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第五話:洞窟の主と、銀色の瞳

 洞窟の奥は、フィオナが想像していたよりも深かった。壁を伝いながら慎重に進むと、やがて空気が変わるのを感じる。ひんやりとした岩の匂いに混じって、濃密な魔力の気配と、そして、微かな血の匂いがした。


 唸り声が、すぐ近くから聞こえる。


 角を曲がった先、わずかに開けた空間に、その「主」はいた。


「……っ」


 フィオナは息をのんだ。


 それは、まさしく異形の獣だった。狼のようにも見えるが、その体躯は馬よりも大きい。全身が、夜の闇をそのまま固めたような、漆黒の毛皮で覆われている。そして何より異様なのは、その額から突き出た、ねじれた二本の角と、爛々と赤く輝く六つの瞳だった。


 魔獣。


 間違いなく、おとぎ話に出てくるような、凶悪な魔獣だ。


 しかし、その魔獣は、フィオナが想像していたような獰猛さを見せることはなかった。それどころか、ぐったりと壁に身を横たえ、浅く、苦しそうな呼吸を繰り返している。その脇腹には、黒い岩で裂いたような深い傷があり、そこから流れる血が、魔獣の体をさらに黒く濡らしていた。


(……怪我を、している?)


 フィオナの足が、恐怖で縫い付けられたように動かなくなる。逃げなければならない。理性はそう叫んでいるのに、薬剤師としての本能が、目の前の「患者」から目を逸らすことを許さなかった。


 じっと観察すると、魔獣の傷口の周りの毛が、不自然にごわついているのが分かった。まるで、何か粘性の高い液体が付着して固まったかのようだ。そして、傷口そのものも、治癒しようとする気配が全くなく、むしろじくじくと熱を持っているように見える。


(あれは……毒? いや、呪いの類いかもしれない)


 この土地そのものを蝕む呪いが、魔獣の体を内側から破壊しているのだとしたら。


 フィオナの脳裏に、いくつもの薬草の配合と、解毒のための錬金術式が浮かび上がる。しかし、今は何の道具も材料もない、丸腰の状態だ。下手に近づけば、最後の力で引き裂かれて終わりだろう。


 どうするべきか。フィオナが逡巡していると、不意に、魔獣がゆっくりと頭をもたげた。


 六つの赤い瞳が、洞窟の入り口に立つ侵入者――フィオナを捉える。その瞳には、苦痛と共に、深い絶望と、そして、人間に対する燃えるような憎悪の色が宿っていた。


「……グルルルゥ」


 喉の奥で、低い唸り声が響く。敵意に満ちたその視線に、フィオナの背筋が凍った。殺される。そう思った瞬間だった。


 魔獣が、ふっと顔をしかめ、その六つの瞳のうち、四つを閉じた。そして、残された二つの瞳が、ゆっくりと色を変えていったのだ。


 燃えるような赤から、憎悪の炎が消え、まるで静かな夜空を映した湖面のような、澄んだ銀色へと。


 その銀色の瞳は、もう魔獣のものではなかった。


 苦痛に耐えながらも、そこには確かな知性の光が宿っていた。それは、紛れもなく「人間」の瞳だった。


 銀色の瞳が、フィオナの姿をじっと見つめている。まるで、値踏みをするように、あるいは、何かを問いかけるように。


 フィオナは、動けなかった。


 恐怖ではない。目の前で起きている、信じがたい現象に、ただただ圧倒されていた。


 魔獣の体に宿る、人間の瞳。


 この呪われた荒れ地で、フィオナは、自分と同じように理不尽な運命を背負わされた、孤独な魂と出会ってしまったのだ。


 静寂の中、フィオナと銀色の瞳が見つめ合う。言葉はない。しかし、二つの孤独な魂は、確かに互いの存在を認識していた。それは、絶望の大地で芽生えた、奇跡のような邂逅だった。

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