7話 恐怖とは
咆哮と共に“それ”は床を砕く勢いで跳び上がった。
その軌道はアリアとアルミアの2人へ向いている。
次の瞬間には、
もう三人の真正面にいた。
「来るッ!」
アリアが叫ぶより早く、
シャドウドラッガーの巨腕が横薙ぎに振り抜かれた。
風圧だけで壁の計器がガン、と鳴動し、床の液体が一斉に跳ね上がる。
「っわ!」
「アル、下がれや!」
アリアとアルミアは反射的に身を引いたが、
その軌道は二人を“正確に狙っていた”。
その時――
「クッソ!」
タリアが二人の背中を強く押し飛ばした。
「班長さん!?」
「下がれッ!!」
叫びと同時、
タリアの身体に、シャドウドラッガーの腕が直撃した。
鈍い衝撃音。
女の細い体が、金属の器具の並ぶ壁へと叩きつけられた。
「ぐ……ぅっ!」
タリア自身自分より体格のある人間と相対したとき体術は訓練、実践も兼ねて心得ている。
タリアは咄嗟に腕を交差し、防御の体勢をとり衝撃を受け流そうとしたものの――
質量が違った。
腕の骨が悲鳴を上げ、衝撃で肺の空気が強制的に吐き出される。
視界が白く弾けた。
彼女は地面を転がり、そのまま仰向けに倒れ込む。
シャドウドラッガーはタリアへ追撃に移る。
影が揺らぎ、巨腕が頭上に振りかぶられる。
(避けろ……! 動け……!)
タリアの脳が叫ぶ。
しかし――身体は動かない。
腕の痺れ、背中の痛み、自分では間違いなく勝てない状況に追い詰められている現象、“恐怖”という生物的な支配が、筋肉を完全に縛り付けていた。
(そうだ!)
タリアは自分がベルトに付けた電撃警棒を構えようとしたことを思い出す。スイッチを入れ投げつければ怯ませることが出来ると考えた。
無い。
ベルトに手をかざすが電撃警棒は無かった。
吹き飛ばされた衝撃で接続部の金具が外れたのか、後悔のような気持ちから自分以外がスローに感じる。
だが体は動かない。
「――させへんよ」
その腕が落ちるより早く。
アリアの拳が横から怪物の顎を捉えた。
鈍い、肉の裂ける音。
シャドウドラッガーの巨体が横転し、床を転がる。
「っしゃあ!」
続くようにアルミアが踏み込み、彼女のブーツが滑らかに地面を蹴り、崩れ液体が漏れ出す顔面へ鋭い回し蹴りを叩き込んだ。
バギィッ!
頭部が不自然に曲がり、紫色の液体が飛び散る。
呻き声とも悲鳴ともつかない音を上げながら、怪物は床に叩きつけられた。
痛覚があるの潰れかかる頭部を抑えるがその力が強く余計に液体が噴出した。
怪物は痙攣するようにのたうち、床に詰まった紫色の液体を――
啜り始めた。
ぴちゃ……ぴちゃ……
「うわ……」
「……なんで、ウチらじゃなくて、液体のほうなん?」
アリアが眉をひそめる。
タリアだけは、声を出せなかった。
怪物は、彼女の目の前で四つん這いになり、まるで“安堵”したような動きで自分から吹き出た紫の液体を舐め続けている。
息ができない。
視界がブレる。
恐怖は、痛みよりも暴力的だった。
その間にも、アリアとアルミアは戦い続ける。
「アル、そっち回せ!」
「分かってる!」
アルミアが腕を絡め取って四つん這いの怪物の崩れた顔面を地面に踏み伏せ、アリアの追撃の蹴りが怪物の側頭を捉え踏み潰した。
ぐしゃ、と鈍い感触。
紫の体液が飛び散りアルミアの押さえつける体が暴れる。
「……っ、この……!」
アリアがもう一撃、怪物の首元を蹴り砕くと――
怪物の身体はゆっくりと崩れ落ちた。
痙攣が止まりアルミアが握る長く伸びた腕の力が抜けた。
「……終わり?」
「みたいやね」
アリアが深く息を吐く。
「班長さん!」
アルミアがタリアの元へ駆け寄る。
タリアは壁にもたれたまま、まだ立ち上がれていなかった。
腕は痺れ、脚は震え、呼吸は乱れたまま。
「だ……大丈夫、だ……っ」
震える声は実際の怪我の痛みよりも、恐怖で壊されていた。
タリアを心配するアルミアをアリアが呼ぶ。
「行くで、アル」
顔や髪に飛び散った液体を拭いながら進む準備をしている。
「おい、二人とも……どこへ、行く気だ……」
「この先に施設が続いとる。さっきの怪物とカプセルだけちゃう。何があるか分からんけど……オモロそうやし見に行くしかないわ」
「だ、だめだ……!」
タリアは声を張り上げるが――
足は一歩も動かせない。
「お前たちは囚人だ……!勝手に動くなど……!」
「上が嘘ついとるのはもう、丸見えやろ?」
「っ……!」
タリアの喉が鳴った。
反論できなかった。
事実が、もう目の前に転がっている。
自分が恐怖で動けなくなるほどの未知。
囚人たちの“移送”という虚偽。
この地下施設そのものの異常。
すべてがタリアの常識を食い破っていた。
「……っ、行くな……行っても、“帰って来れない”……」
その声は、班長としての命令ではなく――ひとりの人間の哀願のようだ。
「お姉ちゃん、もう一体残ってるけど大丈夫かな?」
アルミアが指さす先にはおそらく同族が倒されたにも関わらず、未だに流れ出る液体を啜り続けるカプセルから出てきたばかりの怪物。
「こんだけやっても、なんにもせんなら大丈夫やろ」
アルミアもアリアと同じく進む準備をした。
「班長さん…ウチら多分戻って来るからな、助けも来るし、もう少しだけここに居てな」
「……ッ、待て……」
二人は振り返らない。
そのまま、薄暗い通路へと歩き出す。
タリアの震える声だけが、後ろから追いかけた。
「二人とも……戻って……戻ってこい……!戻って来てくれ…」
返事はなかった。
地下の通路は静まり返り、遠くに、機械の低い唸りだけが続いている。
タリアの目の前では、怪物が紫の液体を啜り続けていた。
ぴちゃ……ぴちゃ……
その音だけが、タリアの心臓に針のように刺さる。
(戻ってこい……お願いだから……)
恐怖と、責任と、理解を超えた未知が、
タリアの身体を縛り続けた。




