第六話:癒しの光
どれほどの時間が経っただろうか。洞窟の中では、ただ銀色の瞳と灰色の瞳が、互いの存在を確かめるように静かに交差していた。
先に動いたのは、フィオナだった。
彼女は、ゆっくりと、魔獣を刺激しないように一歩、また一歩と距離を詰めた。常人であれば、恐怖で足がすくむ場面だ。しかし、フィオナの瞳には、薬剤師としての冷静な光と、目の前の命を救いたいという強い意志が宿っていた。
「……グルゥ」
魔獣が再び低い唸り声を上げる。しかし、その声には先程までの敵意はなく、むしろ戸惑いの色が滲んでいた。なぜ、この人間は逃げないのか。なぜ、自分に近づいてくるのか、と。
「……あなたを、助けたい」
フィオナの声は、静かだったが、不思議なほどよく通った。
「あなたのその傷、呪いによるものでしょう。治癒を阻害し、内側から体を蝕む、悪質な呪いだわ。完全には治せないかもしれない。でも、痛みを和らげることくらいなら、できるかもしれない」
言葉が通じるとは思えなかった。けれど、言わずにはいられなかった。
フィオナは、魔獣から数歩離れた場所で膝をつくと、旅装束の裾を躊躇なく引き裂いた。そして、それを包帯代わりに、唯一の水筒に残っていた貴重な水で湿らせる。
「動かないで。傷口を清めるだけだから」
フィオナは、ほとんど祈るような気持ちで、そっと魔獣の脇腹に手を伸ばした。
その瞬間、魔獣の体が大きくこわばる。銀色の瞳に、再び警戒の色が浮かんだ。フィオナが手を止めると、魔獣は彼女の顔と、その手にある濡れた布を交互に見つめ、やがて、諦めたようにふっと体の力を抜いた。
まるで、「好きにしろ」と言っているかのようだった。
フィオナは慎重に、しかし手早く、傷口の周りの汚れを拭っていく。粘ついた体液と土くれを拭い去ると、改めて傷の深さが露わになった。傷口からは、黒い瘴気のようなものが、ゆらゆらと立ち上っている。
(この瘴気が、治癒を阻害しているんだわ)
本来であれば、浄化作用のある薬草や聖水が必要だ。しかし、ここには何もない。
フィオナは思案の末、一つの賭けに出ることにした。
彼女は目を閉じ、意識を集中させる。体内に流れるごくわずかな魔力を、右の手のひらに集めていく。それは、アールグレイ家では「何の役にも立たない」と蔑まれてきた、微弱な魔力だった。
(でも、これしか、ない)
彼女は、前世の化学知識を応用した、独自の錬金術式を頭の中に描く。
――体内の水分を電解質と見立て、魔力を触媒として微弱な電流を発生させる。その電流で、傷口周辺の呪いの構造を不安定化させ、自然治癒力をわずかでも引き上げる――
それは、通常の錬金術師が思いもよらない、荒唐無稽な理論だった。
フィオナの手のひらが、淡い、蛍のような光を帯びる。
「……!」
銀色の瞳が、驚きに見開かれた。
フィオナは、その光る手のひらを、恐れることなく魔獣の傷口へと、そっと重ねた。
ピリ、と微かな静電気が走るような感覚。フィオナの魔力が、呪いの瘴気に触れ、中和されていく。瘴気が、まるで朝霧が晴れるかのように、少しずつ薄らいでいった。
それは、ほんのわずかな変化だったかもしれない。しかし、魔獣にとっては、灼熱の鉄を押し付けられていた場所が、ひんやりとした清流に変わったかのような、劇的な変化だった。
苦痛に満ちていたその表情が、ほんの少しだけ和らぐ。
やがて、フィオナの魔力が尽き、手のひらの光が消えた。額には玉のような汗が浮かび、くらりと眩暈がする。
フィオナは、裂いた布で傷口を優しく覆うと、その場にぺたんと座り込んだ。
「……今日は、ここまで。また、明日」
そう言い残し、フィオナは洞窟の入り口近くまで戻ると、壁に寄りかかって目を閉じた。疲労は限界だったが、不思議と心は満たされていた。
静かになった洞窟の奥で、銀色の瞳が、傷の手当てをしてくれた小さな人間の背中を、じっと見つめていた。その瞳から、長年宿っていた憎悪と絶望の色が、また一つ、静かに消えていった。