第四話:呪われた荒れ地と、自由の味
馬車に揺られ、どれくらいの時間が経っただろうか。
最後に与えられたパンはとうに尽き、喉の渇きは限界に達していた。そして、無情にも馬車の扉が開けられ、フィオナは文字通り、荒れ果てた大地へと突き落とされた。
「……ここが」
目の前に広がる光景に、フィオナは言葉を失った。
空は、病的な紫色と、不気味な黄昏色のグラデーションを描いている。大地はひび割れ、乾ききった土は生命の色を一切感じさせない。草木一本なく、代わりにねじれた黒い岩が、まるで巨大な獣の骨のように、あちこちから突き出ていた。
呪われた荒れ地。
噂に違わぬ、死の世界だった。
御者は何も言わず、すぐに馬車を返し、走り去っていく。あっという間にその姿は見えなくなり、フィオナは、本当に世界に一人きりになった。
しん、と静まり返った大地に、乾いた風が吹き抜ける。その音は、まるで亡者の囁きのようにも聞こえた。
普通なら、ここで絶望に泣き崩れるのだろう。けれど、不思議とフィオナの心は凪いでいた。涙は、とうに枯れ果ててしまった。
(……終わった)
伯爵令嬢フィオナ・アールグレイとしての人生が。
搾取され、蔑まれ、偽りの自分を演じ続けた日々が。
(……そして、始まった)
名もなき、ただのフィオナとしての人生が。
彼女はゆっくりと立ち上がると、深く、深く息を吸い込んだ。空気は乾いて埃っぽかったが、そこには、あの息の詰まるような屋敷にはなかったものがあった。
「……自由」
ぽつりと呟いた言葉は、自分でも驚くほど、しっかりとした響きを持っていた。
もう、誰かのために薬を作る必要はない。誰かと比べられ、見下されることもない。誰かの顔色を窺い、自分を殺して生きる必要もないのだ。
(死ぬために、ここに送られた。でも)
フィオナは自分の両手を見つめた。この手には、膨大な知識がある。前世で学んだ科学の知識と、この世界で磨き上げた錬金術の技術。それは、誰にも奪うことのできない、フィオナだけの財産だ。
(生きるために、使ってやる)
そう決意した瞬間、彼女の灰色の瞳に、強い光が宿った。薬剤師としての冷静な思考が、頭を支配し始める。
まず、確保すべきは水と寝床。
この乾ききった大地で、水を見つけるのは至難の業だ。しかし、フィオナは諦めなかった。前世の地質学の知識を思い出す。植物がないということは、地表近くに水脈はない。だが、地形を読めば、地下に水が集まる場所を見つけられるかもしれない。
彼女は、周囲で最も大きな、黒い岩山に向かって歩き始めた。岩陰ならば、夜露をしのげるかもしれないし、ねぐらになる洞窟が見つかる可能性もある。
歩きながら、フィオナは地面の土を少量指に取り、その質感を確かめた。
「……これは、塩害? いや、もっと別の、強いアルカリ性物質……」
呪い。人々がそう呼ぶものの正体は、あるいは極端な土壌汚染なのかもしれない。だとしたら、錬金術による「中和」が可能なのではないか。希望の光が、ほんの少しだけ見えた気がした。
どれくらい歩いただろうか。岩山の麓にたどり着いたフィオナは、風雨に侵食されてできた、人が一人やっと入れるくらいの小さな洞窟を見つけた。今夜の寝床は、これで確保できる。
ほっと一息ついた、その時だった。
――グォンッ
地の底から響くような、低い唸り声。
それは、明らかに人間の声ではなかった。洞窟の、さらに奥深くから聞こえてくる。
びくりと肩を震わせ、フィオナは息をのんだ。荒れ地に跋扈するという、魔獣だろうか。最悪のタイミングで、獣の巣に入り込んでしまったのかもしれない。
後ずさりしようとしたフィオナの足が、ふと止まる。
聞こえてきた唸り声には、威嚇や敵意だけではない、何か別のものが混じっているように感じられたからだ。それは、まるで、耐えがたい苦痛に呻いているかのような……。
好奇心か、あるいは薬剤師としての性か。
フィオナは、恐怖に震える足を叱咤し、音のする洞窟の奥へと、一歩、足を踏み入れた。絶望の果てに見つけた寝床で、彼女は、自身の運命を決定づける「何か」と出会おうとしていた。