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潮騒に混じる咀嚼音 ~四番卓には座るな~

作者: 深水 紗夜
掲載日:2026/06/06


 一

 夏の午後の日差しは、すべてを焼き尽くすほどに白い。

アスファルトから立ち上る陽炎の向こうに、海が光っている。まるで巨大な鏡が傾いているような、目を細めなければ正視できないほどの輝き。その眩しさの縁に、レストラン『シー・ベル』は建っていた。

白い壁。錆びた錨のレリーフ。風に揺れるメニューボード。

観光客向けのガイドブックには「絶景のシーフードレストラン」と紹介されている。しかし地元の人間は、もうひとつの形容詞を小声で付け加える。「あそこはいわくつきだ」と。

バイトを始めて一ヶ月になる。

ホールを仕切る店長の宮内さんは、五十代の小太りな男で、いつも首の後ろに汗をかいている。口癖は「段取り、段取り」だ。物静かで几帳面で、決して声を荒げない人だった。ただ一度を除いては。

初日のことだった。彼は僕をテラス席の前に連れていき、低い声で言った。

「ここだけは覚えておけ」

テラスに出ると、潮風がシャツを膨らませた。テーブルが五つ、等間隔に並んでいる。それぞれに番号が振られていた。一番から五番まで。

「四番卓には、絶対に客を通すな」

宮内さんの指先が、入り口に最も近い席を示した。

そこは、誰がどう見ても特等席だった。手すりのすぐ傍で、遮るものが何もない。弧を描く海岸線、白波、水平線まで続く青——すべてが額縁の絵のように収まって見える。他のテーブルとの違いは、一目瞭然だった。

「なぜですか」

「禁止だ。理由は聞くな」

それだけだった。

僕は従順なアルバイトとして、その禁を守り続けた。四番卓を避け、他の席へ客を通し続けた。繁忙期の週末でも、満席で行列が出来ていても。

ただ、働くうちに気になることがひとつあった。

四番卓の周囲だけが、妙に静かなのだ。

波の音が、そこに近づくと薄くなる。蝉の声も、遠のく。テラスの風鈴が鳴っているのに、その席の傍では音が聞こえない。まるで見えない壁が、音を吸い取っているかのように。

同僚の先輩バイト、沙織さんに訊いたことがある。

「あの席、なんか変じゃないですか」

沙織さんは答えなかった。ただ、曖昧に笑って視線を逸らした。その横顔が、やけに強張って見えた。




八月の最も暑い日のことだった。

気温は三十七度を超え、アスファルトが軟らかくなるような午後だった。店内は冷房が効いているが、入り口のドア付近はどうしても熱気が漏れる。予約客の波が引いた隙間の、わずかな手隙——それが最悪のタイミングで重なった。

老夫婦が立っていた。

七十代だろうか。夫は白髪で背筋が曲がりかけており、妻は薄紫の帽子を被っていた。二人とも顔が真っ赤で、汗が首筋を伝っている。席の空き待ちで、入り口の日向に十分以上立たされていた計算になる。

「……すみません、まだですか」

妻の声は穏やかだったが、かすれていた。疲弊した老人が礼儀を守ろうとしている、そういう声だった。夫は黙って壁に手をついている。

厨房からは怒号に近い呼び声が飛んでいた。宮内さんはバックヤードで業者の電話中だ。沙織さんは別のテーブルに張り付いている。

僕は、テラス席の方に目をやった。

四番卓が、空いていた。

海が光っていた。風が通っていた。あそこなら涼しい。あそこなら二人は楽になれる。それだけのことだった。論理は単純だった。老夫婦は苦しそうで、席は空いていて、他に選択肢がない。

「こちらへどうぞ」

口が動いていた。

二人を四番卓へ案内しながら、自分でも信じられない気持ちだった。足が勝手に動いている感覚。夢の中で走るときのような、自分の意志と体の間に薄い膜が挟まっているような感覚。

夫婦がテーブルにつく、その瞬間。

耳の奥で音がした。

「キィィィィィィン」

鋭く、長く、頭蓋骨の内側を引っ掻くような耳鳴り。僕は思わず耳を塞いだ。しかし音は外から来ていなかった。脳の芯から発生しているような音だった。

二秒ほどで消えた。

老夫婦は気づいていない。満足げに椅子を引き、海の方を向いてにこにこしている。夫が妻に何か言い、妻が笑い返している。唇が動いているのに、声が聞こえなかった。

あの無音の膜が、もうそこを覆っていた。

僕はいつものようにトレーからグラスを二つ取り、氷水を置いた。

「ご注文が決まりましたら、お呼びください」

二人は頷いた。




厨房に戻ると、オーダーの波が来た。

テーブル二番のアジフライ。六番の追加ドリンク。子供のいるファミリーがデザートを呼んでいる。僕は動き続けた。体は動いていたが、頭の片隅にずっと四番卓の老夫婦がいた。

三分が経った。

伝票を手に、テラスへ出る。

四番卓には、誰もいなかった。

一瞬、見間違えたかと思った。目を細め、もう一度見た。椅子は二脚とも、綺麗に引かれていた。テーブルの上に食べかけの料理はない。帽子も、鞄も、ハンカチ一枚もない。まるで誰も座っていなかったかのように、テーブルだけがそこにあった。

ただ。

氷水の入ったグラスが二つ、手付かずのまま残されていた。

氷はまだ溶けていなかった。三分しか経っていないのだから当然だ。しかし老夫婦は消えていた。トイレへ行くにも、一声かけるのが礼儀というものだ。荷物も何もない。まるで、空気の中に溶けてしまったように。

「……あれ、トイレかな」

呟いた。

声が、おかしなところへ消えた。

テラスの風は通っているのに、自分の声が妙に籠もって聞こえた。すぐ近くで波が打ち寄せているはずなのに、その音が遠い。まるで水の中にいるように、世界の音量が絞られていく——

背後から、音がした。




グチャ……。

振り返る。

誰もいない。

テーブルだけがある。二つのグラスだけがある。

ゴリッ……グチャ……。

硬いものを噛み砕く音だった。骨か軟骨か、何か密度のある固形物を、湿った力で嚙み潰すような音。咀嚼の音だった。それは確かに食事の音だったが、どんな生き物の食事とも結びつかなかった。

音は、四番卓から来ていた。

空のテーブルから。

僕はグラスを見た。二つの水入りのコップが、わずかに、しかし確実に振動している。波紋が、一定のリズムで水面に広がっては消え、広がっては消えている。

グチャリ、グチャリ。

音が大きくなっていた。

体が動かなかった。正確には、動く理由が見つからなかった。逃げろという信号は脳から出ているのに、足の裏がテラスの床に根を張ったように離れない。僕はただ、音が大きくなるのを聞いていた。

視線が、自然に下へ下りた。

四番卓の四本の脚が、影を落としている。夏の午後の影は短いはずだ。しかし四番卓の影は、異様に長く伸びていた。僕の足元まで届きそうなほどに。

そしてその影の輪郭が——テーブルの形をしていなかった。

楕円。いや、違う。左右に開いた、弧を描く形。

口だった。

巨大な口が、大きく開いた形の影が、テーブルの下から這い出すように床を這っていた。

グチャリ、グチャリ、グチャリ。

音はもう、腹の底まで響いていた。




「お前——!」

声とともに、肩を掴まれた。

宮内さんだった。血の気が引いた顔で、それでも声を殺して、僕の腕を引っ張った。

「あそこに客を通したのか」

答えられなかった。頷くことしかできなかった。

宮内さんは歯を食いしばり、トレーの上の水差しを取った。そして躊躇なく、テーブルの二つのグラスに近づき、中の水を——床へぶちまけた。

バシャン、という音が広がった。

グチャリ、グチャリ……グチャ……。

音が、遅くなった。

止まった。

テラスに、潮風が戻ってきた。波の音が戻ってきた。蝉の声が遠くから届いた。四番卓の影が、テーブルの形に戻っていた。

宮内さんは水濡れの床を見たまま、しばらく動かなかった。

「……ここの波の音を、よく聞いてみろ」

静かな声だった。

「え?」

「黙って聞け」

僕は耳を澄ました。

ザザーン。寄せては返す波の音。潮騒。夏の海の音。ありふれた、どこにでもある——

その裏に、何かが聞こえた。

……たりない……。

……まだ、たりない……。

声ではなかった。正確には、声に似た何かだった。何百もの音が重なって、波の周波数に紛れ込んでいる。男の声、女の声、老いた声、若い声——それらが溶け合って、波に擬態している。

……たりない……たりない……。

僕は吐き気を感じた。

「……あの老夫婦は」

「もう戻らん」

宮内さんは短く言った。それ以上説明する気はないようだった。ただ、濡れた床をぼんやり見ながら続けた。

「水は飲まれていない」

「え」

「あのコップの水は、手付かずだった。だろう?」

そうだった。氷も溶けていなかった。一口も飲まれていなかった。

「引きずり込まれる時に出た汗だ」

僕は何も言えなかった。

「恐怖で冷えた汗が、コップの水に見えただけだ。あいつらは、そうやって痕跡を残す。次の獲物を引き寄せるために」

宮内さんはそこで初めて、僕の目を見た。

「だから、入り口から一番よく見える席に置く。美しい景色と一緒に。腹が減ったやつに見せるために」

波の音がする。

……たりない……まだ、たりない……。

白い午後の光の中で、四番卓は静かに海を向いていた。特等席として。誰かが座るのを、待ちながら。





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― 新着の感想 ―
まず冒頭の描写で夏の空間に引き込まれました。 ありきたりの表現ですが、 映画やアニメのワンシーンよりも美しく想い浮かびました。 五感をくすぐる圧倒的なまでな文章に感嘆しつつ。 どこか静謐に滔々と進む…
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