰り返した。


そうか。とだけ父が言うと、弟は何事もなかったかのように、テレビを見てケタケタと笑った。


次の日。

あいつ昨日、俺らに嘘付いたんだぜ~。

と、あいつらが登校班のメンバーに触れ回っていた。『あいつ』というのは私のことだ。


げ。根に持ってる…。


ドヤ顔でこちらを見てくるあいつらから目を逸らした。妙に腹立たしかった。自分らだって夜中に人の家にきて暴れたくせして、よく言うよ。

そのとき、


「ぼく、あのときに帰って来たんです。勝手口から。」


普通の会話ではないような、大きな声が聞こえた。たしかに弟はあいつらの方を向いて声を発しているのに、それはまるで、そこにいる全員に訴えているように思えた。


―――ほらね。嘘だって付くでしょ?


それも、本当のこととほとんど見分けがつかない程に、うまく。


あ、そ。


あいつらはそうとしか言わなかった。でもそれ以来、そのことをネタにからかわれた事はない。



ちなみに、あの事件の犯人が分かったのは、それから一週間ほど後のことだった。


そのとき少女は、夕飯時、箸をマイク代わりに、家族にこういった。


ほらね! やっぱ、あいつらが犯人だったでしょ! 私の勘は正しかった! うん、うん! それにしても、自分らが犯人のくせして、よくも人に謝りに行けなんて言えたもんだ! 自分で自分が恥ずかしくないのか! 親と、あのお宅のおばさんにしっかりお灸を据えられてそうよ! がはははッ!ざまーみそ汁!


こら!お行儀悪い!という母の怒鳴り声が響いた。


それから数日間後。帰宅時。


「あれ? ここにあった私のポテチは?」

「…………、え?」

「まさか、あんた……。」


名探偵の目が光る。

「あーッ!それ!お膳の上にあるの、私のポテチ!全部食べてる!」

「ぼ、ぼくじゃないよ!食べてない!」

「…って言いつつ口の周りべったりお塩が付いてるじゃない!」

「…………。う。」

「まったくもー!嘘つくんじゃありません!」


――……。ほらね。嘘だって、つくでしょ?


小2、まだまだ暑い、秋のある日。



φ



一年間の学校行事も、もう三周目だ。


初めて、親友ができた。


毎週水曜日の昼休憩には、もう名前は忘れてしまったけれど、『みんなで元気良く外で遊びましょう』みたいな時間が設けられていた。

今日はみんなでドッヂボールをすることになっている。私はわりと得意な方だった。逃げるのも投げるのも結構うまかった。みんなで、教室に一個置いてあるやわらかいボールを持って校庭へ向かった。


ふと、教室の方を見た。理由も忘れた。とくに意味もなかっただろう。カーテンが勢いよくなびいたからかもしれない。


そこにたった一人、少女が座っていた。休憩が終わってからある掃除の時間のために、教室の後ろに下げられた机との間に自分が座れるだけの空間を空けて。椅子に座り、あくまで自分の感性かもしれないが、小学三年生が読むとは思えないような、分厚い本を読んでいた。


それが妙に気になった。


その日は、散々だった。すぐにボールに当たるし、外野ではまともに投げられなかった。あんなヘロヘロ球に、誰も当たらないだろう。


なぜかいつも、二階の教室の窓になびく、あの日に焼けたカーテンに目が行ってしまった。


いつも、昼休憩の終わる十分前には切り上げる。これが暗黙の了解だった。その後はわずかな時間だが、自分たちの自由時間だった。


教室に走った。今日はボールを片付けるジャンケには勝ったのだ。だから、誰よりも早く教室にたどり着けた。


あ。いる。


あの分厚い本を読んでいる、眼鏡の少女。学年は全部で一クラス、十四人程度のクラスメイトしかいないのだ。名前は三年目となれば全員覚えていた。


「――さん。」


呼ばれた少女はゆっくりと顔を上げた。


「……、なに?」

「あ、えっと…。」

ぶっちゃけ何も考えずに声を掛けた。自分はいったい何のために声を掛けたのだろう。

「その…。」


歯切れの悪い私を、彼女は不審に思ったかもしれない。でも私が言うまで、じっとこっちを見て待っていてくれた。


彼女の持つ本に目がとまった。頭より先に口が動いた。


「分厚い本だねっ。」

「………。うん…。」


失敗だった。


「な、何ページくらいあるの?」

「………。」


少女は何も言わない。五秒ほど沈黙があった。無視されたかな、と思い始めた頃、彼女は今読んでいるページにかわいらしい押し花のしおりを挟んで、最後のページの 下あたりを見た。


「五百二十四ページ。」

「…………。そっか…。」


『小三が読まないくらい』というのは、自分だけの感性じゃないような気がしてきた。


それにしても、話しかけられたらすぐに反応すればいいのに、と少し思った。自分が問いかけて、すぐに何か言ってくれないと、無視したとか、シカトしたと言われてしまうだろうに。


こちらが少し待てばいいのだが、短気な平成の世の小学生にとって、相手の反応を待つ五秒はもはや一時間にも等しい。それに女の子の話というのは、五秒もすれば話の内容は、とうに別の話題に移っている。「ていうか~」とか「話変わるけど~」と言えば、前の話題と何の関係もなくても受け入れられる。それなのに話題の変わった後で、以前の話題の話でもしようものなら、「あんた、何十年前の話をしてんのよ」という目で見られてしまうのだった。

それには俊敏な対応が求められる。小学生とはいえども、結構大変なのだよ。


「あの子、私らのこと無視するよね。」と、すれ違った女の子から聞こえた。その女の子たちの視線の先には、教室で、もう新しい本を読んでいる少女だった。


無性に腹が立った。


(あんたが短気なだけだろ。)


心の中で毒づいて教室に入る。きっと少女にも聞こえていただろう。だけど、少女は何も言わない。ずいぶん前に、彼女とクラスの女子とでトラブルになったことがあった。理由なんてもうみんなが忘れるくらいの些細なケンカだ。だけど、相手の女子は、必死こいて周りの女子に、いかに自分が悪くないか、相手にすべて非があるということを言いふらした。みんながそれに面白いくらいにのった。本当に些細なケンカなのに、どちらも悪いのに、いつの間にか彼女がすべて悪いということになっていた。本当にあっという間に。周りの女子は、その女子の話のみを信じたその女子は何とか自分の見方を作って、ほっとしていたようすだった。


集団生活の中で、見方を多く作ることは、とても優位だ。それのみが勝負だった。相手は、そういう意味ではとても頭が良かったのだろう。


少女は、結局最後まで何も言わなかった。仲間を作ろうとはしなかった。でも、彼女の頭が悪いわけじゃない。ただ、自分自身に恥じないように振舞っているように見えた。


ただ黙って見つめるその先を、見据えるような目でその相手を見ていた。しかしそれは、ああいった環境の中では向かないのかもしれない。それでも、ケンカの相手みたいに、必死に、アタフタして、オドオドするようなことはなく、下を向くことすらなく、ただ堂々 と、凛としていた。


そういうところに、あこがれたのだと思う。



それからなんとなく一緒にいる時間が増えた。


今まで自分は、似たような人たちが集まって友達になるんだと考えてきた。だって周りを見たってそうだ。運動ができる子、勉強ができる子、両方できる子、苦手な子。どこかみんな自分と似たような成績の子と集まっているように見えた。


でも、私たちは違った、ような気がする。


自分は運動ができるわけでもないし、勉強も普通だし、どちらかというと学校生活のほとんどが苦手科目だった。


でも彼女は、勉強も出来たし、運動も出来た。絵もうまくて、ほとんどが得意な分野だったと思う。


ある日、彼女と一緒に図書室に行ったことがあった。


「ね。何かおすすめある? おもしろいやつ」

「じゃあ、これ。おもしろいよ」


もう名前も忘れてしまったけれど、最初にすすめられたのは、四百ページほどの冒険モノの本だったはずだ。小学校の図書室にあるのも不思議なくらい周りから浮いて、見た目からして結構分厚い。


「…いや、もうすこし手軽なやつを頼みます……。」


特にイラストは、クラスの群を抜いていた。コンテストにはいつも成績を残してきたし、ほんとに、凄かった。なにより彼女の絵を描いている姿は、すごくかっこよかった。


あたしもあんなふうになりたいって、がんばって、二人でたくさん絵を描いていたね。


――――憧れ、というのだろう。この気持ちは。そして、この気持ちがあったから、ケンカすることもたくさんあったけど、きっと、ずっと一緒にいたんだね。


夏の暑い日は、図工室には行きたくなかった。風通しが悪いからだ。とにかく暑い。


今日は先生から題材が発表された。『スーホの馬』という絵本の朗読を聴いて、それから思いうかんだ情景を絵に描く、というものだった。


いつもは一時間の半分くらい悩んでいるのに、今回はすぐに思い浮かんだ。思い浮かんだそれは、我ながらなかなかだと思っていた。


ストーリーは大体こんな感じだったと思う。


スーホという少年のところには真っ白い毛を持った馬がいて、ある日それを気に入った権力者にその馬をとられてしまう。その後なんだかんだあってその馬は死んでしまうのだが、ある日スーホの夢に出てきた馬は、「自分の体の一部を使って楽器を作ってくれ」と言った。それが何語だったかは置いておいて、その馬の体の一部を使った楽器には馬の頭の装飾があしらわれ、スーホの手でずっと弾かれていたとか。


そのスーホの馬が死んでしまった夜の明けに、スーホの夢に馬が現れたというのを聞いたとき思い浮かんだ。


馬が朝日を浴びながらこちらを向いて微笑んでいる図柄だ。

我ながらいい案だと思った。


だっていつも悩みに悩んで図柄を決める自分が、電撃のようにその絵が思い浮かんだのだ。よし、これでいこうと思った。自分の思い浮かべるようにはなかなか描けなかったが、なんとか完成した。


そして、出来上がった作品は、教室の後ろに掲示された。


え、と思った。


私の作品の二つ隣に、彼女の作品が飾られた。その作品は、私と同じような色使いで、背景は同じような薄い青が淡くオレンジ色に塗られていた。ほぼ同じ構図だった。


「…………。」


黙って彼女のほうを見た。

彼女は回りにうまいね、とほめられて、まんざらでもないように笑っていた。ふと、彼女の視線が自分とぶつかった。


「………。え。」


彼女の視線が、自分の絵を見たのが分かる。ひどく動揺したような素振りだった。


だけど、どこかわざとらしく見えたのは、私がはじめから彼女を疑ってかかっていたからだろう。だってどう考えたっておかしいじゃないか。自分の構図とまったく同じ絵を、自分の近くの席で作業していた友人が描いた。


しかも自分は、うれしくてつい彼女に、思いついた構図を話していた。『朝焼けをバックに白い馬が笑っている』と。


彼女との実力は差があった。それが同じ構図で同じような色合いの絵で比べたら、それがありありと見る側に伝わる。


それは彼女を褒め称えていたクラスメイトの態度に、何よりも分かりやすく示された。その表情から、明らかに後から彼女の絵を真似たと思われていることと共に、その疑いの視線は、どこか自分の絵をあざ笑うようなしぐさのように見えた。


腹立つ。胃がムカムカする。


自分は、彼女を見た。どういうことなんだ、これは。という目で。それはきっと彼女にも伝わったと思う。


訳が分からなかった。でもどこかで自分は確信していたと思う。自意識過剰でもなんでもなくて、『彼女が、自分の絵をパクった』と。何か答えてほしかったわけではない。とくにほしい言葉もなかった。


「……………………………。」


彼女は、何も言わなかった。


「……………………………。」


彼女のことが、少しだけ、嫌いになった。


それから、なんとなく気まずくなった。いつの間にかクラスでは、自分が彼女の絵をパクったことになっていた。しばらくしたらそのうわさも収まったそのうわさが立ったのも、彼女がけしかけたように見えた。彼女の周りにいた人たちの間で噂されていたからだ。今は絵をパクったかどうかという事実よりも、その噂のほうがいやだった。言われる度に、『いやだな、違うのに』と思う。でも言ったところで、その人たちにはただの言い訳にしか聞こえないだろう。どうにもならないので、こちらが耐えるしかないのだった。けれど、どうも心の中で怒りの収まりが付かなくなると、それを母親に愚痴ったこともあった。一通り話し終わって、すっきりした頃。今までうんうん、と私の愚痴を聞いてくれた母は、そのとき、たしかこういったと思う。


「ふーん。でもね、あんたは、――さんがパクったと思ったかもしれないけど、――さんは最初から似たようなこと考えてたかもしれないじゃんか。」


いつもは自分の愚痴を黙って聞いてくれる母だが、今回は自分の話を遮って言った。それに自分は、そんな偶然があるもんか、と答えた。


「わかんないよ、そんなこと。あんたは、他人の考えてることなんて分からないんだから。ましてや、――さんが噂を流したかなんて分かんないよ。」


そりゃ、分かんないけどさ…。と思った。


「思い込みかもしれないじゃんか。」


そして、こう付け加える。


「母さん、あんたの話しか聞かないから分かんないけどさー、そういう子なの? ――さんって。」

母がどういうつもりでそういったのかは分からないが、なんとなく、船越さんの言葉と共に、私の心に残っている。



母に言われたからわけじゃないけど、なんとなく、考えてみたことがある。


あれ? と思った。


なんだかおかしいなと思う。絵をパクることもそうだが、みんなをけしかけて、噂を広めたなんて、どうも彼女のイメージとはかけ離れていたように思う。


―――あれれ?


あの、天気のよい昼休憩に1人で、教室で本を呼んでいた子が。

あの、こちらが問いかけたことに必要最低限しか答えないような子が。

あの、人と話すとき、すぐに答えられないような子が。


―――彼女は、そこまで器用だったっけ。

小学生とはいえど、世は平成の荒波を逞しくくぐり抜ける小学生である、大概みんな、その程度の腹芸は楽勝で出来ることだ。しかし彼女は、そういったタイプとは違うような気がする。それに、何もしなくとも、噂はかってに広がるものだ。


―――そんなに、器用だったっけ。


「……………。」


やっぱり、本当のことなんて分からない。だって彼女は何も言わない。あの件から時間もたっている。いまさら彼女に聞くのもなんだかなー、と思った。


「……………」


静かな部屋に、蝉の鳴き声が外から入り込んでくる。やたら音が大きいと思ったら、蝉は網戸に張り付いていた。あれは、ヒグラシだろう。もう、夏も終わる。


翌日。今までなんとなく気まずくなっていた自分たちだったが、いつ、どういう風に仲直りしたかは忘れてしまったが、しばらくしたらけろっとしていた。


なんだか、今まであんなに怒っていたのに、彼女が言うなら、というような気がしてきた。それを姉に話すと、「こんなことじゃ、きっと将来男に騙される~、」と姉に笑われた。なんじゃそりゃ、と笑った。


結局、何も聞かなかったけれど、自分の『人を見る目』を信じていようと思う。


小3、夏。



φ



そして、時は過ぎていく。楽しいことも、つらいことも、走り抜けるように通り過ぎていく。

少女は少しひねくれつつ、いつの間にか、入学したての自分のすぐ前を歩いていた背の高い最上級生と、同じ季節を迎えていた。



φ



夢を見たんだ。淡く燃えるキャンドルの火を両手で包んで、吹きつける風から守っている夢だ。なぜかは分からない。


右手の指と左手の指を、わずかにでも離すことのないように、びっちりとくっつけている。いつもの明るさなら、誰にも気づかれないくらいの、淡い光だ。


―――いいよ、もう。消えちゃう。もういい。放っときなよ。


誰かが言った。しかし、少女は答えない。必死にその火が消えないようにしている。綺麗な水色の、ロウソクというよりキャンドルだろう。だけどそれはとても細く、火も小さい。大きな風が吹けばひとたまりもない程に。だけど、吹き付ける風にユラユラと揺れながらも、その火はなんとか消えないでいる。


少女が一瞬目をやった先には、それを挟んで正面に一人の少年がいた。その少年はただ、その光景を見ていた。今にも消えてしまいそうな火を見ている。手伝って、と少女は言うのに、だけど少年は、ただ立っていた。少年の口角が少し上がる。こんなに近くにいるのに、柔らかな光があるだけでは、顔も良く見えない。だけど少年がこちらを見ていることは、なんとなく分かった。


少女の、手伝って、という言葉に、少年は優しく言う。


―――だめだよ。お前一人でやらないと。


先ほどの声とは違う声。


一人じゃ無理だよ。手伝ってよ…。そう言っても彼は、


―――だめだってば。お前一人で頑張んなよ。


自分たち(・・)は、そばで見ていてあげるから。少年はそう言って、また微笑むのだ。

『たち』? と少女が聞き返す。しかし、それを最後に、意識がそこから遠のいていく。



ジリリリリ。勢いよく目覚ましがなった。それに驚きながらも、ゆっくりと体を起こす。


「変な夢…」


ていうか、誰だあいつは。


夏休みといえば、遅寝遅起き。それこそが夏休みの特権というやつなのに、ラジオ体操というものがあるために、平日は毎日、普段の学校のある日と同じくらいの時間に起きなくてはならない。しかも部落でたった一人の最上級生の自分は、部落長というこども会の会長と、登校班長も掛け持ちしていた。毎日、ラジオ体操に出席した人のラジオ体操カードに印鑑を押すのも、重いラジカセを持っていくのも自分だ。それも確かに面倒だったが、もっと面倒なことがあった。下級生の中に、言うことを聞かないガキんちょがいた。でもまだ何とかやっていけていた。下級生たちの中にむかつくガキんちょがいた。でもまだ我慢に我慢を重ねてなんとかやっていけている。しかし、しかしだ。


下級生たちの親とまで、うまく立ち回っていけるほど、器用ではなかった。


夏休みといえば、年間の中で子ども会の行事のたくさんある月でもある。たった一ヶ月ほどの休みの間に、部落会が二回、自転車講習会にお楽しみ会、そして毎日のラジオ体操。小学生だけが集まっているのだから、そのすべてに親が介入してくる。  それで助かっていることもたしかにある。しかし、なんというか、それぞれ親御さんはお子さんを大事にされているが、私の考えや力量が、それに及ばないのだ。そしてそれを攻められたりもした。そんでもってそれぞれの親御さんが言っていることが違うのも面倒の種だった。とにかく我慢、我慢の日々であった…。


子供がひざをすりむいて帰ってくれば、自分の家にやってきて、理由を聞くまではまだ良かった。


「―――ちゃんは、下校していたときに石ころにけっぱんづいてコケたんです」と答えると、「ちゃんと見てなきゃだめじゃない!」と、すごいケンマクで怒られた。自分の十メートルも後ろを歩いていた子がコケるのを、どうしろって言うんですか…。と思ったが何も言えず、黙ってその親御さんのお話を三十分近くも聞いていた。


自分が低学年の頃はそんなことはなかったはずなのに、自分が上級生になってからはひどかったと思う。みんながこれを乗り越えて行ったのだろうか? だとしたら、意外と大変だったんだな。自分には、あの人たちはただ威張ってるふうにしか見えなかったが。


あるときには、集団イジメを疑われた。


ある日の暮れ、それぞれが家路についていた。通学路の途中までは一緒に帰らなくてはならないが、それぞれの登校班の集合場所までいけば、あとは解散し、自由にそれぞれが帰っていいことになっていた。


 その日、たまたまある女の子の友達が風邪で休み、その子は一人で帰っていた。もう解散した後だったので、なんらおかしいところはない。そのすぐ前を歩いていた弟を含む男子三人と妹は、楽しそうに話しながら帰ったという。妹はその女の子の同級生だったし、もちろん男子三人とだって、女の子が話しかけてあっち行けと言うような間柄ではない。もし話しかけていたら、なんでもなく話の輪に入れただろう。


しかし、その光景を見ていた近所のおばさまは少し、大きな勘違いをしたようだった。


―――集団イジメだ!


おいおいおい…。突拍子もないその発想に、聞いたときにはため息すら出た。


それからがまさしく修羅場だった。


噂を聞きつけたその女の子のお母さんは、即、小学校に出向いたらしい。まったくそのことを知らない先生は、元よりそんな事実はないのだからそれも当然だが、母親が怒鳴り散らすものだから、これは相当のことだと、女の子の担任と自分の担任は自分を呼び出した。


自分の担任は黙ってそれを見ていた。だから質問のすべては女の子の担任がしていた。


まずは、その事実があったかを聞かれた。

もちろん、ない、と答えた。

また、聞き返された。

当然、ない、と答えた。


また、また、また。何度同じことを聞かれても、すべてに、ない、と答えた。すると、女の子の担任は、はー、と深いため息をついた。

何なんだ、一体。そう思った。


「そういう事実を、先生は絶対に許しませんから。」


そう強く言われた。まっすぐと、こちらを見ていた。その視線には、軽蔑、苛立ち、そんなものが含まれていたと思う。


――なんだ、 それは。


なんだ、それは。おかしい。今までなんて自分は言ってた? 聞いててくれた? つまりそれは、自分の今まで何度も聞かれて何度も答えたそれは、はじめから信じてもらえなかったということか。自分の言っていたことは、すべて無下にされた。


ふと、周りを見た。先生たちは、黙々と仕事をしている。黙々と、黙々と。これだけの人がいるのに、女の子の担任は結構な声を出していたのに、誰もこちらを見ていなかった。仕事中なので、当然なのかもしれないが、それすらも辛かった。


それからは、何も言わなかった。だって、どうせ何を言っても無駄でしょう? 先生は何度か私に、質問に答えるように言った。笑えた。それでも何も言わなかった。


「もういい。教室にかえりなさい」

「…………。失礼しました。」


教室に帰るとき、悔しくて、悔しくて仕方がなかった。


こんな屈辱は耐えられない。


 あの女の子の母親は、思い込みが激しい性格というか、娘は母親に強く出られない性格だった。実を言うと自分は、あの母親は、なにかの病気なんじゃないかと思っていた。どこか頭が病んでいるとか…。あの母親は、自分の思い込みだけで人の家に怒鳴り込んで来たり、その場にすらいなかった、関係のない揉め事に、最上級生だからと言って怒ったりということもあった。つまり根本的に筋が通っていないのだ。ついにはこんな大事に巻き込まれてしまった。


そんな性格の母親がバックについていると思ったら、それだけで敬遠気味になってしまう。自分がそうだった。別に中が悪いというわけではない。しかし、ある程度距離を置いて接してきた。周りだって、それを微妙なニュアンスではあるがなかったとは言わない、今回はここまで大事になったのだ、それが悪化してしまうのではないかと思った。


正直、それは仕方がないのかもしれないと思った。


ある日、何もないのに、小石が勢いよく車道に転がった。斜め後ろから斜め前へ。道端に落ちている石をむやみに蹴らないようにと、生活指導の先生に言われていた。だから、誰だろうと後ろを向いた。すると、あの女の子の母親が、車窓から顔を出して、こちらをものすごい形相で見ていた。「今日は、先に言っていてくれ」と言った女の子は、車の後部座席に座って、頭をたれていた。


―――あの人が石を投げたんだ…。


普通ならそんなことはありえないのに、なぜかこのとき直感した。先程も言ったように、あの母親は、どこかおかしいと思っていた自分は、あの人ならやりかけないと思ったのかもしれない。


私が立ち止まったことで、班全体が動きを止めた。下級生たちは不思議に思ったのだろう、私の見つめているほうを見る。


あの事実だとされた問題が起こったあと、先生に呼び出されたのは私だけだったらしい。ほかの子に聞いたが、今の状況は部落のおしゃべりなおばさまたちのおかげで、だいたい把握しているものの、今のところ誰も呼び出されていない。ということは、あの母親は、私が周りの下級生をけしかけたか何かをして女の子をイジメたと考え、それを先生に言ったと考えるのが妥当だった。


いや、ぜんぜん妥当ではないんだけれども。よく考えれば、つじつまが合うわけもないことなのだけれども。それが通ってしまったのが、なんともおかしい。


―――自分に石を投げた。


こういうことは、理屈でどうこうという問題ではない。勘で、そうだと思った。ずっとあの母親と目が合いっぱなしだ。あの人は自分を睨んでいる。

自分は登校班長で、列の一番前を歩く。つまり、後ろには下級生たちが列を成して歩いていたということだ。自分の後ろには十人もの児童が歩いていた。


ここまでくると、相手の正気すら疑う。


「…………………。」


悪寒がした。


「行こう………ッ。」


振り向いたままのみんなを促す。逃げないといけない、と思った。あの人は頭がおかしいと。狂っている、とさえ思った。


やっとみんなが、好奇心を振り切って歩き出してくれた。自分の後ろを歩いていた1年生の女の子が自分に向かって言った。


「――ちゃん、顔、真っ青だよ?」


「………、だいじょー…」


応えを言い切るかどうかという、そのとき。


「ウチの子を、イジメんで―――――ッ!」


そう、いきなり叫ばれた。後ろから、その声は山の峰の道では、よく響いた。そういうとその母親は車を走らせ、結構はスピードで私たちを追い抜いていった。


「………な……。」


その声には、みんなもかなり困惑しただろう。ざわめく。その中の一言が、今でも耳にとどまっている。


「なんだ、――ちゃんチのおばちゃんか。」


どこかあきらめたような、またか、というような声だった。みんな女の子とは長い付き合いだ、その母親がどういう人か大概のことは分かっている。


あの母親のやることなすことが、すべて裏目に出ている。


ある日、女の子に、男子の一人が言った。


「ちゃんとお前の母ちゃんに説明しろよな。」


もちろん、あの誤解のことだ。その女の子はただ、黙ったままで、何も言わなかった。あの朝から、なんとなく周りとは距離のようなものが見え始めた。やはり、みんな敬遠気味になっている。こういうことは、誰かが何か言ったら即どうこうなるという単純なものではない。


今まで、なんとなくうまくいっていたのに。誰かの誤解や、思い込みや、無責任にふれまわった間違いや、自分が正しいと思う傲慢さや、いろんなものが。


そのせいで、誰かの立場が、危ぶまれる。


 その噂は、あっという間に全校の親御さんに、さも事実のように広まっていた。それは薄々かんじていたけれど、それが、はっきりと示されたことが一度だけあった。


 たしか親子会か何かだったと思う。六年生の親子会。何をしたかはもう忘れてしまったが、とにかく体育館に集まった。


それは、体育館の重たいドアを引いたときだった。そこは、もう古くて、ドアを引くたびに音が大きく体育館に響く。


今でもはっきりと覚えている。『しろい目』、というのは、こういうものなんだなって、ぽつんと思った。


冷ややかで、蔑みと怒りのようなもの、そんなものが混ざったその視線は、一気にあの頃の自分の、まだ小さな体に注がれる。


それでも、あの頃の自分は、きっととても強かったんだろう。


堂々と進んだ。


周りの大人にどれだけ睨まれても、別に誰かを睨み返したりしなかった。理由は単純。相手の数が多すぎたから面倒だったのだ。蹴飛ばされることも、肩をぶつけられることもなかった。足を引っ掛けられることも。だから別に何も仕返さなかった。理由は単純。誰も自分のそばに寄らなかったからだ。されることはだたにひとつ。ただ冷淡であることだけだ。その冷ややかな目には、あの頃の小さな自分が映っている。


誰かが、自分の肩をポン、とした。正直ビビッた。身構えたけど、何もされなかった。お母さんだった。


帰ろうか。とお母さんはそれだけ言った。別にいい、と答えた。それでも母は帰ろうと言って自分を引っ張った。


体育館の渡り廊下のところで、先生とすれ違った。お母さんは先生に、「私の体調が悪いので帰ります」とだけ言うと、すたすたと歩き出した。先生は私に、「そうですか。じゃあまた月曜日。」とにっこり笑って言った。私は、「はい」と答えた。


内心、どういうつもりで言ってんだよ、と思った。何気ない挨拶なのになぜかカンに触った。先生はまったく悪くないのに。とても苛立ってたんだろう。きっと。


ふと、考えたことがある。あの光景は、他人から見たらどういう風に映ったんだろう、て。


あの、児童も含めて三十人くらい居た体育館で、三十、四十歳あたりの、世間で大人とされるオトナたちが、あの頃の自分の背丈よりも、だいぶ高いオトナたちが、たかが十一歳そこそこの小娘相手に睨みをきかして、目の前で本人に聞こえるような声で、悪口言ったり、あの子ともう関わっちゃいけませんと子供に言い聞かせたりするような、そんなところを。


そういうの、何て言うんだっけ…?


「あの子集団イジメしてたんだって」と周りの親御さんと話しながら、こちらを睨みつける女性。遠巻きにこちらを冷ややかに見つめる男性。きっとこの中には、そういう人ばかりではなかったかもしれないけれど、そういうものばかりがやたらと目についた。


―――自分で、自分の額が見えないのと同じ。


児童玄関から靴を履き替えて、外に出た。その日は風が強くて、自分のショートの髪が勢いよくなびく程だった。


外に出ると、一気に何かの栓が抜けたように、振った炭酸飲料の缶を開けたとき中身が噴出すように、あふれ出してきたのだ。


ひどく熱があるように、まぶたが熱い。どんなに力を入れても、声はつむんだ口から漏れ出す。声は強い風に阻まれてか、母には聞こえなかったのかもしれない。母は振り返らずに、ただ強く手を握り締めていた。


それを感じる頃には、もうすでに顔中が濡れて、風がそれを乾かせるまでには、時間がかかりそうだった。



あの女の子は、母親が石を投げた日から度々、一人で家に帰ることがあった。解散した後だったので、誰も気にも留めない。もちろん自分も、いや、自分は、気づいていて声を掛けなかったのだから、もっと性質が悪いかもしれない。


別に、いやな思いしたのは女の子のせいだけではないのかもしれないけれど。「彼女がちゃんと親に言ってくれればこんなことにはならなかった」と思うと、どうも腹が立ってしまう。


『だって、しょうがないじゃんか。』そう思った。


ふと、後ろを見た。理由なんてない。もしかしたら心の奥で、あの、一人ぼっちで帰る元凶のあの子を嘲笑っていたのかもしれない。自業自得だと。


夏も終わりだというのに、まだまだ暑い中で、アスファルトの照り返しのきびしい通学路を、ぽつんと歩くその小さな女の子は、こちらを見ようとしない。ただ地面だけを見て、歩いている。ひどく危なっかしかった。いつ転んでもおかしくないくらいに。


水滴が女の子の服の胸の辺りに、大きな染みをいくつも作っていた。その染みは増え続ける一方だ。


―――どこかで、聞いた話だと思った。


ひどく遠い昔だった気がする。いつかの、夏の話。


――――『どんどん、背中が遠くなっていく。

小さくなっていく。

視界がぼやけていく。

どんどん、ぼやけていく。………。』


「…………。」


また、女の子の服の染みが増える。


―――『ぼやけて、ぼやけて、近くの景色の輪郭さえも、見えなくなってしまう…。』


「………。」


それでも、声を掛けられない自分は、

女の子を、“自業自得だ”と思った、冷ややかな自分は、

あれだけ、あの人たちを、最低だと罵った自分は、


『集団イジメだって。』『よく顔が出せたな。』『()んかったらいいのに…。』『あんな子が居るところに、子供を通わせられんわ。』『折角の親子会なのに。あんなのが居ったらいけんわ。』『よく先生も、あんな子放っとくな』


“アレ”と、同じなのかな?


―――自分の額は、自分では見えない。見るためには“鏡”が必要だ。しかも、いつもその鏡はひどく曇っていて、その場その時には、見えにくくて自分からでは分からない。


洗面台の鏡が、ガラスの片面にアルミニウムや銀なんかをつけて出来ているなんてことはこのときは知らなかったけど、とにかく磨いて出来ていることは知っていた。


流れていく時間の中でいつの間にか、“あの頃の自分”も、“あの頃の誰か”も、半透明にだけれど理解することができるようになっていたのかもしれない。


その鏡のようなものだけで、自分を測れる、とは言わない。けれど、“アレ”だけは、嫌だった。あんな年のとり方はしたくないと、あんなオトナになるのは嫌だと思った。


なりたい姿がある。


いつかの、憧れた姿のような。ただ、自身に恥じないように振舞えるくらいの強さを持ち合わせた、凛とした、彼女のような子になりたいと思っていた。今でも思っている。

なのに。それなのに。


―――それが許せなかっただけなのかもしれない。


「ねえ。」


口調が強張ってしまったかもしれない。決して好意的とは取れないような口調だったかもしれない。


「…は、はい。」


女の子は、あわてて応えた。

“一緒に帰ろう”とは、さすがに言えなかった。それでも。


「……もっと積極的に周りの話しかけた方がいい、よ。」


暗に、『自分以外に 』、と言っていた。それでも…。


「………。」


女の子は黙っていた。


それからすぐ、どういう経緯かは知らないが、誤解はあっという間に解けた。なぜかは分からない。


クラスの親御さんも、拍子抜けするくらいに、不気味なくらいに、態度がガラリと分かった。正直ほっとした。いつまでもあの冷ややかな態度をとられても困るからな。



―――ただ、守っていけばいい。


吹き付ける風に、負けないくらいに、指と指をぴったりとくっつけて。火の勢いは弱まってしまうけれど、そうしていれば、火は消えたりしない。

風は何もしなくても吹く。それはだんだん強さを増してくる。所詮それを止めることなんて出来ないのだから。


ただ、守っていればいいのだ。



―――それにきっと、風もない静かなところで、勢いよく燃える火は、あっという間に、ロウが尽きてしまうでしょう?


 小六、夏。



φ



近くの神社。年の明けた午前1時くらいに、そこに初詣に行って、お菓子の詰め合わせとあったかいお汁粉をもらって帰ってくるのが常だった。参道は、あぜ道を広げたような、人とすれ違うのも大変な道だ。その道には、小さなかまくらの中にロウソクを立てて作った、手作り灯篭が置かれていた。それはとても幻想的で、寒い中でも毎回、そこを通って詣でるのが楽しみだった。失敗したことも多々あったが、眠くても頑張って目を擦りながら起きていたのを思えている。


『高良神社』と描かれた鳥居をくぐると、ちょっと危なっかしい、十段ほどだが石段がある。そこを上ると、石でできた道がまっすぐにお(やしろ)へ続いている。小さな頃から感じていたが、そこはなんとも不思議な空間だった。今まで汗だくになるほど暑かったのに、そこにいけば一気に気温は下がっているし、なんとも言えない感覚のする場所だった。小さいころは恐くて仕方がなかった狛犬が両サイドに見ながらお参りをするのだ。


「……………。」


 私は女の子同士で遊ぶより、男の子と遊ぶほうが性に合っているらしかった。今日みたいに暑い日はいつも、お社の上がりぐちに腰掛けて涼んでいた。


 『秘密基地』とか言って、敷物を持ってきてお菓子などを食べたり、秘密会議と称して、いたずらを考えたりもした。結局実行はしなかったけれど、計画というものは立てるだけで面白いものだった。


 

 すぐそばには、大きな御神木がある。立派な木の幹には、揺れる木漏れ日が映って、蝉の音が耳に響く。


大きく広がった枝についているたくさんの葉が、太陽の光を浴びて光る。風が強く吹いている。御神木の大きく広がった葉がそれになびいている。その度に木の葉の間から光が漏れて、地面の湿った土を照らし、その光の筋ははっきりと見え、その空間をより一層幻想的にしていくのだ。


 御神木に沿って上を見上げた。


 木の葉に遮られ、青空は見えない。見えるのは、差し込んでくる眩しいくらいの光だけだ。その光のせいで、空は見えない。だから自分の思い描く空ばかり、そこにあると信じている。だけど、たしかに、そこにあるのだろう。光は差し込んでくるのだから。確かに、そこにあるんだ。無数の木の葉に隠れた空に浮かぶ、決して揺るぐことのない、大きな“火”も、その両手の中にある、いつ消えてしまうとも分からないロウソクの小さな“火”も、所詮同じ“火”なのだから。



 ―――守っていればいいだけだ。


たとえどんなに情けなく泣いたって、どんなに情けなく、ビビッて立ち止まっていたって、風がどんなに強く冷たく吹いても、ただ守っていればいい。


その細い細いロウソクの淡い光。

そうしていればきっと、消えないのだ。



人は、変わる。それらを取り巻くものだって変わる。

空の色が、青から赤にゆっくりと変化していくように。

通り過ぎる雲の形をいつまでも覚えていられないように。

それらは、記憶を重ねるたび、深みを増していく。濁りとも受け取れるそれを、オトナになるっていうのだろう。

だけど、変えてたくないものもある。忘れたくないこともある。


いつか味わった苦い記憶が、“今”の自分を支えているのなら・・・。これからの、負けないでいるための原動力になるのなら・・・。

それはきっと、無駄じゃなかったと言えるのだろう・・・


 ―――ただ、守っていればいい。それだけだ。



 始めまして。橘 紡、です。読みはタチバナ ツムグ、といいます。

 初めて投稿させていただきます。どうか温かい目で見てやってください。



さて、実はこの作品、橘の処女作でございます。

至らないところだらけですが、どうかどうか温かい目で・・・。

まだまだ未熟ですが、少しでも楽しんでいただけたら幸いです。


これからも、ちょくちょく投稿したいと思います。一生懸命がんばりますので、よろしくお願いします!



次は純愛モノにしてみようかな、と思っています(未定)。


最後に。作品を最後まで読んでくれた貴方に、愛と感謝を込めて。また、めぐり逢えたら、嬉しいです。

今後の作品もぜひ読んでみてください。




橘 紡


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