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短編集

冬の郵便受け

作者:

 朝の冷たい空気が、アパートの廊下をゆっくりと流れていく。外階段の鉄が白く曇り、霜が薄く張りついていた。高村航平は手袋越しにポケットの鍵を探り、錆の浮いた郵便受けの蓋を開ける。

 中には広告の束と、小さな白い封筒が一通。宛名は「高村航平様」とだけあり、差出人はない。表面の紙はほんのりと冷えていて、指先にしっとりとした重みを感じた。


 部屋に入ると、暖房の効ききらない空気が背中にまとわりつく。封を切ると、便箋一枚に整った文字が並んでいた。


> 駅前の桜のつぼみが、少しふくらんできました。まだ風は冷たいけれど、春が近いのだと思うと、うれしくなります。




 それだけ。署名も日付もない。

 間違いだろう、と航平はテーブルに置き、コーヒーを淹れ始めた。窓の外では、隣の屋根から細い氷柱が揺れ、朝の陽にちらちら光っている。


 彼は地方から上京し、デザイン事務所で働いている。だが同僚との会話は必要最低限で、休日はほとんど外出しない。東京の街の雑踏も、電車の混雑も、まだ馴染むことができなかった。



---



 次の日曜、郵便受けを開けると、また白い封筒があった。今度の手紙には、近所の野良猫の話が書かれていた。


> 商店街の八百屋の裏で、三毛猫がひなたぼっこをしていました。店主に聞くと、去年から毎日そこにいるそうです。今日は少しだけ耳をかいてもらいました。




 不思議なことに、その情景が脳裏に鮮やかに浮かんだ。暖かな日差しの中、丸まる三毛猫の毛並み。八百屋の軒先に漂う、みかんの甘酸っぱい匂い。

 以来、日曜の朝は郵便受けを覗くのが習慣になった。封筒は週に一度、必ず届く。


 手紙には、霜柱の並ぶ朝の道、閉店間際の飴屋、干した布団の匂いなど、何でもない日常が書かれていた。だが、その「何でもない」風景は、航平にとっては眩しく、どこか懐かしかった。


 ある手紙にはこうあった。


> 公園のベンチに座ると、遠くで子どもたちの笑い声がしました。背後の木々から、カサコソと落ち葉の音。冬の陽が、ほんの少しだけ背中を温めてくれました。




 航平は手紙に描かれた場所を探し、休日に訪れるようになった。駅前の桜並木、商店街の飴屋、公園のベンチ。歩くたびに、自分がこの町に少しずつ溶け込んでいくような感覚があった。



---



 三月の半ば。白い封筒は来なくなった。

 一週間、二週間……日曜の朝に郵便受けを開けても、広告と公共料金の通知だけが入っている。胸の奥に、小さな穴が空いたような感覚が残った。


 落ち着かなくなった航平は、手紙に出てきた風景をたどることにした。商店街の花屋に立ち寄り、店先に並ぶチューリップの赤と黄を眺めながら、思い切って声をかける。

「すみません、この辺に……こういう手紙を送っていた人、知りませんか?」


 老婦人の店主は驚いたように目を瞬かせ、やがて頷いた。

「それは、佐々木さんの息子さんのお嫁さんじゃないかしら。この町の景色が好きで、よくスケッチや文章を書いてたのよ。でもね、少し前から病院に入っていて……」


 店の奥から微かに流れるラジオの音。外では、風に揺れるのぼりがカサカサと鳴っていた。航平の耳には、それらが妙に遠く響いた。



---



 春の終わり、航平は意を決して病院を探し出し、お見舞いの手紙を書いた。


> あなたの手紙を毎週楽しみにしていました。書かれていた景色を見に行くうちに、この町が少し好きになりました。早く元気になってください。




 数日後、淡い桃色の封筒が届いた。


> あなたが手紙を楽しみにしてくれていたと聞き、とても嬉しいです。退院したら、また町の景色を送ります。私も、この町の春をもう一度見たいと思っています。




 その日、駅前の桜は満開だった。花びらが風に舞い、足元に淡い絨毯を敷き詰める。

 航平は立ち止まり、胸ポケットから便箋を取り出した。


> 駅前の桜は、今年も変わらず美しいです。風が吹くたび、花びらが笑うように舞っています。




 便箋を封筒に入れ、ゆっくりとポストに投げ入れた。

 春の光が、アパートの古い廊下を静かに照らしていた。

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