フィラー
リヨンでの用向きを終えた一行は、再び蒸気機関車に乗り込み、次の目的地へと向かっていた。ガタゴトと規則正しく揺れる車内、玉木の向かいの席には、一人のフランス人女性が座っていた。
名をフィラといった。透き通るような白い肌に、落ちついた薄青のドレス。窓の外から差し込む陽光に黄金色の髪が光り、玉木は思わず息をのんだ。
(……美しいお方だ。)
思わず見とれていた玉木だったが、視線に気づいたフィラがふっと優しく微笑むと、気まずくなって慌てて咳払いをした。どうしても声をかけてみたく housekeeper(給仕)を呼ぶフリをして、近くの席にいた通訳官のブレッキマンを呼び寄せた。
「ブレッキマン殿、少々よいか。……あのお方と、少しばかり言葉を交わしてみたいのだ。通訳を頼めまいか。」
ブレッキマンは驚いたように目を丸くしたが、すぐに口元を緩めて頷いた。
「畏まりました。どのようなことをお伝えしましょう?」
「そうだな……『見知らぬ異国の地で、あなたのような美しい方と向かい合えた奇遇に感謝する』と……いや、少し気恥ずかしいな。とにかく、旅の途中の挨拶を。」
ブレッキマンがフランス語で滑らかに訳すと、フィラは鈴を転がすような声で小さく笑い、慎み深く返答した。
「『こちらこそ。見知らぬ国から来られた侍の方とお話しできて光栄です』とおっしゃっています。」
それから、列車が次の駅に着くまでの短い間、ブレッキマンを介した不思議で穏やかな会話が続いた。
玉木は日ノ本の四季の美しさや、故郷の山の色のことを語った。フィラはそれを愛おしそうに目を細めて聞き、時にはパリの街に咲く花々の話をしてくれた。言葉の壁を越えて、互いの心がふんわりと寄り添うような、淡く切ない時間が流れていた。玉木は胸の奥がほんのりと温かくなるのを感じていた。
やがて、汽笛が長く鳴り響き、列車の速度が落ち始めた。玉木たちが降りる駅に到着したのだ。
立ち上がりかけた玉木だったが、どうしても名残惜しく、彼女の瞳をまっすぐ見つめて尋ねた。
「最後に……お名前を伺っても宜しいか。拙者は玉木三弥と申す。」
ブレッキマンがそれを訳すと、フィラはどこか寂しげな、けれどすべてを悟ったような微笑みを浮かべた。
「私の名前はフィラ。……でも、あなたは今後、私のことは決して思い出さないわ。どんなに望んでも。残念だけど。」
ブレッキマンの通訳を聞き、玉木は思わず熱くなって抗った。
「それはない! 斯様に美しく、心通わせたお人のことを、拙者が忘れるはずがなかろう! 日ノ本へ帰っても、生涯忘れることはない!」
玉木の真摯で強い言葉に、フィラは一瞬だけ瞳を揺らした。しかし、静かに首を振ると、もう一度、強く、はっきりと言った。
「いいえ。決して思い出さないわ。」
駅のホームに降り立った玉木は、動き出した列車の中のフィラを探した。窓越しに一瞬だけ視線が交ざり、彼女は寂しそうに手を振っていた。
数日後、玉木はふとフランスでの旅路を振り返っていた。
マルセイユからリヨンへの列車で高木と交わした議論。ルーブルで岩松が撮らせた不機嫌な写真。コンコルド広場のピエロ。
(……待てよ。あのリヨンからの帰りの列車で、拙者は一体何をしておったのだっけか?)
ぽっかりと、記憶に穴が空いている。何かとても大切で、美しい時間を過ごしたような気がするのだが、どうしても思い出せない。
「玉木殿、どうかされたか?」と高木が声をかけてきた。
「いや……何でもない。ただ、妙な虚脱感があるだけだ。」
玉木は首を傾げ、そのまま前を向いて歩き出した。彼の記憶のどこを探しても、「フィラ」という名の女性の影は、もう二度と現れることはなかった。




